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【特別公開】呪いと救いの青春ホラー『きみはサイコロを振らない』冒頭特別公開#01

2021年に第41回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈大賞〉を受賞した新名智さん。
新時代の怪談小説と選考委員に絶賛されたデビュー作『虚魚』に続き、昨夏刊行の『あさとほ』も「自分自身が怖くなるホラー」と話題を呼びました。
そんな期待の新鋭による長編第3作『きみはサイコロを振らない』が5/18に発売されます。



「遊ぶと死ぬ呪いのゲーム」の謎を、主人公の高校生・晴と、同級生の莉久、呪いの研究をしている大学院生・葉月の3人が解き明かすストーリー。
呪いがじわじわと迫る静かな怖さに加え、友人の死によって心に傷を抱えた少年の成長物語としても評判になっています。

発売前に読み終えた書店員さんからのコメント

「傷ついた人々を呪いが癒す再生の物語」――くまざわ書店南松本店 立木恵里奈さん
「過去に向き合って先に進んでいく様に切なさとともに清々しさを感じます」――ブックスジュピター 林 貴史さん


書店員さんの声援を受けて、発売前に物語の冒頭を特別公開! 

『きみはサイコロを振らない』冒頭特別公開#01

 雪広ゆきひろが死んだ朝は、雪が降っていた。
 十二月の末なのだから、それはありふれた現象に過ぎないのだけど、おれにはその雪が何か、特別な意味を持っているように思えた。
 当時の報道――おれがそういったものに目を通せたのは、事件から何ヶ月も経ったあとだった――によれば、雪広は前日の夜から姿が見えなくなっていた。家にいるはずの雪広がいなくなっていることを、深夜に帰宅した母親が気づき、一一〇番通報した。翌朝から周辺の捜索がおこなわれることになっていたというが、その必要はなかった。次の朝早く、湖面に浮いている雪広が発見されたからだ。
 冬の湖は岸から凍る。雪広の体は、氷になかば埋もれていたことだろう。彼の長いまつ毛には、凍った水滴がまとわりつき、彼の細く白い首は、さらに深く青ざめていただろう。おれは現場を見ていない。だからときどき、そんな空想をする。
 雪広の肺には水がまっていた。このことから、死因は溺死できしとされた。着衣に乱れた形跡がなく、自殺するような動機も見つからなかったため、警察は雪広の死を、事故死として結論づけた。もちろん、夜になぜ雪広が家を出て、湖に落ちたのかという点について異論がないではなかったが、月日が経つにつれ、やがて忘れられた。
 おれは雪広のことを忘れない。忘れようとしても忘れられない。だって、まだ生きている雪広と、最後に会ったのはおれだったから。
 彼の死体が見つかる前日、おれは夜更けに目覚めると、部屋の窓から抜け出した。それは雪広との約束でもあった。十二月の夜風は、肌が切れそうなほど冷たくて、東京から持ってきた薄手のダウンジャケットでは、ほとんど防げなかった。
 約束の場所は橋の上だった。とうじん狗竜川くりゆうがわを隔てる水門の手前に架けられた長い橋だが、公園の一部になっていて車は通れず、おかげで深夜に中学生が待ち合わせても、人目につくような心配はなかった。けれど、その分だけ奥まった場所にあるから、到着する頃にはすっかり体を冷やしてしまって、奥歯をがちがちと鳴らしていた。
 雪広はもう先に来ていて、欄干にもたれたまま、空を見上げていた。おれに気づくと雪広は、暖かそうな手袋に包まれた指を持ち上げ、そっと空の一点を示した。
「あれがアルデバラン」雪広は言った。「それから、ヒアデス星団」
 雪広の指した方角を眺めたけれど、おれの目には、ありふれた夜空に名もない星が散らばっているようにしか見えない。
はるは、宇宙は嫌い?」
「いや」おれは言った。「嫌いでも好きでもない」
 宇宙が嫌いだなんて、水が嫌いとか、空気が嫌いとか、そういうレベルのことに聞こえる。だって好むと好まざるとにかかわらず、おれたちは宇宙の中に住んでいるじゃないか。
 そう答えると、雪広は興味深そうな目で、おれを見つめた。
「だけど、人間に見えているものが、宇宙のすべてとは限らない」
 雪広は眠たくなりそうな話を始めた。それによると、この宇宙は暗黒物質と呼ばれる正体不明のもので満たされていて、それがなければ星や銀河はばらばらになって飛び散ってしまうのだけど、それが具体的になんなのかは、まだだれにもわかっていないのだという。
「心配しなくても、そのうちわかるさ」
 と、おれはあくびをみ殺しながら言った。そんなことより雪広が、どうしておれをここに呼んだのか、そっちを早く説明してほしかった。雪広は、目を細めておれを見た。
「わからないかもしれない」
「そんなことないって」
「人間にとって肝心じゃないものは、目に見えない」
「逆だろ」
 星の王子さまは、肝心なことは目に見えない、という話だったはずだ。けれど雪広は、これでいいんだ、と言う。
「星座を知っている人が夜空を見たら、その形が浮かんで見える。だけど星座も、星の名前も知らない人が見たって、光の点が意味もなく散らばっているようにしか見えない」
 おれは返事をしなかった。雪広の言うことは当たっていた。雪広には見えている夜空の形が、今のおれには見えない。
「本当は、そういうことじゃないかと思うんだ。この宇宙はぐちゃぐちゃのランダムな塊で、意味も理由もなくて、いたるところ矛盾していて。だけど人間にとって肝心なことだけは、つまり物理法則とか、数学の原理とか、そういう条件を満たすものだけはちゃんとした形になって、浮かび上がって見えている。もしかしたら、そういうことなんじゃないかって」
 そうつぶやいて、雪広はまた空を見上げる。おれは無意識に彼の視線を追う。そこで初めて空が、さっきまでとは違って見えていることに気づいた。おれの目に色濃く映るのは星ではなく、星と星の間の、何もない闇だった。おれは思った。この厚く塗り重ねたような暗黒のほうが宇宙の本質で、星の光はただその中に散らばっている、かろうじて理解可能な破片のきらめきに過ぎないとしたら。
「だったら」
「うん?」
「見えなかったものは……ぐちゃぐちゃの矛盾だらけの塊は、どうなるんだ?」おれは尋ねた。「消えるのか?」
 すると雪広は、おれの疑問なんて取るに足らないみたいに答えた。
「消えたりしないよ。見えないだけで、ずっとそこにある」
 強い風が吹き、おれは震えた。雪広は逆にフードを脱いだ。彼の吐く息が、川沿いに立つ街灯のかすかな光を反射して、白く濁る。
 それから、雪広はポケットに手を突っ込み、何かを握って取り出した。
「ゲームがしたくて」彼は笑った。「ぼくたちだけのゲーム」
 おれは首を振った。
「おれはもうおまえとゲームはしない」
「なんで?」
「わかってるだろ」おれは言った。「おれはもう普通になったんだ。おまえと違って」
 とげのある言葉だとわかった上で、おれは口にした。雪広にとってこの人生がゲームなのだとしたら、またどこかで、おれ以外のプレイヤーを見つければいい。
 しかし雪広は、おれのそんな言葉を聞いても笑ったままで、とにかく握った手を突き出してくる。仕方なく、おれは自分の手を差し出した。その手の中に、何かが落ちてくる。
 それは厚紙を折りたたんで作られた、六面のサイコロだった。揺らすと中でカラカラという音がする。重りとして、ビー玉か何かが入っているようだ。
「ルールはこうだ。晴が数字を決めて、サイコロを投げる。出た目がその数字だったら、ぼくの勝ち。違ったら、晴の勝ち」
「……おまえが不利じゃないか」
 六分の五の確率でおれが勝つ。それでもいいのだと雪広は言う。これは代償だから、と。
「どういう意味だよ」
「ぼくは今から、偶然に頼って、人が自分で決めた道を変えさせようとするんだよ。それには、それくらいの代償がなくちゃ」
「自分で決めた道っていうのは、おれとおまえとのことか」
「そう」
 雪広は言った。おれは自分の手のひらに載ったサイコロを見た。風が吹けば飛んでいきそうな、軽くて頼りないサイコロ。今はただの立方体でしかなく、上も下も関係ない。だけどこれを、ある意思を持って地面に落としたら、そこには意味が生まれる。宇宙の混沌こんとんから星が生まれるみたいに、ランダムな可能性の中から、ひとつの結末が選ばれる。
「晴が勝ったら、ぼくはもう、晴のことを誘わない。晴がだれと付き合うかも晴の自由だ。とても残念だけど、ぼくは晴を尊重する」
 おれは雪広の言葉遣いが好きだ。尊重などという硬い熟語も、彼の口から発せられると、まるでココアのように甘く温かく感じる。
「じゃあ、もし」
「それでももし、ぼくが勝ったら、晴はぼくのものだ」
 恥ずかしげもなく彼は言う。おれは雪広の目を見つめる。いつもの、からかうようなひとみの光は、そこになかった。
「晴にはずっと、ぼくと一緒にゲームをしてもらう」
 おれは深く息を吸って、サイコロを軽く握り込んだ。そうなる確率はわずかだとしても、こんなもの単なる口約束でしかないとわかっていても、おれの手は緊張でかすかに震えた。
 数字を言わなければ、と気づいて、とっさにある数字を思い浮かべた。そこには深い理由などない。たまたま、その瞬間、おれにとって親しみを覚える数字がそれだったというだけで。
 雪広に向かって、その数を宣言しようとした瞬間、また突風が吹いた。
 手の中にあったサイコロが、指をすり抜けて飛ばされた。
 あっと思ったときにはもう遅く、おれの手を離れたサイコロは欄干に当たって、その向こう側に消えていく。
「しまった」
 おれは欄干から身を乗り出して、下をのぞいた。しかしそうしたところで、真っ暗な湖面が見えるだけだ。どこへ落ちたのかも、そもそも本当に落ちたのかもわからない。横では雪広が同じような姿勢で目を凝らしている。おれは謝った。
「わざとじゃないんだ。風が」
「もちろん、わかってる」
 雪広に言われて、おれは少しほっとした。一方的に誘われたけだとはいえ、勝手に台無しにしたと思われるのは嫌だった。
「また別の日に来よう。それか、サイコロを振るだけなら学校でもできるだろ」
「いや」
 と、彼はつぶやいた。それでは駄目だ、ということだろうか。おれが戸惑っていたら、不意に尋ねてきた。
「数字は、なんだった?」
「数字って」
「さっき、言おうとしてた数字だよ」
「なんだよ、それ」おれは苛立いらだって答えた。「なんでもいいよ」
 湖に落としたサイコロの目なんて、確認できるはずもない。雪広はうつむいたまま、黒々とした湖の水面をいつまでも眺めている。ついにしびれを切らして、おれは話しかけた。
「もう帰るよ。明日あした、またやろう。な?」
 おれは雪広の肩をたたいた。彼は返事をしなかった。おれは黙って、その場を立ち去った。
 そして、雪広とゲームをすることも、二度となかった。
 
   ◇

 直近の数字は九、五、八。大きい数字が続いているということは、今日のおれの行動は、どちらかと言えばポジティブ寄り。この傾向が続くと息切れする。だから、おれは安全策を取ることにした。少なくとも昼休みは静かに過ごしたい。それなら、この学校で一番静かなやつの隣にいるべきだ。
 おれが通っている高校は、丘の中腹の斜面に、ちょうど貼りつくように建っていた。そのため、奥にある校舎の一階は、手前にある校舎の二階か三階くらいの高さになり、それに挟まれた中庭部分は、巨大な階段になっている。
 きりは、いつも上のほうの段に座っていて、はしゃぐ生徒たちを見下ろしながら、暗い顔でパンを食べている。
 おれは正面から、つまり下から近づいて声をかけた。挨拶あいさつをしても、莉久は何も言わない。別におれが嫌われているわけでは――いや、嫌われているのかもしれないが、少なくともまだ面と向かって指摘されてはいない――なく、単に莉久はだれともしやべらない、そういうやつってだけだった。
 おれは莉久の隣に並んで座り、母さんが作った弁当を、ひざの上で開けた。下の段には、ふりかけのかかったご飯が、上の段には、おれの好物だと母さんが信じているものが入っている。おれは手を合わせて、それを食べ始めた。
 横目で莉久を見ると、片手でパンを口に運び、もう片方の手でスマートフォンを操作している。しばらくして、おれのポケットに入ったスマートフォンが振動する。取り出すと案の定、莉久からメッセージが届いていた。
〈その小さいグラタンみたいなやつ、おいしそうじゃん〉
 短時間で入力したにしては、異常な量の絵文字が前後にくっついている。ハートや感嘆符はまあわかるとして、握りこぶしや、前歯をむき出しにした顔のマークなどはどういう意味だかわからない。が、とにかく、こいつからのメッセージは常にこんな感じだった。
「これ、母さんがよく入れるんだけど……おれは苦手なんだ。甘くて」
 莉久は肩をすくめた。これもよくやる仕草なのだが、意味は一定でない。今のはたぶん、おいおい、とか、言ってやるなよ、とか、とにかくそんなリアクションのどれかだろうとは思う。
 ひとまず挨拶あいさつを交わして、友人としてのノルマは果たされた。おれはおれの望み通り、黙って弁当を食べ進める。毎日、弁当を空にして返すというのも、おれが自分に課しているルールのひとつだ。家族は、健全でなくてはならず、親子は、互いにいたわらなければならない。
 莉久は、最後に残ったメロンパンのかけらを口に放り込み、パック入りのコーヒー牛乳で流し込む。糖分多め。それにしては、骨しかないみたいにせている。
 手持ち無沙汰ぶさたになった莉久はスマートフォンをいじり始めた。まもなく、おれのスマートフォンも震えた。
「まだ食ってるんだぞ」
 文句を言いながらも画面を見た。
〈呪いのゲームを探してる〉
 なんのことやら、と思った。青ざめて震える顔の絵文字がついているところを見ると、恐ろしい話題ではあるらしい。
〈呪われたゲームがあるんだって。遊ぶと死ぬ、とかなんとか。それを友達と遊ぶんだけど、来ない?〉
「遊ぶと死ぬものをなんで遊ぶんだよ。だめだろ」
〈だっておもしろそう〉
 おれは莉久の顔を見たが、あいかわらずの無表情だ。きょとんとして、おれの顔を見返してくる。指から先は別の人格なのかも。
「莉久に友達なんていたんだな」
 少しくらい表情を動かしてみたくて、悪態をついたけれど、莉久は平気なようで、こんな返事を書いてくる。
〈この世にひとりだけ。すごく久しぶりに会うの。最後に顔を見たのは、中学を卒業する前〉
 ひとり、というところが引っかかった。
「じゃ、おれは友達じゃないってことか?」
 そう言うと、莉久はこくんとうなずいた。なんだ、と思っていると、すぐに次のメッセージ。
〈晴くんは彼氏だから〉
 どきっとして、スマートフォンを取り落としそうになった。階段から転げ落ちたら悲惨だ。文句を言うつもりで莉久のほうを振り返ったが、やはり素知らぬ顔だった。
 短い髪に、細い体つき。うちの高校には制服がないから、今日はオーバーサイズのジャケットとジーンズ。よくそんな風体でいるものだから間違われがちなのだけど、霧江莉久の性別は女だ。
 莉久本人には、屈託があるわけでもない。ただ自分の好みに合わせているだけだと、前に書いてきた。それでも周囲からは、そのことに関して特別な事情があると思われている節がある。おそらくだが、こんなふうに一言も発さないまま学校生活を送れているのも、周りが勝手に誤解して遠慮しているからではないか、とおれはにらんでいる。
〈で、どうする。来るの、来ないの〉
 おれはズボンのポケットに入れたストップウォッチを、左手でそっと握り込む。
 ずいぶん前に百円ショップで買ったものだ。学校の体育の授業で使うようなやつに比べたら、全体的に小さくて安っぽい。ラップタイムを保存するような機能もない。ずっと持ち歩いているせいでスイッチが緩んできたのか、コンマ数秒遅れて止まるし。なんなら一秒の長さがずれてきているのではないかという疑惑さえある。が、時間を計るために持っているのではないから、これでも十分だ。
 スタートボタンを押すと、液晶画面の数字が回り出す。すぐにもう一度ボタンを押す。そして一番右にある数字を読む。結果は七。やっぱり今日は高めが続く。
 五以上なら、おれは肯定を選ぶ。大きな数字が続いてるってことは、今日のおれはその分だけ、いろいろなことを安請け合いしているということだ。遊ぶと呪われて死ぬゲームを、誘われて一緒に遊ぶ。これ以上の安請け合いもないだろう。
「でもさ、知らないやつが交ざって遊ぶの、気まずくないか?」
 おれが不安を口にすると、莉久はすました顔でおれを眺め、無視するかのようにそっぽを向いた。それとほぼ同時に新しいメッセージ。
〈大丈夫、いい人だから、晴くんもきっと仲良くなれるよ〉
 号泣する顔の絵文字がこれでもかと並んでいるのは、新しい交友関係ができて感動する様子を表しているのだろうか。莉久と会話しようと思ったら図像解釈学の知識もいる。
 莉久がおれ以外の人間と親しく接している様子を見たことがないから、いったいその友達というのがどんな人間だか、まるで想像できない。もし同じ種類の人間だったらどうしようか、と思った。無言のふたりが文章で会話している間、横でおれひとりが喋り続けるとしたら、針のむしろだ。
 そう正直に伝えると、莉久は表情こそ変えなかったが、代わりに何度かのけぞる仕草をした。これはわかる。笑っているのだ。ますますおもしろそう、というわけらしい。どうなっても知らないぞ、と、おれは念を押した。
 食べ終わった弁当を片付けたあとは、ふたりとも黙ったまま、空を眺めたり、アリを眺めたりしていた。莉久は何も言わないが、ときどき、不意に何かを指差すことがある。そういうときにはたいてい、指の先におもしろいものがあった。変わった形の雲や、羽の生えたアリなどだ。莉久の見つけるおもしろいものは、たいていおれにとってもおもしろかった。気が合う、ということなのだろう。
 中庭に数人いた生徒たちは、さっさと校舎内に入っていってしまって、残っているのはおれたちだけだった。もう秋も終わりかけ、ますます涼しくなる頃だ。日が差しているとは言え、さすがに肌寒い。
 高校二年生の秋ともなれば、来年から始まる長い受験生活を思って憂鬱ゆううつになるのだと、よく耳にする。けれど、おれと莉久は階段に座ったまま、のんきに過ごしている。おれは自分の未来について考えない。それはあまりにも遠くて、非現実的な響きを持っているから。
 昼休みが終わる。莉久はぐっと伸びをして、とっとと校舎へ戻っていく。おれはしばらく待ってから、数字を見た。六。次の授業には、遅れず出ることにした。
 ――人生なんて、しょせんはゲームだ。それを忘れなければ、大丈夫。
 なつかしい声が聞こえる。雪広、と無意識につぶやいて、はっとする。あたりを見回したが、幸い、だれもおれを見ていなかった。

   ◇

 それから、午後の授業をほとんど寝て過ごしたおれは、授業が終わるなりさっさと校舎を出て、莉久が来るのを待った。
 おれたちの通う高校は坂の上にあり、校門を出てすぐの高台からは、蘇芳すおう市の風景が見渡せた。青くのっぺりとした東神湖が、鏡のように空を映して、見る人の遠近感を狂わせている。湖畔に並んだホテルやリゾートマンションがミニチュアのように見えてくる。山と湖に挟まれたドーナツ状の街。まるでゲームの舞台のような。
 と、スマートフォンが振動した。画面を見る必要もないくらいなのだが、一応、開いて確認する。
〈今、あなたの後ろにいるの〉
「メリーさんかよ」
 口に出してそう言いながら振り返った。しかし、そこに莉久はいない。すぐ近くを歩いていた女子生徒がおれを変な目で見る。恥ずかしい。
 咳払せきばらいしてごまかしているうちに、莉久本人が現れた。おれを見つけると、まるで待ち合わせなどしておらず、たまたまここで出会った、というような感じで、こちらに歩いてくる。思わず文句を言った。
「ああいうのは後ろに立ってから送るもんだ」
 しかし莉久は何も答えず、おれのそでを引っ張った。莉久に道理を説いても無駄のようだ。おれはおとなしくついていった。
 莉久の表情は読めないけれど、足取りはなんだか弾んでいるように見える。よほど楽しみなのだろう。さっきのやりとりでは、中学卒業以来、初めて会うのだと言っていた。この世にひとりだけというくらいだから、とても大切な相手に違いない。ますます、おれがいないほうがいいように思えてきた。
 莉久の案内で、見知らぬ住宅地を歩いていく。莉久の家は高校の近くにあるから、昔からの友達だという相手の家も、やはりこの近所にあるのだろう。おれの家は隣町にあって、高校までは電車で通っている。だからまるで土地勘がない。やがて、莉久は一軒の家に近づくと、門をくぐって中に入った。
 ずいぶんと、いや、かなり大きな家だった。何しろ、普通の家にかわら屋根のついた門はない。おれはおっかなびっくり、莉久の後から足を踏み入れた。きれいに手入れされた植木の並ぶ前庭を抜けると、古びてはいるが、しっかりとした造りの日本家屋が建っていた。くもりガラスのはめ込まれた引き戸があって、その横にインターフォンというか、ブザーがついている。莉久は遠慮なくそれを鳴らした。
 中からはなんの返事もなく、いきなり玄関の戸が開いた。
「莉久、久しぶり!」出てきたその人は、莉久の頭に手を載せ、くしゃくしゃとでる。「よく来たねえ。上がれ上がれ」
 一瞬、おれは何かの冗談かと思った。中から現れたその人は、チャイナドレスを着ていた。風情ある邸宅から現れたにしては場違いな格好で、おれは目を丸くした。
 その人がこちらに気づいたときには、急いで逃げたほうがいいのか、本気で迷った。しかし彼女はにっこり笑って、それから、莉久に向かって尋ねた。
「あれが電話で言ってた、莉久の彼氏?」
 聞かれた莉久はこくこくとうなずく。そしておれを手招きする。おれは覚悟を決めて歩み寄った。莉久があれだけなついているなら、危険な人間というわけでもないのだろう。
 彼女は、おれの目の前に右手を差し出してきた。黒に近い、濃い赤のネイルが並んだ指先。握手を求められていると気づくのに、やや時間がかかった。
あめもりづきです。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします」
 そう答えて握った葉月さんの手は、冷たくてしっとりとしていた。大人の女の人の手だな、と思った。おれはそこで、葉月さんと初めて目を合わせた。眼鏡の奥で、好奇心の強そうな目が、きゅっと細められた。
 握った手を離すとすぐ、葉月さんはその手を叩いてパンパンと鳴らした。
「さっそく始めるよ。入って」

(つづく)

作品紹介



きみはサイコロを振らない
著者 新名 智
定価: 1,815円 (本体1,650円+税)
発売日:2023年05月18日

「呪いのゲーム」はどこにある?――新鋭によるホラーミステリの感動作
――人生なんて、しょせんはゲームだ。
中学時代の友人の死が忘れられず、そんな信条で日々を淡々と過ごす高校生の志崎しざきはる
「遊ぶと死ぬ」ゲームを探しているという同級生・莉久りくに頼まれ、彼女と、呪いの研究をしている大学院生・葉月はづきと共に、不審な死を遂げたゲーマー男性の遺品を調べることに。
大量に残されたゲームをひとつずつ遊んで検証する三人。するといつのまにか晴の日常に突然〈黒い影〉が現れるように――。
〈晴くんって、実はもう呪われてない?〉
呪いのゲームはどこにあるのか? その正体と晴の呪いを解く方法は――。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322211001529/
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