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試し読み

「うちは最初から普通じゃないから、だいじょうぶだよ」――同級生の陸と話しながらパンを水で流し込む。【窪 美澄「かそけきサンカヨウ」映画化記念試し読み③】

10/15 より全国ロードショー「かそけきサンカヨウ」映画化記念試し読み

窪 美澄による連作短編集『水やりはいつも深夜だけど』。その中の1編「かそけきサンカヨウ」が今泉力哉監督からのラブコールにより映画化決定!
主演は連続ドラマ「ドラゴン桜」での活躍も記憶に新しい志田彩良、そしてその同級生役に鈴鹿央士、主人公の父役に井浦 新を迎え、原作の世界観の温度をそのままに丁寧に描く。
10月15日(金)からの全国ロードショーに先駆け、原作の冒頭部分を特別に公開します。

「かそけきサンカヨウ」試し読み③

それまで保育園に預けられていたひなたちゃんは、この家に来てからは、夕方まで園にいられる延長保育のできる幼稚園に通うようになった。私が通っていた幼稚園だ。私が通っていた頃は、幼稚園もまだのんびりしたものだった。狭い園庭で走りまわり、お弁当を食べて帰る。ごくごく普通の幼稚園だったはずなのに、最近は、このあたりでは、いちばん人気のある幼稚園で、願書を受け付ける日には、徹夜組が出るらしい。
 私が子どもの頃は、延長保育も、園バスもなかった。建物も園庭も、その頃とそう変わっていないのに、幼稚園の中身はずいぶん変わっていた。幼稚園だけでなく、この町だってずいぶん変わった。私鉄沿線のごくごく普通の町だったはずなのに、線路沿いのグラウンド跡地に低層マンションができてからというもの、なぜだかこの町は高級住宅地と呼ばれるようになった。生まれたときから住んでいるこのなんでもない町が、高級、と呼ばれることには、いつまでたっても慣れなかった。
 美子さんには、時々、どうしても断れない夜までの仕事も入る。そういうときは、近所にいる保育ママさんという人にひなたちゃんを預け、仕事が終わったらひなたちゃんとともにママチャリをすっ飛ばして、この家に帰ってくるのだった。私がひなたちゃんを迎えにいってもいいんだけど、と思うこともあったが、美子さんには、まだ遠慮があるようだった。そうは言っても、父と再婚してから、美子さんは夜の仕事はほとんど断っているのだ、と、父がいつか語っていたこともある。
「幼稚園って、バスに乗って勝手に行ってくれるんだね」
 美子さんはそう言ってからからと笑った。
「保育園の送り迎え、ほんとうに大変だったの。雨の日も雪の日も、暴れるひなたをママチャリにしばりつけるように乗せてね。あ、だけど、幼稚園はお弁当があるから、同じくらい大変かぁ。どっちもどっちだねぇ。とはいえ、お弁当は陽さんにお願いしちゃってるけど」
 あいまいうなずきながら、幼稚園と保育園がどう違うのかすら私にはわからなかった。子育てって大変そう。女の人が子どもを抱えて、仕事をしながらひとりで生きていくのは大変なことなんだろうなぁ、と思っただけだった。母が家を出て、父がたったひとりでなんとかできる、と考えたときと同じだ。具体的な大変さがわからない。
「家にいるときは、なんでもするからね。今まで陽さんがやってきたこと全部。陽さんもこれから受験もあるし、部活も学校のこともなんでも自由にしていいんだよ」
 美子さんは張り切ってそう言った。
 けれど、いっしょに暮らしはじめてわかったことだけれど、どうやら美子さんはあまり家事が得意ではないようだった。掃除機をかけても、なんとなく家のなかがほこりっぽい。窓ガラスにはタオルでいたあとが、くっきり残っている。卵焼きは三回に一回は焦がした。Tシャツを干せば、襟ぐりからハンガーを入れるので、すぐに首まわりがゆるゆるになる。時々、美子さんが仕事で朝早く出かけたり、休日に出かけるようなときは、私が美子さんの代わりに家事を請け負った。
 洗濯物は倍になり、ひなたちゃんが散らかしたり、汚したりする場所の掃除にも手間取った。それでも、美子さんのやっていることに、少しいらいらしてしまったり、そんなことを思ったりしてはいけない、という心の動きがないだけ、らくちんだった。この仕事、半分手伝ってくれない、と言われるよりも、自分で全部やってしまったほうが、私は楽な人間なのだった。
 久しぶりに今日は午後六時くらいに終わる仕事があるらしく、仕事を終えたら、保育ママさんに預けたひなたちゃんとともに帰る、という予定らしかった。
 自分ひとりだけが家にいる、という時間が私は好きなのだった。父との二人暮らしから、四人になって、それでもひとりでいられることが、自分は酸素のように必要な人間なのだなぁ、と思うのだった。

「今朝のスープの味が少し濃かった」
 そう言いながら、私はペットボトルの水をこくこくとのんだ。
「美子さんが忙しくて時間もないのに一生懸命作ってくれたんだけど、ちょっと味が濃かったの」
 せつこう像とイーゼルの間を、卓球のラケットを持った男子たちがすり抜けて行く。誰かの足が陸君のイーゼルをばし、陸君がおい、と、その背中に声をかけながら、ぎろり、と男子たちをにらんだ。男子たちは、ごめん、ごめん、と言ってはいたけれど、まるでちっとも悪いことだと思っていないみたいだった。
「陽の言ってることって、なんか、うちのおばあちゃんとおんなじ」
 陸君がそう言って、くすり、と笑った。
「うちのお母さんのこと、よく、そんなふうに言ってる。おばあちゃん」
 陸君は私の顔を見ないで、木炭紙に向かって手だけを小刻みに動かしている。窓から差しこむ夕日に縁どられた横顔のラインがきれいだ。部員の少ない美術部と天文部と卓球部で、共同で使っている部屋の片隅で、私と陸君は目の前にある石膏像をデッサンしていた。
「うち、同居してるじゃん。おばあちゃんと。お父さんのお母さんね」
 うん、と言いながらも、私はまだ陸君の横顔を見つめていた。
「家のなかに、女の人が二人いる、というのはなんかいろいろ大変なんだよ」
 陸君はまるでお芝居の台詞せりふを口にするように言った。その女のなかに、自分もカウントされているのかな、と、ぼんやり考えてみる。私は、女、なのだろうか? そう思って生きてきたことなどないのだけれど。
 陸君は中学の頃から勉強もできて、本もたくさん読んでいる。私とは何もかも違いすぎる。時々、陸君は私には理解できないようなことを言う。けれど、言われたときには陸君の言っていることがわからなくても、ある日突然、陸君の言っていたことは、こういうことだったのか、とわかることがあるのだ。私の頭の理解力のなさ、テンポの遅さに、陸君はいらいらしているんじゃないか、と思うときもある。
「家族だったら、多分、これ、塩からい、って、遠慮しないで言う、よね。普通は」
 少し困ったような顔で、陸君がやっと私のことを見ながら言った。
「普通って?……」
 私がそう言ったら、陸君の顔がますます困ったようになった。
 時々、陸君はこんな顔をする。
「あ、普通は、なんて、よくない。今の撤回」
 ごめんね、言い過ぎた。そう言いながら、陸君は手にしていた食パンをかじった。木炭を消すための食パンをぎゅっと丸めて。
「うちは最初からあんまり普通じゃないから、だいじょうぶだよ。陸君」
 そう言って、私も四角いままの、耳のついたパンをかじってはみたものの、なんだかのどがつまってしまうような気がして、私はまたペットボトルの水をのんだのだった。
「やっぱり、陽のほうがうまいなぁ……」
 陸君が私の前のイーゼルを見て、小さな声で言った。まるで、なんだか、なぐさめられているみたいだった。
 美術部には、今日も私と陸君しかいない。二年生に三人、一年生には、私と陸君以外に二人、部員がいるはずなのだけれど、その子たちは来たり来なかったり。私は美術しか得意なものがないから、部活といっても、入るなら美術部と決めていたけれど、なんで陸君が美術部に入ったのかは謎だった。中学校のときは、バスケットボール部にいた。しかも、陸君はかなり上手うまかったはず。それに、ちょっともてていた。うちの中学で行われる対外試合のときは、陸君をじっと見つめる女子だっていた。
「ドクターストップだよ。おれ、生まれつき、心臓のカタチが少しおかしかったみたい。十五歳になって病院でちゃんと見てもらうまでわからなかった。一回、手術するんだ」
 いつだったか、「なんで陸君は美術部とかに入ってんの?」と、いつものドーナツショップで無邪気に聞いたみやこに、そう答えていたのを覚えている。
 それは陸君の口から初めて聞いた話だった。聞いていたみんなはどう返事をしていいのかわからず、しん、と黙ってしまった。
「もういいのスポーツとかは。そんなにもう興味ないし」
 ちょっと重苦しくなった雰囲気を振り払うように、陸君は言ったのだった。
「でもさ、高校入っても、運動部とかだりぃよ。うちの高校なんか、どの部もぜんぜん弱いしさぁ」
 宮尾君が言った。宮尾君もサッカー部に入ってはいたが、幽霊部員のようなものだった。みやこと沙樹ちゃんは、部活そのものに興味がないようで、私とドーナツショップでだべっている日以外は、みやこは予備校に通い、沙樹ちゃんはバイトの合間に図書館で勉強をしていた。
 家とか、家族とか、それぞれの事情というものがあるなぁ。特に高校に入ってから、そう感じることが多くなった。
「うちの家、貧乏だからさぁ。国公立じゃないと大学行けないんだよね」
 沙樹ちゃんが、なにかの話の流れでそう言ったことがある。みやこはお母さんがすごく厳しくて、それを愚痴ることも多かった。宮尾君から家や家族の話を聞いたことはないが、なんというか、みんなのそういう話を受け止めてくれる役割をしていた。このメンバーなら、何を言っても驚かれたりしない。なんだかそんな安心感もあって、私も父が再婚したこと、新しいお母さんができたこと、三歳の血のつながらない妹がいることも、抵抗なく話すことができたのだ。
 陸君の体の事情がどれほど深刻なものかはわからなかったけれど、ふだんの様子からは、それほど体の調子が悪いとも思えない。けれど、退屈な授業中、ふと窓から外を見ると、体育を見学している陸君が芝生の上に座り、文庫本を開いているのを目にすることもあった。
「もう帰ろう」
 陸君が立ち上がって言った。午後五時を知らせるチャイムが響いている。
 今日は、美子さんが夕食を作る、と言っていたから、私は慌てて帰る必要もない。けれど、陸君と二人だけで帰る日、私たちはドーナツショップにも寄らずに、まっすぐ帰る。部活の間に、たくさん陸君と話してしまうから、ということもあるけれど。バス停までの道をゆっくり歩いていると、うしろからちりり、と自転車のベルが聞こえてきた。道の端に体を寄せると、
「おねえたん!」という大きな声が聞こえた。美子さんとひなたちゃんの乗ったママチャリだった。

(この続きは本書でお楽しみください)

映画原作小説『水やりはいつも深夜だけど』著者 窪 美澄



水やりはいつも深夜だけど
著者 窪 美澄
定価: 616円(本体560円+税)
発売日:2017年05月25日

ごく普通の家庭の生々しい現実を強烈にえぐり出した、 珠玉の連作集。
『ふがいない僕は空を見た』『よるのふくらみ』の実力派が贈る、珠玉の連作集

セレブママとしてブログを更新しながら周囲の評価に怯える主婦。
仕事が忙しく子育てに参加できず、妻や義理の両親からうとまれる夫。
自分の娘の発達障害を疑い、自己嫌悪に陥る主婦。
出産を経て変貌した妻に違和感を覚え、若い女に傾いてしまう男。
父の再婚により突然やってきた義母に戸惑う、高一女子。

文庫化に際し、オリジナル短編、一編追加収録。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/321612000244/
amazonページはこちら


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