この世界の夜と眠りを守るのは、まるで天使のような、魔女たちでした――。
人気作家・村山早紀さんの待望の新作小説『魔女たちは眠りを守る』が4月16日に発売!
今回特別に、全7話の中から、第1話「遠い約束」をお届けします。
懸命に生きて、死んでゆくひとの子と、長い時を生きる魔女たちの出会いと別れの物語、ぜひお楽しみください。
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◆ ◆ ◆
別に特別
ただ少しずつ──たぶん丈夫な金属がわずかな力を繰り返し加えられているうちに、少しずつ傷んでいって、いつか傷ついたり折れたりするように、自分の心も折れそうになっているんだろう、と叶絵は思う。
たとえばそれは、売れ筋のコミックやビジネス書が、気がつくと一冊二冊と万引きされていたり、濡れた折りたたみ傘を、雑誌の上に載せて立ち読みをしているお客様がいたり、雑誌や新刊が
そんな中で、今日、休憩時間に新作のコミックスのPOPをバックヤードで作っていたら、眉間に皺を寄せた店長に、
「そんなものは作らなくていいよ」
と、不意にいわれた。「時間が
そのひとは若い頃から同じ店で働いていた尊敬すべき書店人であり、もっというなら、学生アルバイトだった頃の自分の採用を決めてくれたひとでもある。POPを描くこと、その描き方を教えたのも、そもそもがそのひとだ。うまいものができれば褒めてくれもした。
そんな店長にいわれた一言が胸に突き刺さるようだった。
そんなもの──よりによって、「そんなもの」呼ばわりをするなんて。
優しい気遣わしげな表情で、言外の意味はわかっていた。人手が足りなくてぎりぎり働いているのだから、休めるときには休みなさい──店長はそういいたいのだ。
それがわかっていて、でも、「そんなもの」の一言は受け入れがたかった。
POPを描くこと、自分が薦めたい本を見出し、お客様に呼びかけ訴えて、そうして売り上げを上げることは、正しいことだと思ってきた。
一冊の本が選ばれ、売れていくこと──それは本に関わる現場にいる、ありとあらゆる人間が幸せになれることだ。そのために自分はここに、店にいるのだと叶絵はずっと思ってきた。
(なのに──)
唇を
わたしがしてきたことって、なんだったんだろう?
街の片隅で、本屋のお姉さんとして、ただ本棚と向かいあい、面白い本を探し続け、売り続けてきた日々。激務の中で、他の職種に就いた友人たちと違って、遊ぶことも旅することもなく、ただ店の棚の前に立ち、雑誌や新刊の入った箱を開け、お客様から注文を受け、売れなかった本たちを謝りながら返品として箱詰めし、レジの前に立ち続けた日々。
紙で何度も指先を切り、本がぎっしりと詰まった重たい段ボールで何度も腰を痛め、いつの間にか汚れていくエプロンに包まれながら、一日を終えて、立ちつくし走りつくして棒になった足を引きずるようにして、ひとり住まいの暗い部屋に帰る──コンビニで買った弁当をあたため、遅い時間のニュースや録画したドラマやアニメを見ながら食べる。
そんな暮らしを、それなりに充実した楽しい毎日だと思っていたし、実際、親兄弟や友人たちには冗談めかしてそう話していたけれど、ほんとうのところは、どうだったろう。仕事にやりがいがあるから、と悲壮な使命感を持って、頑張ろうとしてきただけなのかも知れない、と気づいてしまった。
「──ああ、なんか疲れたなあ」
水路に満ちる水の音が、とてつもなく優しく聞こえた。
呼ばれているような。──あの水はどれくらい深いのだろう?
あの水の中に入れば、心地よく眠れるような気がした。──そうだ、そこに入ってしまえば、二度と目覚めなくても済むのかも知れない。目覚まし時計の音で叩き起こされるような朝とはさよならできるのかも。ずっとずっと起きなくていいのかも。
ここしばらく寝付けなかったのと疲れが
簡単なことなんだなあ、と思った。
このまま少しだけ前に進んで、水の中に入れば。永遠に朝が来ない世界に、お引っ越しができるのかも知れない。
水はどこまでも優しく、穏やかに見えた。
世界中のどんな羽毛布団よりも、すてきな寝床がそこにあるように見えて。
そのときだった。
誰かの手が、そっと背中に触れたのは。
あたたかな、小さな手だった。
「ねえ、寂しいときは、ひとりで暗いところにいてはだめなのよ」
耳元で、声が聞こえた。ふわりと風が吹いてくるような、柔らかい声だった。
女の子の声だと思ったけれど、おとなの声のようにも聞こえる、ちょっと年齢のわからない、ただ、とても懐かしい声だと思った。
聞いたことのある言葉のような気がした。
夢の中にいるような思いのまま、そっと振り返る。長い赤毛の娘がそこにいる。薄暗闇の中、真上の月の光に照らされて、にっこりと笑っている。
(あ、この子知ってる──)
一目見たときにそう思い、でもすぐに否定した。高校生か大学生くらいだろうか。ちょっと年齢がわからない感じだけれど、これくらいの年頃の子に知り合いはいないはずで──。
(お客様かな?)
店で会ったことがあるのかも知れない、と思い直した。
接客の仕事が長いので、ひとの顔を覚えるのは得意になった。一度だけ見かけたお客様でも、記憶の端に残っていることはある。
この子の方では、とても親しげに、いっそ懐かしささえ感じるようなまなざしで見つめてくれているのだから、やはりどこかで──たぶん店で会ったことがあるのだろう。好きな本の話で盛り上がったりしたこともあるのかも知れない。
叶絵は、本や著者の話で、お客様と会話をするのが好きだった。
本来は外交的な性格ではない。ひとと話すのも得意ではなく、コミュニケーションが得意なわけでもなかったけれど、本の話になれば別だった。
自分が好きな本の話をするのはもちろん、相手が喜びそうな本の話題を探しあてて、喜んでくれそうな本を選んで差し出すことが、何より好きだった。
それは叶絵の生き甲斐で、ある意味書店にいることの意味でもあった。
ずっと昔、小中高と図書委員だった、その時代からの、彼女の何より好きなことだった、といいかえてもいい。
叶絵は本というものが世界の何よりも好きで、本を読むことが大好きで、読むために生きてきた。本の中には──物語の世界には、夢があり冒険があり、たくさんの謎や不思議な魔法や、広々とした草原や、空があった。現実では自分に笑いかけてくれるひとはいないと思えるときも、そこには優しい家族や、友情を誓いあう仲間たちがいた。素敵な恋人だって。
寂しいときも辛いときも、叶絵には本があった。本の世界で息をつき、呼吸を繰り返し、叶絵はまた現実の世界に戻る。その繰り返しで生きてきたのだ。おとなになって強くなるまで、自分がそこまで不幸でも寂しくもなかったのだと知るまで、気があう友人たちができたり、家族とわかりあうことができるようになるまでは、物語の世界に支えられ、励まされて生きてきたのだった。
いまの叶絵は、もうかつての彼女のようには、物語に支えられなくても生きていける。
だけど、それでも、叶絵はいまも本が大好きで、特別に愛おしかった。本を読むことが、世界でいちばん好きなことなのは変わらない。
だから、誰かが本を読むことで幸せになってくれたり、笑顔になってくれれば、何よりも嬉しいのだ。こんなに楽しい本の世界に来て欲しい、一緒に幸せになろうよ、と声をかけたいのだ。
もっというと──口下手で不器用で、かわいくもなく、家族ともうまくいっていなかった自分が、本のおかげで寂しさから救われたように、読みかけの本の続きを読むために明日も生きていこう、と思えたように、寂しい誰かがそうなってくれたらいいな、と思うのだ。
だから叶絵は、本を選び差し出す子どもになったし、のちのち、そういう仕事を選び、働くおとなになったのだった。
その、店のお客様だったかも知れない娘は、小さな白い手を、叶絵に差し出した。
冗談めかしたような声でいう。
「こんな暗いところにいると、魔が差すから、さ、行きましょ」
明るいところへ、と笑う。
「──魔が差す?」
その一言を聞き、口にしたときに、辺りの暗がりのあちらこちらで、何か小さなものたちが耳をそばだてたような、そんな気配がしたのは、気のせいだったろうか。
小さなあたたかい手は、不思議と力強く、叶絵を引っ張り上げるようにして立ち上がらせてくれた。
「──この世界のものは、風も水も、みんな命に優しいけれど、闇の中にはときどき悪いものやいたずらなものたちもいて、心弱い誰かを暗い方へと引っ張り込もうとすることもあったりするから」
物語の中の言葉のようなことをいうんだな、と思った。
その子は何を思うのか、にこりと笑った。
叶絵の手を引いたまま、どこかに歩いていこうとする。
そのままつられたように歩いてしまったのは、勢いに吞まれたのと、やっぱりお客様かも知れないと思うととっさにさからえなかったのと、足下の暗がりから、ひょっこりと顔を出した金色の目の黒猫に虚を衝かれたからでもあった。
ずっと昔に、こんなことがあった、と思った。
長い赤毛の髪の転校生と、彼女が連れていた、ぬいぐるみのようにふわふわの、毛の長い黒い猫と。
彼女がやはり、ある夜にこんな風に、白い手で叶絵の手を引いてくれたのだ。
「寂しいときは、ひとりで暗いところにいてはだめなのよ」
そのときに聞いた言葉だったような気がするのは、とても疲れているからだろうか。
「あたたかいものでも飲みにいかない?」
白い手が、叶絵の手を引く。
懐かしく感じるまなざしが、明るく、叶絵を見上げて、笑う。
「──すぐ近くに、知り合いがやってるカフェバーがあるの。知り合いっていっても、わたしもさっき出会ったばかりなんだけど。今夜は春にしては空気が冷たいし、ホットココアでもいかが?」
よく知らないはずの娘に手を引かれながら歩いても、嫌だとも変だとも思わず、ああそうだ、熱くて甘いココアが飲みたい、と喉が鳴るほどに思えたのは、なぜだったろう。
自分が心底凍えていたのだと、その瞬間に気づいたからだったのかも知れない。
そういわれるまで、気づかなかった。
街灯と月の光に照らされて、赤毛の少女が先を行く。白い手で叶絵の手を引いて。明るい方へ導くように。
(──昔、こんなことがあったなあ)
あのときも、凍えた叶絵の手を引いて、赤毛の少女が歩いてくれた。
明るい方へ。
あのときは、公園の自動販売機に辿り着き、叶絵が缶入りのココアをふたつ買い、ひとつを少女に渡した。少女はココアを口にして、小さく笑った。
「とても
その言葉を聞いて、足下にいた黒猫が金色の目を細め、怪しげに笑ったのだ。
三日月町の、三日月通りの辺りには、叶絵はあまり詳しくなかった。
この辺りは寂れた街外れだし、飲み屋街の印象が強いから、飲酒や賑やかなことをそれほど好まない叶絵はいつもなら足が向かないのだ。
今夜はなぜ、それもこんな遅い時間にひとりで迷い込んだのか──思い返すと、自分でもよくわからない。
これが魔が差す、ということなのかな、と、月の光の下を歩きながら、叶絵は思った。
背筋が寒くなる。
もしこの手を引いてくれる娘がいなければ、自分はどうなっていたのだろう。
あの水路のそばを立ち去ったいまとなっては、自分がなぜあんな風に暗い水に魅入られたのか、よくわからなかった。
「このお店なの」
いくつか暗い路地を抜けて、やがて赤毛の少女は立ち止まり、叶絵を振り返る。
暗い街角に、古く背の高い煉瓦造りの建物が建っている。その一階に大きな窓がある店が灯りを灯し、路地に光を放っている。
『魔女の家』──手書き風の看板がある。
鈴の鳴る扉を、赤毛の娘の白い手が押し開けると、光が路地にこぼれ、叶絵を招くように包み込んだ。
引き込まれるように店の中に足を踏み入れたとき、目の端に、壁に埋め込まれた小さな
刻まれた言葉は、『バーバヤーガ』。この建物の名前なのかな、と思った。
(つづく)
▼村山早紀『魔女たちは眠りを守る』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
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