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試し読み

本屋大賞2位の『ひと』で人気の小野寺史宜さん初の短編集、2話分試し読み!#2

日常の何気ない風景の中から人と人との営みを丁寧に切り取り、それがかけがえのない出会いであることを教えてくれる小野寺さんの小説。最新刊『今日も町の隅で』はまさにそのエッセンスが凝縮された短編集です。登場人物は11歳から42歳の男女。彼らがそれぞれの「選択」に向き合う10話の中から、厳選した2話を公開します!

「梅雨明けヤジオ」(後編)
>>前編はこちら

「よしっ! ナイスピッチ、酒井!」と前列でヤジオが声を上げる。
 ピッチャー酒井さんがバッターを三振させて、みっ高がピンチを切りぬけたのだ。
 こちらのスタンドにいるみっ高生たちが同じく声を上げ、拍手をした。みっ高生だとわかるのは、制服を着てるからだ。
 夏休みでも応援に行くときは制服を着るように、と言われてるのだろう。もしかしたら。先生がそう言ってるからみんな絶対に着ていけよ、と強く言うクラス委員がみっ高にもいるのかもしれない。
 などとちょっといやなことを考えてたら。長野くんがいきなり言う。
「ごめん」
「ん?」
「おれが、何か、変な感じにしちゃって」
「変な感じ?」
「クラスを、というか、島さんを」
 何も言えなかった。いいよ、と簡単に言ってしまえることではない。だからといって、ほんとにそうだよ、とも言えない。
 たぶん、ぼくのせいです、と長野くんに言われたときのわたしのお母さんもこんな気持ちだったのかな、と思う。あのときも、いきなりだったはずだ。長野くんはいきなり訪ねてきて、いきなり謝った。
 でもお母さんは、長野くんを責めなかった。だから長野くんは、こうしてわたしを野球場に誘った。一度めでお母さんに責められてたら、この二度めはなかっただろう。
「ほんと、ごめん」
「いいよ、別に」と言う。言ってしまう。「わたしが勝手に行かなくなっただけだし」
「でも原因をつくったのはおれだから」
「いいって」
 初めてこう考える。原因をつくったのは、長野くんだろうか。
 確かに長野くんはやり過ぎた。がさつといえばがさつだった。でも自分で言ったように、まちがったことはしてない。自習時間に静かにするのは当たり前のことだ。掃除をサボらないのも、当たり前のことだ。先生にじゃなく、同じ児童に注意されるから腹が立つというだけの話。勝手なのは、腹を立てる側だ。タバコのポイ捨てを注意されて、うるせえ、とキレるようなもの。そう見ることもできる。
「何で、委員長をやろうと思ったの?」と尋ねてみる。
「うーん」長野くんは考え、答になってないことを言う。「おれ、前んとこでは、長野じゃなかったんだよね。名字」
「じゃあ、何だったの?」
「コタニ。小さいに谷で、小谷。親が離婚したんだよ」
「あぁ。そうなんだ」
「うん。だから引っ越してきた。こっちが母ちゃんの地元だから」
 地元。住めば地元。お母さんがみつばの出身なら、半分は地元だったわけだ。
「長野は母ちゃんの名字。えーと、旧姓ってやつ。まだそうなって四ヵ月だからさ、慣れそうで慣れないよ。長野って呼ばれても、すぐには気づけなかったりする。自分でも小谷って言いそうになるし」
 こんなこと訊いちゃいけないよなぁ、と思いつつ、訊く。
「何で離婚しちゃったの? お母さん」
「何でだろう。よくわかんない。隠してるわけじゃなくて、ほんとにわかんない。ほら、そういうことって、あんまり話してくんないから。でもケンカはよくしてたよ、離婚する一年ぐらい前から」
 お母さんが長野くんを引きとったのなら。悪かったのはお父さんなのだろう。
「でさ、こっちではもう乱暴なことはしないでって、母ちゃんに言われたんだよね」
「してたの? 乱暴なこと」
「乱暴なことをしてたつもりはないんだけど。ケンカとかはよくしてた」
「ケンカって、口ゲンカとかじゃなくて?」
「殴り合いもしてたよ。前いたかたざとってとこは、もろ田舎だからさ、そういうことがなくもなかったんだよね。まあ、だいたいは、殴り合ったらお互いすっきりするんだけど、なかにはすっきりしないやつもいて、そんなやつの親が学校に文句を言うんだ。で、おれの母ちゃんが謝りに行く」
「へぇ」とだけ言う。
 それは乱暴だよ、と言いそうになるが、言わない。
「こっちは全然ちがうなぁ、と思ったよ。みんな、おとなしいよね」
「おとなしいかもしれないけど。いやな子もいるよ」
「それも思った。陰で何かされそうだなって。片見里では、そういうことはなかったんだけど」そして長野くんは言う。「で、とにかくさ。もう高学年だし、おれ、母ちゃんのためにも、何ていうか、いいやつになろうと決めたんだよね」
「いいやつ?」
「うん。勉強の成績はよくないから優等生にはなれないけど、委員長にならなれるかもって思った」
「それで立候補?」
「そう。推薦されんのは無理だけど、立候補はできるんだから、なれるじゃん」
 一言で言えば、単純。もう一言足せば。高学年なのに、単純。
「ただ、これまで委員長なんてやったことないから、よくわかんなくてさ。とりあえず先生の言うことを守ればいいだろうと思ったんだ。片見里では怒られてばっかいたけど、言うことを聞いとけば怒られないだろう、みんなにも言うことを聞かせれば絶対に怒られないだろうって。そしたら、何か、変な感じに」
「なったね」
「ほんとにわかんなくなったよ、どうすればいいやつになれるのか。で、そんなら自分がやるべきだと思うことをやろうっていうんで。島さんちに行って、謝った」
「ウチのお母さん、何て言った?」
「来てくれてありがとうって。こっちの親だから片見里以上にムチャクチャ言われるだろうと思ってたけど、全然そんなことなくて。ちょっと驚いた。説明がヘタすぎてちゃんと伝わってないのかとも思って、もう一回言ったよ。ぼくのせいですよって。そしたら、そんなことないよって言ってくれた。そんなことあるんだけど」
 何だろう。何か、ほっとした。よかった、と思った。そこで長野くんを責め、叱りつける親じゃなくてよかった。長野くんに、こっちのお母さん、だと思われなくてよかった。
 で、こうも思う。そう思ってるってことは、わたし自身、長野くんは悪くないと思ってるってことなんじゃないの?
 考える。前列のヤジオの背中を見つめて。
 空は曇ってるけど、そこは夏。暑い。ヤジオのTシャツにも、うっすらと汗がにじんでる。
 その背中が動く。ヤジオがいきなり振り返る。
 目がばっちり合う。初めて顔を見る。ヤジのキツさから、ちょっとこわそうなイメージがあったけど、そうでもない。普通。
 ヤジオはわたしと長野くんを交互に見る。言う。
「君ら、カレシとカノジョ?」
「いえ」と長野くんが言い、
「ちがいます」とわたしが言う。
「じゃ、きょうだいか何か?」
「でもないです」と長野くん。
「クラスメイトです」とわたし。
「なら、やっぱカレシとカノジョでしょ」
「委員長と副委員長です」とわたしが説明する。「クラスの」
「あぁ。だとしても。やっぱデートじゃん」
 ヤジオはどうしてもその方向に持っていきたいらしい。きちんと説明したらわかってもらえるだろうけど。長くなるから、きちんと説明はしない。する必要がない。
「みっ高の、関係者?」
「じゃないです」と長野くん。「地元なんで、応援に来ました。夏休みだし」
「おぉ。そういうことか。ここまで勝ち進むと、注目されるんだ」
「でも今日は、負けちゃいそうですね」
「勝つよ。と言いたいとこだけど、ちょっとキビしいな。打てないし、守れない。酒井一人じゃどうにもなんないよ。チームとしてちゃんと鍛えられたとこにはかなわない。君は、何、野球やってんの?」
「やってないです。好きは好きだけど」
 でもサッカーのほうが好き、とは言わない。そのくらいの気は利くらしい。
「好きならやんなよ、中学からでも。野球は今サッカーに押されてっから、君ぐらいの子がじゃんじゃんやってくんないと。このままじゃ、いつまで経ってもアメリカに追いつけないよ」
「野球、やってたんですか?」と、長野くんが同じ質問をヤジオに返す。
「おれ? やってたよ。みっ高でやってた。一応、OB」
 そうか。身内だから、ヤジもあんなにキツかったのか。ヤジオも、もっと周りに気を配ればいいのに。あれじゃあ、ヤジオ自身が乱暴な人だと思われてしまう。
「そのときはどうだったんですか? みっ高」と、長野くんがさらに訊く。
「全然ダメ。一回戦負け。二対八。コールド負けを免れるのが精一杯。酒井もまだ一年だったし」
「一緒に、やってたんですね」
「ああ。おれが三年になったとき、酒井が一年で入ってきた。おかげで試合に出られなくなったよ。それまではちょこちょこ投げてたんだけど」
「ピッチャーだったんですか?」
「そう。控えピッチャー。といっても、左投げってことで、結構出番はあったんだ。コントロールが悪くて、投げるたびにフォアボールを連発してたけど。でも酒井が入ってからは、もう全然。まあ、あいつは段ちがいだったからな、あきらめもついたよ」
 部活をやれば、そういうこともあるのだろう。しかたないことはしかたない。でも、複雑な気持ちにはなるだろうな。今の三年生が、五年生のわたしの上をいっちゃうってことだから。
「今年は酒井が三年。期待してたんだけどな。もしかしたら準々決勝ぐらいまでいけるんじゃないかって。甘かった。一人じゃ限界があるよ」
「これから逆転するかも」と長野くんが言う。
「あぁ。そうだな。OBがこんなこと言ってちゃダメだ。応援すっか」とヤジオが笑う。「君らも頼むよ。委員長と副委員長で、応援してやってよ。で、悪い。応援しながら、ちょっと荷物見てて」
 そしてヤジオは席を離れ、トイレかどこかへ行ってしまう。赤いリュックが青いイスに残される。
「ヤジオ、いいやつじゃん」と長野くんが上から目線で言い、
「ちょっとあぶない人かと思ってた」とわたしが言う。
「あぁ。一人で来てあのヤジは、確かにちょっとあぶないかも」
「長野くんほどじゃないけどね」
「え? おれ、あぶない?」
「あぶなくない人は、転校してきていきなり立候補とかしないよ」
「うーん」
 ヤジオは五分くらいで戻ってきた。本当にいい人であることが、判明した。何と、長野くんとわたしに紙カップのコーラを買ってきてくれたのだ。
「ほら、飲んで。カロリーゼロのやつにしたから、女子も平気でしょ」
「やった!」と長野くんが言い、
「いいんですか?」とわたしが言う。
「いいよ」とヤジオは照れくさそうに笑う。「もしかしたら、君らも将来みっ高の後輩になるかもしんないし」
「あ、ぼくはたぶんならないです。頭、悪いから。島さんは、なるかもしんないけど」
「だいじょうぶ。みっ高なら、ちょっとがんばれば入れるよ。おれもそうだったし。西高とか東高となると、相当がんばんなきゃいけないけど」
 そんなことを言うヤジオは、もうちっともあぶなくなかった。
 いただきますを言って、わたしたちはコーラを飲んだ。わたしはチビチビ。長野くんはゴクゴク。
 それからみっ高は、やっと反撃した。バッターとして登場した酒井さんが二塁打を放ち、一点を返したのだ。
 ヤジオは立ち上がって喜んだ。
「ナイス、酒井! さすがエース!」
 長野くんも立ち上がって声を出す。
「続け、続け!」
 みっ高は続かなかった。次のバッターが三球で三振し、反撃はあっけなく終わった。でも一点は入った。爪あとは、残した。
 メガホンをパンパン叩いてたヤジオが、ズボンのポケットからスマホを取りだして耳に当てる。
「もしもし」「うん」「あぁ。聞こえる?」「今、球場」「試合観てた、ウチの」「そう。ヤジオになってた」
 ん?
 長野くんと顔を見合わせる。ヤジオ。さっきの話を聞かれてた?
「そうそう。いつもみたく、ヤジりまくり。一人なのに。ちょっとあぶないやつと思われてるかも」
 セーフ。聞かれたわけではないらしい。
「そんなことより。どうした?」「生まれた? マジで?」「やったじゃん! おめでとう!」「男だよな?」「今さら女ってことないか」「そうかぁ。体は平気?」「ならよかった」「だろうなぁ。男には耐えられない痛みだって言うもんな。おれは絶対無理だわ。ビビリだし」「がんばった。ほめるしかないよ」「とにかくよかった。おめでとう。今度会わしてよ、落ちついたら」「ゆっくり休みな」「じゃあ」
 ヤジオが電話を切る。スマホをポケットに戻し、ふとこちらを見る。
「知り合いに子どもが生まれてさ。報告の電話」
「スゲえ」と長野くん。「いいなぁ。夏休みの初日が誕生日」
「いや、微妙だよ」とヤジオ。「学校で祝ってもらえない」
 その言葉が、微妙にチクリとくる。今のわたしや長野くんの誕生日は、たとえ学期中でも、誰からも祝ってもらえないだろう。
 でも、まあ。
 長野くんの誕生日をわたしが祝ってあげることくらいはできる。そしたら長野くんも、祝ってくれるかもしれない。充分か、それで。
「もう少し言っちゃうと。みっ高野球部のマネージャーだった子なんだよ。おれの代の。結構仲よくてさ。酒井が入ってきたあとも、出番がなくなったおれをずっと励ましてくれてたんだ。ほんと、いいやつだよ。というか、いい女子」
「生まれたよって、教えてくれたんですか?」とわたしが尋ねる。
「うん。生まれたら教えてくれって、こっちから頼んだんだけど。生まれたのは三時間ぐらい前らしいよ。産んだあと、二時間は休まなきゃいけなかったみたいで」
 でも、休んだあとすぐに電話をかけてくれたわけだ。高校で部が一緒だっただけの人に。いや。だけの人でもないのかな。
 同じことを考えたのか、長野くんがしれっと訊く。
「元カノジョとか、そういう人ですか?」
「ちがうちがう。そんなんじゃないよ。ただの元マネージャーと元部員。おれだけじゃなく、ほかのやつらにも電話してるはず」
 ヤジオと同い歳ということは、二十歳だろう。今二十歳なら、妊娠したのは十九歳のときか。早い。わたしで言えば、あと八年後だ。
「いやぁ、マジでよかったよ。あいつも子どもも無事だっていうから。ほんと、よかった」
 ヤジオはそのマネージャーのことが好きだったのかもな、と思う。今でも好きなのかもな、とも思う。
 その人は、本当にいいやつなのだろう。いい女子なのだろう。だからそこまで気にかけてもらえるのだ。ちょっとうらやましい。高校の野球部員とマネージャーでそうなら、例えば小学校の委員長と副委員長でそうなることもあるんだろうか。長野くんとわたしがいずれそうなるようなことも、あるんだろうか。
 まさかね。
 近くにある雲がゆっくりと動き、遠くにある雲とのすき間から陽が射す。すき間からだが、光は強い。
 夏休みはまだ始まったばかり。あと四十日以上ある。
 それだけあれば、気も変わるかもしれない。九月一日には、学校に出ていけるかもしれない。まだ出ていくと決めはしないけど。長野くんに言いもしないけど。
 代わりにこんなことを言う。
「こっちでもケンカとか、すればいいのに」
「え?」
「いいやつになるためのケンカなら、すればいいのに」
「あぁ。うん。島さんがしろって言うなら、するよ」そして長野くんは言う。「なんてね」
 小五女子。野球は好きじゃない。
 なのに野球場にいる。
 来てよかったと思う。
 ヤジオの名前くらいは、記念に聞いておこうと思う。

(次回は「十キロ空走る」をお届けします)
引越し作業中に一本のビデオテープが出てきた。それを再生すると学生時代の自分が映し出されて……


小野寺史宜『今日も町の隅で』

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小野寺史宜今日も町の隅で』の詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321902000589/


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