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試し読み

あたたかい涙が流れるファンタジー小説の名手、村山早紀さんの新作から、第1話「遠い約束」を試し読み!#3

この世界の夜と眠りを守るのは、まるで天使のような、魔女たちでした――。
人気作家・村山早紀さんの待望の新作小説『魔女たちは眠りを守る』が4月16日に発売!
今回特別に、全7話の中から、第1話「遠い約束」をお届けします。
懸命に生きて、死んでゆくひとの子と、長い時を生きる魔女たちの出会いと別れの物語、ぜひお楽しみください。

>>前話を読む

 ◆ ◆ ◆

 港のそばの古く寂れた商店街、三日月通りのカフェバー『魔女の家』に、書店員の叶絵は、そういうわけで足を踏み入れた。
 謎めいた長い赤毛の少女の白い手に引かれて。空には銀色の光を放つ満月。春のひんやりとした夜風には、ときにちらほらと桜の花びらが舞う。そんな夜のことだった。
 踊るような足取りで一歩先に歩き、店の放つ光の中に軽やかに足を踏み込んだのは、夜の精霊のような黒くつややかな毛並みの猫で、金色の瞳で叶絵を見上げ、口元に笑みを浮かべた。
 ──そんな馬鹿な、と自分で思ったけれど、たしかにそのとき、猫はまるでチェシャ猫のように笑ったのだ。

 店の中は、優しく穏やかな光に包まれていた。あたたかなろうそくの火のような、ランタンの光のような、どこか懐かしい色の光。思い出の中にある光みたいな色だ、と叶絵は思った。
 扉が背後で閉まると、夜の冷たさ、寄る辺なさから切り離されたようで、叶絵はほう、とため息をついた。凍ったからだが溶けてゆくように、肩に入っていた力が抜けてゆく。
 その店は、とても美しかった。
 どれほどの歴史のある店なのか、古いものが好きな叶絵は、口を半開きにして、店のそこここに視線をめぐらせた。
 天井には、しんちゅうが金色の光を鈍く放つしょうしゃなシャンデリア。の花束をかたどったりガラスの灯りは、いい感じに古めかしく、絵のように美麗だった。よく磨かれ、おそらくはたくさんのひとびとの足がその上を歩いただろう木の床は、シャンデリアが放つ光を受けて、つややかに光る。
 耳に心地よく響くのは、壁にかけられた時計が時を刻む音。小さな扉は閉じているけれど、木に刻まれた鳥の意匠からして、カッコウ時計のようだ。
 さほど広くはないけれど、けっして狭くもない店内には、テーブル席がふたつにカウンター。これもつややかな木のカウンターには大小のボトルシップが並べられ、古いガラス瓶は飴色がかった光をほのかに放っている。そのそばの棚には、様々な時代の飛行機と飛行船、気球の絵や模型が飾られている。
 カウンターの中には、銀色の髪を短くカットした、美しい、やや高齢の女性がいる。モデルのように長身で細身の姿に、よくからだに馴染んだ麻のエプロンをかけているところを見ると、店のひとなのだろう。彼女は、黒く大きなレコードをカウンターの端にある古いプレイヤーに載せようとしていたところだった。
「おや、お帰りなさい、『ご同輩』ナナセ」
 銀髪の女性が、銀色の長いまつを揺らしてまばたきし、赤毛の少女に視線を投げる。
「ただいま、『ご同輩』ニコラ」
 少女は笑顔で応え、カウンターの椅子に半ば飛び乗るようにして腰をおろす。
「ごめんなさい。思ったより遅くなっちゃった。すぐ帰ってきて、いろんな『手続き』をするつもりだったんだけど、この街、久しぶりでつい」
 懐かしくて、と笑う。思い出したように腰を浮かせ、コートのボタンをはずしながら、
「さっきお話ししたでしょう? わたし、この街は二度目なんですもの。前は行きずりの旅の途中で、長くは暮らさないままにここを離れたから、そんなにたくさんの思い出はないはずなのに、不思議ね」
 銀髪の女性は微笑み、優しい仕草でコートを受け取る。
「お気持ちわかりますよ。何度でもおいでませ。この街はほんとうにいい街ですもの。数百年暮らしていても、飽きないほどに。だからわたしのように、ここに根っこが生えてしまうものもいたりして」
 目と目を合わせて、くすくすとふたりは笑う。
 カウンターの中の女性と赤毛の少女と、見た目の年齢は祖母と孫娘くらいに違うようなのに、そうして話している様子は、不思議と同世代の友人同士の会話のようにも見えるのだった。
 そして赤毛の少女は、立ちつくしていた叶絵の方を振り返り、手招きするようにして、自分の隣の席へと招いた。
「お客様ですね。いらっしゃいませ」
 銀髪の女性が、美しく皺の刻まれた口元で微笑む。カウンターから出て、叶絵の冬のコートを脱ぐように促し、ハンガーに掛けてくれた。
 叶絵がおぼつかない動作で、カウンターの椅子に腰をおろすと、いつの間に準備していたのか、ほかほかと湯気を立てる、白く熱いおしぼりを差し出した。──湯気からは、どこか不思議な、淡い香草の香りがした。
「ねえ、お嬢さん。こんな寒い夜に、そんな寂しげな様子で歩いてちゃいけません」
 優しい声がささやいた。ニコラと呼ばれたひとの声。
「こんな、冬が帰ってきたような寒い夜、『ひとの子』はみんな凍えて家路を急ぎ、それぞれの住処に帰り着いたものかと思っていましたよ。ご同輩の帰りを待ちつつ、好きな曲でもとりとめもなく聴いて、のんびりしようかと思っていたんですが」
 音楽を聴くような、よく響く、麗しい声だった。女優が舞台の上で何かを語るような、そんな声だったといってもよい。
 カウンターに戻った彼女の傍らには、古い水槽があり、色とりどりの宝石のような海の魚たちが、さんの森の中を、ゆっくりと泳いでいた。
「凍えた心には、きっと魔が差してしまうから」
 赤毛の少女が、椅子から下がる足をひとつ大きく揺らすと、明るい声でいった。
「もう大丈夫よ。さっきちょっと危なかったんだけどね」
 少女は叶絵に視線を向けて、いたずらっぽい表情で見上げて笑う。
「おとなになっても危なっかしいところがあるのは昔と変わらないのね」
「──?」
 少女はただにこにこと笑っている。
 そして銀髪の女性を見上げて、
「あたたかい飲み物をくださいな。そう、ココアがいいな。昔風に、お砂糖多めで甘くして。それから、猫舌でも大丈夫なように、少しだけ、ぬるめにして欲しいの」
「はいはい」
 銀髪の女性は笑い、使い込まれたような片手鍋を手に取り、ココアが入っているらしい缶を戸棚から出す。少女はそれに声をかける。
「こんな夜には断然ココアよね。わたしがご馳走するから、こちらのお嬢さんにもお願い」
「あ、いえ」
 自分で払います、といおうとして、無意識のうちにお財布を探そうとしたその手を、少女の白い手が押しとどめた。
「『前』はおごってもらったから、今夜はわたしがご馳走するわよ」
 そんなことあるわけない。この子と飲み物を飲もうとするのは、今夜が初めてのはずだ。そう思いながらも、ずいぶん昔、高校生のときの記憶が、ふたたび脳裏によみがえる。鼻に感じる甘い香りと同時に。
 昔々の寒かった春、赤い髪の転校生と自動販売機に辿り着いたとき、彼女は財布を持っていなかった。だから、叶絵が彼女の分と自分の分とふたつ、缶ココアを買ったのだ。
「ありがとう。次はわたしがおごるわね」
 彼女は笑顔でそういったけれど、「次」はなかった。すぐに彼女はいなくなってしまったからだった。おそらくはどこか知らない街へひとり旅立った。
 それっきり、彼女と出会うことはなかった。
 いま、赤毛の少女の隣の席に座りながら、叶絵は目をしばたたかせる。この子はなんだかあの子に似ているような気がする。赤毛の転校生。一か月の間だけこの街にいて、すぐにまたいなくなってしまった、不思議な転校生に。
 風の強い春の日に転校してきて、また風の日に去っていった、あの子に。
(でもあれは、ありえない)
(夢の中の出来事としか、思えない)
 その証拠のように、かつてのクラスメートたちは彼女のことを覚えていない。同窓会で話題にしても、ひとりとして覚えていないのだ。あの春の一か月、叶絵はたしかに彼女と同じ教室にいて、図書館に通って、いろんな会話をした記憶があるのに。
 叶絵の他は誰も、赤毛の転校生のことを知らないという。まるで叶絵の心の中にだけ存在し、消えていった幻のように。

(でも、わたしは覚えている)
 たしかに自分の記憶として残っている、春の夜の不思議な出来事がある。あの春の夜の氷のように冷たかった夜風も、彼女と見た美しいものも、自分の想像が生み出したものとは、叶絵には思えない。あんなリアルな妄想、自分には無理だとまで思う。
 けれどそれは、ほんとうにあったことなのか。叶絵はその夜の出来事に思いをめぐらせるたびに、迷いに迷った末、いや、やはりありえない、と首を弱く横に振ってしまうのだ。
 そう思ううちに、いつか思い出は古い化石のように記憶の断層の下に押し込められ、しまい込まれ──結果、忘れられつつあったのだ。
(だって、ひとは記憶を書き換えるから)
 ひとはときとして、想像と妄想を、自分のほんとうの記憶と置き換えてしまう。
 叶絵は夢見がちな子どもで、少女だった自分を覚えているから、高校時代の自分の記憶を信じ切る気持ちになれないのだ。ましてやあんな夢そのもののような記憶──。

「あ、彼女は猫舌じゃないから、ぬるくなくても大丈夫よ。──ね、平田さん?」
 そう呼びかけられて、叶絵はおしぼりを手にしたまま、動きを止める。
 この子に自分は名前を教えていただろうか?
(やっぱり、どこかで会ったことがあるのかな。やっぱり、お店のお客様──?)
 そう考えるのが自然なことのような気がして、叶絵は記憶を懸命に探ろうとした。
 鍋から緩やかに、ココアを練る甘い香りがたなびいてきた。うつむいて銀のさじでココアを作る銀髪の女性の仕草は、どこか大鍋で薬を作る魔女めいて見えて──。
(そうだ、魔女だ──)
 叶絵は、遠い日の記憶を思い返す。
(あれは、あの言葉は、やはり夢で聞いたものじゃないと思うんだ──)
 たしかにほんとうにあったことだと思うのだ。

 放課後の高校の図書館で、窓越しに射す黄昏時の日の光に染められるようにして、赤毛の少女はささやいたのだ。幼く聞こえる、やや舌足らずな声で。
「だってわたしは魔女だもの。ひとりで生きて、長い長い生涯を旅し、世界中をさすらって、いつかひとりで死んで、地上から消えてゆくの」
 人形のように愛らしい姿に、紺色のセーラー服がよく似合っていた。その肩にかかる長い赤い髪に、白いスカーフに、夕暮れ時の光が魔法めいて躍って見えた。
 ずっとひとりで生きてきた──彼女はそういったのだ。ふたりだけの図書館で。
 あれも春だった。あの年も冷たい春。強い風が満開の桜の花を散らし、図書館の大きな窓の外に、流れるように花びらが舞っていた。
(物語の中に入ったみたいだ──)
 叶絵は思っていた。腕に抱いた数冊の、読みかけの物語の本の重みを感じながら。
 こんなお話の世界にしかないような言葉を、自分の耳が聞く日が来るなんて思わなかった。
 ──いや、子どもの頃からそれに憧れてはいたけれど、まさかそんな機会がこの世にほんとうにあるだなんて。自分にそれが訪れるなんて。
 胸がどきどきした。自分のために用意されていた、不思議な世界への扉があったなんて。
 頭の中で、冷静な叶絵が、「そんなこと絶対にあるわけない」と打ち消そうとする。
(こんなの、リアルじゃない。魔女なんて、実在するはずがない。この転校生は噓をついてるのよ。適当な話を思いつくままに話して、ひとをからかって楽しんでるの)
(そうでなきゃ、ごっこ遊びよ。もう高校生なのに、馬鹿みたい)
 けれど、夢の中の登場人物にたずねるような思いで、叶絵はあの日、赤毛の転校生にいていた。口が勝手に動いて、言葉を紡ぎ出していた。
「──あの、じゃあ、いつか」
 そう、叶絵は、彼女に訊ねたのだ。
「もしかして、ななかまどさんは、いつか、この街を離れてしまうの? どこかに旅立つの?」
 来たときと同じに。『風の又三郎』のように、強い風に吹かれてどこかに消えていってしまうの?

 少女は肩をすくめるようにした。子どもっぽく見える仕草で。
「この街にはもともと来る予定じゃなかったの。遠くに行く途中に、少しだけ休むための滞在のつもりだったの。なのに、長くいすぎたから。──だから、そろそろ行くわ」
 この街には長くいられない。だって、この街にはもう街を守る魔女がいるんですもの。ひとつの街には、ひとりの魔女がいれば充分。
 彼女は、物語の本の中に出てくるような、謎めいた言葉を口にして、寂しげに笑った。
「いつもは誰にも黙って街を離れるんだけど、あなたには話しておきたくて。きっとあなたは、わたしのことなんて忘れてしまうと思うんだけど。わかってても、伝えたかった。
 さよならと、お礼の言葉を」

(夢の中の記憶のような気がしていたんだ)
 喉が渇いた。
 忘れなかった、覚えていたけれど、でも──あの記憶がほんとうのことだと信じ続けるのは、少しだけ難しかった。
 叶絵は、震える手を握りしめた。
 本ばかりさわって、傷だらけ、ほこりだらけの、ごつごつとした大きな手を。
「──七竈さん、あの、七竈さんなの?」
 久しぶりで、その名を口にした。
 不思議な響きの、転校生の名前を。
 夢の中の登場人物に、話しかけるように。
「七竈、ななさん……だよね?」
 名前を呼ぶ、最後の辺りが自信なげに揺らいで消えた。
 けれど赤毛の少女は楽しげに笑い、
「はあい。やっと思い出してくれましたか。図書委員の平田叶絵さん」
 ほおづえをついて、叶絵をのぞき込むように見上げた。
 カウンターに飛び乗り、そのそばに腰をおろした長い毛の黒猫が、
『まったく察しが悪い』
 と、甲高い声でいった。『この子ったら、やっと思い出したの?』
「そういわないの」
 赤毛の少女──七瀬の手が、猫のつややかな黒い背中を撫でた。
「わたしは平田さんが、わたしの名前を覚えていてくれたというだけで、十二分に幸せよ。それだけでも、この街に帰ってきた甲斐があったと思ってる。嬉しかったわ」
 だって、と黒猫は不満そうに長いひげを揺らした。
『この子、あなたに、昔と今夜で二度も命を救われたのに、すぐに思い出せないなんて。ナナセは、ずっと覚えてたのに。何度も何度も、この子の話をわたしにしてたのに』
 赤毛の少女はただ微笑んで、黒猫の背中を撫で続ける。
 猫はさらにいい募る。
『この街に帰ってきて欲しいっていったのは、ナナセのことを覚えてるって約束したのは、この「ひとの子」なのに』

(そうだ)
 叶絵は、手を握りしめる。
 あの日、叶絵がいったのだ。
 この街にまた帰ってきて欲しい、と。

(つづく)



村山早紀魔女たちは眠りを守る』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321912000467/


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