10/15 より全国ロードショー「かそけきサンカヨウ」映画化記念試し読み
窪 美澄による連作短編集『水やりはいつも深夜だけど』。その中の1編「かそけきサンカヨウ」が今泉力哉監督からのラブコールにより映画化決定!
主演は連続ドラマ「ドラゴン桜」での活躍も記憶に新しい志田彩良、そしてその同級生役に鈴鹿央士、主人公の父役に井浦 新を迎え、原作の世界観の温度をそのままに丁寧に描く。
10月15日(金)からの全国ロードショーに先駆け、原作の冒頭部分を特別に公開します。
「かそけきサンカヨウ」試し読み②
「うわあ、陽さん。ごめんねええええ」
バタバタと階段を下りてくる足音がして、バタンとドアが開かれた。
美子さんがものすごい寝癖をつけたまま、ダイニングに入ってきた。テーブルには、もう、かいじゅうの、つまり、私と血のつながっていない妹、ひなたちゃんのお弁当ができている。もちろん私が作った。テレビの前にひなたちゃんが座って、小さなおにぎりをかじっている。それも、私が作った。さっきから、ずっとアニメのDVDを流している。朝の支度をする私に、ひなたちゃんが何度もせがんだから。小さな子どもがテレビを観ながらごはんを食べるのはよくないんじゃないかな、と思うけれど、ひなたちゃんのお母さんである美子さんは何も言わないし、そうしておけば、ひなたちゃんはおとなしいし、私も、ひなたちゃんの相手をせずに、朝食やお弁当の準備ができる。
がちゃん、と、美子さんが食器棚から、何かを落とす音がした。ごめええんん。何をするにも美子さんは大きな音をたてるし、いろんな物を落としたり、壊したりする。
「おねえたん、もいっこ」
ひなたちゃんがとことこ歩いてきて、ごはん粒のついた手で、私の制服のスカートを引っ張る。
「え、三個も食べたのに! もうない」
そう言った途端、ひなたちゃんが泣き出した。顔を天井に向けて、大きな口を開けて。手は私のスカートを持ったままだ。ほんとうに、ちいさなかいじゅうみたい。
泣いてもいいから、そのごはん粒でべとべとした手を離してほしい。美子さんがシンクのほうで、また、何かを落とした音がする。美子さんが大きな音をたてるたび、父と二人だけの穏やかな朝は、もう私には、永遠に来ないのだろうと思った。
「うわあああああ、ひなた、幼稚園バスが来る時間だよ。早くお着替えして」
美子さんが、わんわんと泣いたままのひなたちゃんを抱き上げる。まるで荷物を抱えるように、廊下を歩いていく。
「おにぎりぃ、おにぎりぃ」と泣いているひなたちゃんの声が段々小さくなっていく。
そんなに慌てるなら、あと十分早く起きればいいのに。いじわるくそう思ってしまうけれど、美子さんが夜遅くまで仕事をしていることを知っている。私はひなたちゃんのお弁当につめたタコさんウインナーの残りを、自分のお弁当箱に入れる。もうこんな時間だ。私も早く学校に行かないと。ひなたちゃんの幼稚園は、週に三回だけ、お弁当の日がある。最初は美子さんが作っていたが、給食のない都立高校に通う私には、毎日お弁当が必要なのだ。
「一個作るのも、二個作るのも、同じだから。ひなたちゃんのも作る」
そう言うと、美子さんはほんとうにうれしそうに笑った。
「朝ごはんも、美子さん夜遅いときは私がする」
そう言うと、さらに目が細くなった。噓がつけない人だ。顔の表情で全部がわかってしまう。そして、自分の思っていることや、感じていることを、美子さんは全力で言葉で伝えようとする。それが、最初は、少し、慣れなかった。
父も、祖母も、エミおばさんも、かすかな記憶しかない母も、私のまわりにいる大人たちは皆、静かだった。そもそも、音にする言葉の数が少ないし、言葉にした音そのものが大きくない。何かをしゃべっている時間よりは、本を読んだり、手を動かしたりする時間のほうが多かった。自分もそんな大人たちに影響されたせいか、話をするよりも、人の話を聞いている時間のほうが多い、口数の少ない人間になってしまった。
美子さんは、最初に会ったときから、よくしゃべった。
もしかしたらそれは、美子さんのしている通訳、という仕事のせいなのかもしれなかった。ハリウッドの映画俳優などが来日すると、美子さんは俳優のうしろに忍者のように立って、ずっと口を動かしている。そういう姿をテレビのワイドショーなんかで何度も見た。
「とても仕事ができる人なんだよ。ずっとひとりで子どもを育てていて」
「裏表のない正直な人だよ」
「噓がつけないんだ。それで、損をすることも多いみたいだけれど」
私が美子さんと対面する前に、父は、ぽつりぽつりと、自分の恋人のことをそう語った。父の少ない言葉で、私は美子さんという人のことをイメージした。
私に美子さんのことを話したときには、父は美子さんとの再婚をもうすっかり心に決めていた。むしろ、その自分の気持ちが決まってから、私に美子さんの存在をあかしたのだと思う。「恋人ができた」、だから「結婚しようと思う」と他人に口出しさせないのは、父もエミおばさんも同じだった。そういうところも、
「はじめまして。陽さんにやっと会うことができて、私はすごくうれしいです」
中華料理屋の個室で初めて会ったとき、なんだか、中学校で習う英語の訳文みたいな
美子さんは、お化粧も服装も、派手なところなんかちっともない。体は少しふっくらとしているから、その日に着ていたグレイのパンツスーツが少し窮屈そうだった。首に小さなパール一粒のネックレス。汗をかいて額に前髪が張りついているし、白いれんげを持つ手はかすかに震えているように見えた。
自分よりもずっと年上の女の人がそんなふうに緊張している姿を私は初めて見た。
私が美子さんに会うことを怖がるよりも、美子さんのほうが私に会うことを怖がっていたのではないか、そんな気がした。自分が、自分よりずっと年上の人を緊張させてしまう。そのことが、少し、怖かった。
美子さんは最初から私のことを、陽さん、と呼んだ。生まれてから、陽さん、と呼ばれたのは初めてだった。いつも陽か、陽ちゃん、だった。けれど、初めて会う美子さんにそう呼ばれても、いやな感じはしなかった。
小さなひなたちゃんは、もうすっかり父になついていた。まるで子犬が飼い主にじゃれつくように、父の背中によじ登り、眼鏡に手をかける。
「こらこら」
そう言いながら、父はちっともいやそうじゃなかった。
その姿を見てふと思った。美子さんと、ひなたちゃんと、父には、私の知らない時間があったんだな。それはいったいいつだったんだろう。私が、ひとりで家でごはんを食べている時間だったのかな。そう考えたら、口の中に入れた大好きな
「おねえたん」いつの間にか、円卓の下に潜り込んでいたひなたちゃんが、私の腕をつかんでいた。三歳の女の子というのを、初めてこんなに近くで見た。
「ひなたのおねえたん」
短くて、むちっとした腕で、私のおなかのあたりをつかむ。やっぱり顔の丸いひなたちゃんは美子さんによく似ていた。テーブルの上にのったオレンジジュースのコップに手を伸ばそうとする。コップの縁を
さらに小皿の上のしゅうまいに手を伸ばす。手づかみでそれを取り、中心にあるグリンピースを指でほじり、それを口に入れると、私の顔を見てひなたちゃんがにやっ、と笑った。
美子さんが、もう、ひなたはお行儀が悪い、とは言うものの、ひなたちゃんにはお行儀なんて言葉は通用しないと思った。まるで、かいじゅうみたい。それがひなたちゃんの第一印象だった。
そっか。この子が私の妹になるのか。今でもうまく説明できないのだけれど、そう思ったら、私は、なんだか、少しうれしいのだった。
「これから美子さんは少し仕事を減らしていきたいと言っているし。今まで陽がひとりでやってきたようなことは、少しずつ美子さんがやっていくから」
父の言うとおり、美子さんは今までの人前に出るような通訳の仕事よりも、家でできる翻訳の仕事を増やしていきたいらしかった。それでも、美子さんは通訳として売れっ子で、美子さんをわざわざ指名してハリウッドの俳優から仕事が来ることも多く、そういう仕事だけはなかなか断りづらいのだ、という話も父はした。
ひなたちゃんの父親は、美子さんがひなたちゃんを産んだ直後、病気でなくなったらしかった。妊娠中もずっと、だんなさんの看病に明け暮れ、そのせいで、ひなたちゃんは、一カ月近く早く生まれてきたらしい。今はまったくそんな様子はないが、生まれてすぐ保育器に入れられ、一時は、ひなたちゃんの命が危ないときもあったのだそうだ。
それからずっと美子さんは、ひなたちゃんをひとりで育てながら仕事をしてきた。美子さんの仕事が遅くなるようなときは、ベビーシッターさんや、美子さんのお母さんにひなたちゃんを預けていたらしい。
(つづく)
映画原作小説『水やりはいつも深夜だけど』著者 窪 美澄
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