プロポーズの返事は衝撃的なものだった。
「好きだけど、愛したことは一度もない」
二年付き合った恋人は、恋愛感情も性的欲求も抱かない人だったのだ――。
『君の顔では泣けない』で鮮烈なデビューを飾った君嶋彼方さんの長編三作目の試し読みを大ボリュームでお楽しみください。
君嶋彼方『一番の恋人』試し読み(2/6)
僕の中での暮らしのルールは、週末に千凪と会う以外にももう一つある。それが、月に一度の帰省だ。
自宅から一時間半かけて、実家に到着する。家の前に立つとチャイムを押した。実家の鍵は持っているし、月に一度はきっちりと帰ってはいるが、
まるで玄関で待ち構えていたかのような早さで、ドアががちゃりと開いて母が顔を出した。夕飯を作っている最中だったのだろう、いつもの大きな花柄のエプロンをしている。
「おかえり、暑かったでしょ」
「ただいま」
家に足を踏み入れると、ふわりと独特な香りがする。良くはないが不快でもない。この家特有の匂いだ。住んでいる頃には気付かなかった。
リビングでは、父がソファに座ってテレビを見ていた。日曜夕方の他愛もないバラエティ番組。それを笑い声一つ上げず見ている。「ただいま、父さん」と声をかけると、顔をこちらへ向け「おお、おかえり」とわずかに微笑んだ。
「元気にやってるのか?」
「うん。元気だよ」
「そうか」
それだけ言うと、父はまたテレビへと顔を向ける。そっけない返事だが、決して無愛想な人ではない。むしろ、優しそうな人だと評されるような
やがて食卓には料理たちが並べ立てられる。大根と三つ葉のサラダ、牛肉とごぼうのしぐれ煮、鮭の和風グラタン。どれも僕の好物ばかりで、母の昔からの得意料理だ。
テーブルには、三人分の用意しかない。僕は
「兄さんは? まだ帰ってないの?」
「うん、まだ仕事みたい。先食べてていいよ、だって」
カウンター越しに渡してきた茶碗を、テーブルに置く。兄はシステムエンジニアをしていて、土日に出勤することも多い。兄は僕とは違い、ずっと実家で暮らしている。
父がテレビを消し、ソファから立ち上がって食卓に着く。それを合図に僕も父の斜め向かいに座る。家族の席順は昔から決まっていた。キッチンを隔てるカウンター側の奥の席が父、その隣に母。父の向かいに兄、そしてその隣に僕。
その配置もテーブルも、僕が幼い頃から既にあったものだ。角が丸みを帯びた茶色の木製のテーブルで、四脚ある椅子とセットで購入したようだ。椅子には、青く四角いクッションがそれぞれに置かれている。
黒い革張りのソファも、ガラスの
月に一度、家に帰ってくること。それが父が僕に課した、実家を出るための条件だった。
僕は六年前、大学の卒業をきっかけに申し出た。一人暮らししたいんだけど。すると、父は穏やかにまくしたてた。
一人暮らしして何の意味があるんだ。ここからだって通勤できるじゃないか。どうせ不純な理由なんだろう。そんなことで、一人暮らしをさせるわけにはいかない。
それでも僕はこの家を出たかった。確かに家にお金を入れたとしても出費はかなり抑えられるし、家事だって母がやってくれる。でもだからこそ、社会人になるという契機で、自立をしたかったのだ。
説得した結果、父は折れた。その代わり、月一度の帰省の条件を提示してきたのだ。
帰る度に父は、色々なことを僕に尋ねる。今日も食事をしながら、父は
「最近はどうなんだ。仕事は忙しくないのか」
「ちょっと前までは結構忙しかったけど、最近は落ち着いたよ」
「あまり無理しすぎるなよ」
「うん、ありがとう。そういえばこの前さ、内示出たんだ。課長代理に昇進だって」
「おお、よかったじゃないか」
「この年齢でなるのは異例らしくてさ。仕事頑張った
「そうか。頑張ってるんだな」
父が微笑んでゆっくりと
父が、僕に求めていることはただ一つだ。男らしくあること。当然仕事の出来や出世も、男らしくあるためには必要な条件だ。
生を受けた瞬間から父の意志は僕に与えられていた。
転んで
日曜日の朝は叩き起こされ、戦隊番組を見させられた。
パパ、ママと呼んでいると、軟弱だと呼び方を変えさせられた。
僕、という一人称も、小学校低学年の頃に矯正された。それからは自分のことを俺と呼ぶようになったけれど、実は未だに違和感が拭えない。
しかし、父自身はそういった「男らしさ」とは無縁の人間だった。穏やかで他人には物腰柔らかく、声を荒らげたところをほとんど見たことがない。成人男性にしては小柄で
口うるさく思ったこともあったけれど、今では父に感謝している。父に習わされていた柔道と水泳は楽しかったし、体力も筋力も身についた。男だったらいい会社に入って
そのお陰で、柔道の県大会で優勝できた。学校の成績も常に上位をキープし、名の知れた私立大学に入学できた。今の職場も、業界では最大手の会社だ。全て父の言葉や尽力があったからこそだ。
父のことは尊敬しているし、好きだ。だからこそ、父の期待に
両親に近況報告をしていると、玄関の方からドアの音がした。母がもぐもぐと
「おかえり、兄さん」
僕が出迎えると、兄が
「イチ。ただいま」
兄が僕の隣の席に座り、母が兄の食事の準備をする。兄が食卓に加わると、ぴりっと空気が張り詰めたような感覚になる。兄が父に「ただいま」と言うと、父は目を合わせぬまま「ああ」とだけ答える。
父と兄は折り合いが悪い。最近は会話を交わす姿もほとんど見たことがない。僕としては、兄も早くこの家を出て行けばいいのにと思うのだが、やはり実家住まいの利便性には
父は、かつて兄にも僕にするように接していた。しかしあることをきっかけに、習い事も見るテレビも学校も就職も、父の意志は一切介在せず、自由に選ばせるようになった。正直僕は、そんな兄が
「兄さん、仕事相変わらず忙しいんだね。お疲れ様」
「うん。ありがとう」
兄が小さく笑う。少し
父の皿が空になると同時に、食事中の母が立ち上がった。父の目の前に置かれた汚れた皿を持つと、シンクへと向かう。父が「ありがとう」と声をかけると、母は黙って微笑む。
僕は皿に残っていたおかずを口に放り込むと、皿を持って立ち上がった。洗い物をしている母の隣に立つ。
「何か手伝おうか?」
母が泡だらけの手のまま、僕の持っていた皿を受け取る。
「いいのいいの、大丈夫。ありがとね。食後にケーキ買ってきたんだけど、一番は紅茶でいい?」
「あ、うん。紅茶で」
分かった、と返すと、母は洗い物を再開する。僕は所在なく立ち尽くしたまま、母の横顔を見つめた。
帰るたび、老けたな、と思わされる。真っ白な生え際、首筋の深い皺、時折見づらそうにすがめている目。一ヶ月に一度は帰っているのだから、本来はそこまで老け込んでいると感じるはずはない。僕の記憶の中で、僕が子供だった頃の母の姿が鮮烈に焼き付いていて、きっと無意識に比べてしまっているのだろう。そんなことを思いながら、席へと戻る。
しばらくして、深みのある
やがてティーポットと四つのティーカップが運ばれてくる。次に、白い箱がテーブルの中央に置かれる。それを母が開くと、四種類のケーキがひしめき合っていた。駅前にある個人経営の洋菓子屋のものだ。誕生日もクリスマスも、ケーキはいつもそこで買っている。
「お父さん、どれがいい?」
母が訊くと、「そうだなあ」と父が考えるふりをしてみせる。これかな、と選んだショートケーキは、絶対に父がいつも選ぶものだ。母が用意してあった丸皿にそれを載せると、父の前に置く。
「僕はどれでもいいよ」
兄が言う。しかし父は、そんな兄を無言で
いただきますと唱和して、僕らはケーキを食べ始める。いつもと同じケーキ、いつもと同じ味。きっとそれが安寧だ。
「そういえば、一番」早々とケーキを平らげた父が、紅茶を
ちょっとどきりとしながら、平静を装う。
「うん、順調だよ。仲良くやってる」
「そろそろ、紹介してくれてもいいんじゃないか。一回くらい家に連れてきなさい」
「そうだね。そのうち」
最近父は毎回、この言葉を口にする。僕としてはできれば千凪を実家に連れて行きたくない。確かに以前までは、恋人を両親に紹介していた。でも、僕ももう二十七だ。この年齢になってからのその行為は、今までとちょっと意味合いが違う。
(つづく)
作品紹介
一番の恋人
著者 君嶋 彼方
発売日:2024年05月31日
『君の顔では泣けない』の著者が描く、恋愛を超える愛の物語
道沢一番という名前は、「何事にも一番になれるように」という父の願いで付けられた。
重荷に感じたこともあったが、父には感謝している。「男らしく生きろ」という父の期待に応えることで一番の人生はうまくいってきたからだ。
しかし二年の交際を経て恋人の千凪にプロポーズしたところ、彼女の返事は「好きだけど、愛したことは一度もない」だった――。
千凪はアロマンティック・アセクシャル(他人に恋愛感情も性的欲求も抱くことがない性質)で、長年、恋愛ができないが故に「普通」の人生を送れないことに悩み、もがいていたのだった。
千凪への思いを捨てられない一番と、普通になりたい千凪。恋愛感情では結ばれない二人にとっての愛の形とは。
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