本屋大賞作家・冲方丁氏待望の歴史長編『麒麟児』が2018年12月21日に発売となります。5年ぶりの歴史長編となる『麒麟児』で冲方氏が描くのは、勝海舟と西郷隆盛。幕末最大の転換点、「江戸無血開城」を命を賭して成し遂げた二人の“麒麟児”を描く、著者渾身の歴史長編です。
本作の発売を記念して、12月7日(金)より12月19日(水)まで計13日間連続での試し読みを実施いたします。『麒麟児』の「序章」と「第一章」、総計82ページ(紙本換算)、約4万字を発売前にお読み頂けます!
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勝は膝を叩いて言った。
「いいだろう。我流の理解でよけりゃあ、おれが語って聞かせてやろう」
「まさに、お願いいたします」
「そうさな。まず、倒幕を願う連中の心にあることの一つは、昔の戦さ。それも、江戸開幕を成し遂げた、大権現様の軍配ひらめく大戦だ」
「というと……関ヶ原の?」
「そうさ。倒幕派連中の多くが、関ヶ原で一敗地にまみれた家の出だってことよ。ただ戦に敗れただけじゃない。幕府はその後も連中の力を殺そぐため、金のかかる参勤をさせたり、大変な普請を押しつけたりと、ありったけの嫌がらせをしてきたのさ。薩摩なんてのは、なかでもいっとう、ひどい目に遭った藩の一つだ」
「二百と何十年もの間、虐げられてきたと……」
「少なくとも向こうはそう思ってるのが多いねえ。それとな、こいつは声を大にして言えることじゃないが、虐げられてきたと思ってるのは諸藩ばかりじゃない。朝廷の連中もそう思ってるってことが、特に慶喜様みたいなお人を恐れさせたんだよ」
山岡が頭上を仰ぎ、そのことについて思いを巡らし、それからまた勝を見つめた。
「では、この頃になって急に倒幕せんとするのは、単にそれまで機会がなかっただけと」
「機会もなけりゃ、力もなかった。この二つを得た原因が、黒船だよ。あれが江戸に来て以来、起こったことをいちいち挙げてりゃきりがない。いっとう大きなことは、幕府が外国の威しに抗えず、どんどん調印を交わしたってことさ。朝廷は、それを許さなかった。そもそも征夷大将軍様ってのは、夷狄を打ち払う攘夷の務めをもって幕府を開いているんだ。それが諸外国に膝を屈しちゃあ、もはや幕府は幕府にあらずってことになる」
「それで朝廷は薩長を頼んだと?」
「いやいや、まだそいつは先のことだ。朝廷は、まず水戸とを頼んだ。水戸徳川家は、徳川御連枝のなかでも元来、特に尊皇のお家柄だ。この水戸に、帝が攘夷の勅を出した。で、水戸の藩士の大勢が、大まじめにこれを受けちまった。尊皇攘夷のおおもとってのは、いわば水戸で生まれたようなもんさ」
「とはいえ徳川御連枝。攘夷奉行のようなものを、なぜ幕府は作らなかったのでしょう」
「そりゃ作ったさ。講武所があるだろう。今だって、なんとか外国に太刀打ちしようと躍起になってるんだ。しかし資金も技術も、あっちの方が何段も上だよ。やるべきことは、その力をせっせと学ぶことさ。ただそうするには、幕府も武士も古くなっちまってた」
「古いとは?」
「外国軍に勝てるような軍を用意しようとするだろう? そこで邪魔なのが、武士の身分だ。このおれですら、武士の誇りとやらにどれほど足を引っ張られたか知れないよ」
山岡がやや遠慮がちに小さくうなずいた。勝からすれば、うなずいたこと自体に驚かされた。こんな風に武士を否定すれば激昂する者が大半だからだ。
「となると、幕府そのものを考え直さねばならなくなりますな」
「そうさ。幕府自体がとっくに古くなってた。そこにいる人間のなかにも、賢明なのはいくらかいたがね。水戸で攘夷の騒ぎが起こり、幕府がこれを圧殺し、それで水戸藩士が大老を刺殺したりと、ろくでもないことが続いた。こんなざまじゃどうしようもない、みんなで外国に対抗しなきゃならんが、そのためには幕府を倒さねばならんという考えが現れるようになった。これに対し、幕府が中心になって諸藩と団結してことに当たらんとしたのが、公武の合体さ。薩摩は当初、こいつに賛同してたもんだぜ」
「公武の合体とは……、どういうことでしょう?」
「今言ったとおり、みんなで外国に対抗する。国家全土から賢人を集めて合議をなす。朝廷も幕府も諸藩も一丸となってこれを推し進め、日本五畿七道を大きな一つの国にする」
山岡が今度は大きくうなずいた。
「なるほど。幕府も武士も古くなったように、諸藩の区別も古くなったと」
「そう。まさにその通りなんだよ、山岡さん。おれはそのことを、かつて西郷吉之助に語ったことがある。向こうはずいぶん、おれの言うことに感心してくれたよ」
「その人物が、今まさに江戸に進撃しているというのは、なんともおかしなことです。幕府が公武の合体を訴えたことが、裏目に出たということでしょうか」
「まあ幕府のやることなすことが、そうだったねえ。公武合体をなすため反対する藩を潰しちまえ、いや、諸藩が団結するため幕府を倒せ、てな争いが起こった。諸藩の内側も、尊皇と佐幕に分かれていがみ合い、血を流さないと済まないようになっちまった」
勝はそう言い放って肩をすくめてみせた。軽々しい態度でいるが、その争いでばたばた死んでいった者たちのことを思うと、吐き気が込み上げてくる。
山岡が、意外なほど冷ややかな調子で呟いた。
「まさに混迷。諸外国からはさぞ、たやすき国と思われたことでしょう」
まったくその通りだったので勝はまた肩をすくめただけだった。
「倒幕の由縁はわかりました。では、いかにして薩長は力を得たのでしょうか」
「連中が幕府より先に、外国連中と接して来たのが一つ。それと、財務をしっかりやったのが一つだ。幕府も諸藩も、とにかく借財を重ねて来たんだ。どこも台所事情はめちゃくちゃさ。百年かけても利子すら返せねえ。そんななか、薩摩や長州は真面目に財務を立て直したわけだ」
「それで借財を返し終えたと」
「いやいや。おれが知る限り、まともに借財を返済した藩は一つもありゃしない。幕府からしてそうさ。薩摩や長州は、とにかく利子だけ返して商人を信用させて、まとめて武器やら軍艦やらを外国から買った。あいつらだって攘夷がたやすいとは思っちゃいない。一にも二にも、相手の力をこっちのもんにしなけりゃ、どうにもならん」
「それで、力を得ることになったと。幕府の力を上回るほどのものだったのですか?」
「長州征伐の顚末は知っているかね?」
「おおよそは。義兄から聞いた限りですが」
「おれはあそこで、しくじってね。会津と薩摩を調停しなけりゃならなかったんだが、これがまあ上手くいかなかった。どいつもこいつも……慶喜様もだが、肚に一物もって、おれを人柱みたいにしやがったわけさ。まあ、おれの愚痴はおいといて、幕府がどうかといえば、長州一つ征伐できなかったってことだよ」
山岡が深々と呼吸をした。今回は禅の気息というより、慨嘆の念が強そうだった。
「その間、薩長が手を結んでたことを幕府はちっともつかめなかった。そんなこんなしてるうちに、こっちは上様が、朝廷では帝が崩御なされた。そして薩長は、即位なされた天子様から倒幕の勅を得たのさ。将軍宣下を受けられた慶喜様は、大政奉還をもって対抗し、公武合体を再び議論の俎上に載せようとしたが、どうにも上手くいかなかった」
「その結果が、近頃、京で起こった戦であった、というわけですか」
「そうだ。鳥羽・伏見で起こったやつだ。あれは、しちゃいかん戦だった。天皇を擁し奉る薩長が有利になるだけさ。薩摩はそれがわかってるから、さんざん佐幕諸藩を挑発した。特に会津あたりが乗ったもんだから、慶喜様は慌てて逃げてきたってわけだ」
いきなり山岡が膝を叩いた。納得するだけでなく、同時に喜びの念さえ伝わってきた。
「やはり上様の御謹慎は、二心なきものであることがそれでわかりました。ご回答感謝いたします。これで、それがしも安心して駿府に赴けるというものです」
「駿府まで行けるかわからんぞ。相手は六郷辺りにまで来てる。敵兵ばかりの地を、どう通る気だ?」
「官軍のなかを進めば、それがしを斬るか、縛につけるかするでしょう。それがしは相手に双刀を渡し、縛につけられるなら従います。斬ろうとするなら、我が使命を相手に申し上げます。その言上が悪しとなれば斬られますが、善しとなれば命を奪われることはありません。向こうも、使者に是非も問わず殺すことはないと考えます」
理路整然としたくそ度胸である。縛につけられるといっても、足腰が立たなくなるほど痛めつけられる可能性が高い。そんなことも、抱いた使命に比べれば、大したことではないと言っているのである。
勝はほとんど反射的に、山岡になすべきことを告げた。よほど相手を信頼せねば出せないことを口にする自分に、ちょっと驚いてもいた。
「大総督府下参謀の、西郷吉之助に会って欲しい。おれが手紙を書くから渡してくれ。朝廷にまで赴くことはなかろう」
「西郷殿ですな。それほど信頼できる人物であると?」
「そうだ。他の将は眼中に入れなくていい。その男にだけ嘆願してくれ」
「ただ嘆願するだけでよいのですか?」
こんな質問がすぐさま出てくるのが山岡鉄太郎という男だった。
勝は、この男をとことん頼ることに決めた。と同時に、脳裏にぱっと顔が浮かぶのを覚えた。山岡を、なんとしても死なせずに、西郷のもとに送り込まねばならない。その助けとなるであろう人間の顔が、そのとき、くっきり浮かび上がっていた。
「あんたの言う通り、向こうも何が何でも戦がしたい人間ばかりじゃない。戦をしなくていい条件があるはずだ。慶喜様、徳川家、幕臣、江戸の御城や市中―何をどうすれば、矛を収める気でいるかを聞き取ってくれ。もちろん慶喜様の助命嘆願もした上でだ」
「わかりました」
あっさりと山岡が請け合った。
「それと、一人で行くな」
「なんと?」
山岡が目を丸くした。勝は今しがたの閃きに賭けることに決め、腰を上げた。
「ちょっと待っててくれ。お前さんに人をつける。必ず役に立つはずだ」
そう言って部屋を出た。
勝のような役目にある者に必要なのは、結局のところ、自分で走り回るのではなく、人を使う才覚である。それは同時に、人と人を組み合わせる才覚でもある。
山岡に同行させるべきもう一人の男を呼ぶため、勝は、先ほど山岡が来るときに響かせたのと同様の、やたらとでかい足音を立て、早足に廊下を進んでいった。
(第6回へつづく)
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