本屋大賞作家・冲方丁氏待望の歴史長編『麒麟児』が2018年12月21日に発売となります。5年ぶりの歴史長編となる『麒麟児』で冲方氏が描くのは、勝海舟と西郷隆盛。幕末最大の転換点、「江戸無血開城」を命を賭して成し遂げた二人の“麒麟児”を描く、著者渾身の歴史長編です。
本作の発売を記念して、12月7日(金)より12月19日(水)まで計13日間連続での試し読みを実施いたします。『麒麟児』の「序章」と「第一章」、総計82ページ(紙本換算)、約4万字を発売前にお読み頂けます!
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三
勝は、山岡鉄太郎を座敷で待たせ、急いで自邸の庭に設けた蔵に向かった。
「客人はどうしてる?」
勝が尋ねると、蔵の番をしてくれている二人の門人が順々に答えた。
「変わらず大人しくしております、先生」
「今しがた食事を終えたところです」
二人とも、自分たちの仕事にぬかりはない、といった生真面目な調子である。
「そうか、そうか。ご苦労さん。お前さんたち、もう少ししたら他の者と交替していいよ」
そうねぎらってやった。二人とも下級の武士だが見所があるのでいろいろ教えてやっている。家来として養ってやっているが、勝のことを安房守様ではなく先生と呼ぶ。そういう風に慕ってくれる若者たちが、今年に入ってからだけでも何人死んだか知れなかった。
「なかの薩人の一人に用がある。益満休之助だ。出してやってくれ」
「わかりました」
一人が鍵を取り出し、蔵の戸にかけた南蛮錠と鎖をがちゃがちゃ鳴らしながら解錠した。その間、もう一人は六尺棒を手に、不測の事態に備えている。
客人と勝は言ったが、要は人質である。このとき、三人の薩摩藩士が勝の判断で幽閉されていた。いずれも江戸市中の攪乱のために働いていた者たちで、庄内藩とその配下たる新徴組が捕らえたのを、あえて処刑させず、自分の預かりとしたのである。
大久保一翁などとも相談し、手を回したのだが、そのせいで下らぬ非難を浴びることとなった。間者を生かして手元に置くとは、やはり薩長に通じているに違いない、とさんざん疑われたものだ。
「捕らえた者を殺すのは簡単だろうよ。だが、尋常な裁きもせず殺したとあっては御政道もくそもありはしない。そればかりか上様の恭順の態度までもが疑われ、世の批判を浴びるのは我々みんなということになる。逆に、生かしておけば我々の慈悲心も評価されようし、生かした者が重要な人物なら、いざというとき何かの役に立つはずだ」
そういって押し通したのだが、まさに今が、そのときだと勝は確信していた。
「益満休之助、益満休之助。外へ出すゆえ、身支度せよ」
家来たちが蔵のなかへそう声をかけるのを見て、勝はなぜか卒然と、あるフランス人の言葉を思い出した。
「あなたの策が画餅に帰し、薩長に制圧されるのを見たくない」
だからフランスに帰る、とその男は告げた。
幕府が陸軍増強のために招いた、シャノワンという男である。しきりに幕府と勝を焚きつけ、抗戦させようとした男だ。勝はとくとくと慶喜の意向を説明し、可能な限り不戦を貫く決心を告げ、これまでの働きに感謝しながらも解雇を告げたのだった。
(ここでお前たちに借りを作ってたまるかよ)
勝が内心でそう思っていることを、シャノワンが見抜いていたかはわからない。
もし、徳川がフランスの戦力をあてにして戦いに臨めば、薩長はイギリスを引き入れて戦うだろう。
イギリスの公使ハリー・パークスは今、駐日列国外交団に局外中立として幕府と薩長の戦いを見守らせ、幕府が発注した甲鉄艦ストーン・ウォール号を引き渡さないようアメリカに働きかけている。薩長は、官軍にとって有利となるこの処置に感謝するとともに、より多くの助力をイギリス公使に求めているはずであった。
戦いが続けば、徳川も薩長も、莫大な戦費をフランスやイギリスから借りることになる。抵当は日本の港や土地だ。戦乱で疲弊する日本人に、戦費の返済などできはしない。結果、日本の名のある都市や港、そこに存在する商業施設や工場といったもののほとんどが、外国の所有ということになってしまう。
そこへさらにロシア、アメリカ、オランダなどが続々と割り込んでくるのは明らかだ。特にロシアは勝手に日本の土地を占領してしまうおそれがあると勝は考えていた。
戦乱で消耗すれば、そうした諸外国の侵入を防ぐ力を失う。ここで幕府と薩長の総力戦となることで、いずれ日本列島の大半が、日本人のものではなくなるのだ。
フランス派の面々には、そういう末路が見えていない。諸外国は、幕府も諸藩も、借財を重ねることに慣れきっていることをすっかり見抜いている。その甘言に惑わされて致命的な借りを作ることは、黒船の威圧に負けて条約を結び、それがために倒幕の気運を生んだどころの話ではないのだ。
(お前ら外国勢の策を、画餅に帰すのが先決だったんだよ)
真摯なそぶりを装うシャノワンに、心の中でそう言ってやった。
勝が用意した焦土戦術は、官軍への対抗のためだけではなかった。諸外国が江戸をむさぼり食うことを防ぐゆいいつのすべでもあった。
何もかも焼き払うことでしか侵略を防げないのだと思うと情けなくて涙が出そうになるが、それでも、すべがあるのとないのとでは、話が違った。
(おれの策は、これからだぜ。見ていやがれ)
そう思っているうち、蔵から身支度を整えた男が、ぬっと出てきた。
顔色も良く、髭も月代も綺麗に剃っており、着物も洗濯したものを身につけている。二十八歳という若さで、気力も体力もしっかり保っている様子だった。
「調子はどうだい、益満さん。衣食に不足はないかい」
勝が呼びかけると、益満はおもはゆいような笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げた。
「不足だなどと口が裂けても言えません。虜囚の身で、ここまで丁重にされると、なんとも骨抜きにされそうで怖い思いがします。いっそ牢に入れられた方が気楽かもしれません」
「残念だが、そんな目には遭わせられねえよ」
勝も微笑んでそう言った。
酷烈な環境で知られる伝馬町の牢屋敷と違い、衣食や身繕いに不自由ないよう世話している。牢屋敷に入れては、それ自体が刑罰といっていい密閉環境に押し込めることになる。その悪劣さは尋常ではなく、お裁きが下される前に病むか、囚人同士の勝手な私刑で痛めつけられるか、いずれにせよ牢死する者が大半という過酷さである。
それでは、閉じ込めた人物を叩き潰すだけで、処刑と変わらず、こちらの意のままに使うことはできない、というのが勝の考えだった。そもそも伝馬町の牢屋敷など消えてなくなればいいと思っている。荒っぽい人間を牢に閉じ込めたところで、もっと荒っぽくなるだけだろう。敵方の人間であれば、なおさらこちらに敵意を抱くに決まっていた。
咎人だろうが敵方の間者だろうが、しっかり交際し、正しく使ってやり、誉れを与えてやることの方が、よっぽど世のため人のためになる。
そういう信念が、いつしか、
「勝安房守は、味方のなかには敵が沢山いるくせに、敵のなかには敵らしい敵がいない」
という状況を作り出していた。それがあるいは勝をここまで生き延びさせ、そしてまた今の大役を背負わせることになった要因だろう。
「いきなりだが益満さん、あんたに頼みたいことがあって呼んだんだ」
「頼みとは、どんなことでしょう」
益満は意外に思う様子もなく尋ね返した。生かされているからには、いつか使われるのだと悟っている顔で、こう続けた。
「一飯の恩というのもなんですが、私にできることでしたら何でもおっしゃって下さい」
「ちょっと難儀なことでな。説明するから、一緒に来てくれ。会って欲しい人物がいる」
手招きすると、益満が大人しくついてきた。門人二人は蔵の戸を元通り施錠して番を続け、屋敷の警護にあたっていた門人数名が無言で集まり、勝を守るため後に続いた。
座敷に戻ると、廊下にもまた別の門人が座り込み、山岡がおかしなことをしないか見張ってくれている。勝はその男に礼を言い、ついでにこう命じた。
「ちょっとひとっ走り、庄内藩の邸まで行って、安倍さんを呼んできてくれ」
「はい、先生」
さっと男が立って玄関に向かった。勝は、ついてきた者たちも屋敷の警護に戻し、益満とともに部屋に入った。
山岡が振り返り、しげしげと益満を見つめた。
「や、これは……」
益満も息をのんで山岡の面貌を凝視しながら、ゆっくりと座った。
(第7回へつづく)
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