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試し読み

組織の論理の中、いかに、「人間」でいられるか―。風太郎賞受賞作家の会心作!【月村了衛『白日』試し読み①】

出版社課長・秋吉の耳に衝撃的な情報が届いた。事業を率いる梶原局長の中3の息子が、謎の転落死を遂げたというのだ。ちょうど秋吉の課が中心となって、[引きこもり・不登校対策]を打ち出す新時代の高校をつくるという一大プロジェクトに邁進していたときだった。プロジェクトは一時中止、噂が社内で広まり、会社上層部は隠蔽に動く。
信頼できない上司、暴走する部下、情報戦の様相を呈す社内派閥抗争……。もはや社内に信用できる者はいない――。
志を持って教育事業を推進してきた秋吉の運命は? 少年の死の真相とは?
現代社会の欺瞞を暴き希望のありかを探る、明日のサラリーマン・エンタメ!
第10回山田風太郎賞受賞作家の会心作! 11月10日の刊行を前に特別試し読みをスタート!


書影

月村了衛『白日』(KADOKAWA)


 皮膚の奥からとめどなく湧出してくるような汗を拭いながら、会社までの慣れた道を急いでいた秋吉孝輔は、前方の異物に気づいて足を止めた。
 小鳥の死骸であった。まだ雛と言っていいくらいの小ささで、白く熱せられた路面に転がっている。反射的に頭上を見上げた。建ち並ぶビルの窓辺、あるいはエアコンの室外機の下かどこかに巣があるのかもしれないと思ったからだ。巣から押し出された雛が、真夏の暑さに息絶える。それはどんなにか絶望に満ちた死であったろう。
 太陽がほぼ真上にあるせいか、周囲は逆光の陰に塗り込められ、鳥の巣らしきものは見つけられなかった。
 小鳥の死骸を避けて再び歩き出した秋吉は、『千日出版』の真新しい本社ビルに戻った。社屋内の空調は完璧で、汗がゆっくりと引いていく。その感覚が好きだった。
 夏の暑さは年々厳しくなる一方だ。無慈悲な太陽は全身から気力を蒸発させる。しかし秋吉は、体の疲れをむしろ心地好いものと感じ、エレベーターのボタンを押した。仕事の成果は着実に上がっている。四十を目前に控えて体力の衰えを痛感することが多くなったが、念願のプロジェクトがいよいよ始動するかと思うと、気力はたちまち充塡される。
 教育事業局の入っている六階で降りた。まっすぐに教育事業推進部第一課のフロアへと向かう。
 プロジェクト・パートナーである『天能ゼミナール』本部で行なわれた打ち合わせはことのほかうまくいった。いよいよ最終段階だ。
 早く部下達に結果を教えてやりたい――
 逸る気持ちを抑えつつ自席に戻った秋吉は、しかし予想とは異なる空気にとまどいを覚えた。一見すると常と変わらぬオフィスの光景であるが、どうにも落ち着かぬ様子で誰もが俯いている。隣席の同僚と何事か囁き交わしている者達もいた。
「課長」
 課長代理の沢本仁司が強張った表情で近寄ってきた。その背後には課長補佐の前島亜寿香も従っている。
「小此木部長がお呼びです。戻り次第、A会議室に来るようにと。私と前島君も一緒に来るよう言われています」
「どうした、何があった」
「それが、私もはっきりとは……」
 言葉を濁した沢本の後ろから、前島が促すように発した。
「部長から説明があると思います。行きましょう」
「分かった」
 秋吉は座ったばかりの椅子から立ち上がって、もと来た通路を引き返した。
 六階にいくつかある教育事業推進部の会議室のうち、A会議室を小此木は半ば自室のように多用していた。
「失礼します」
 ノックしてから中に入ると、テーブルで執務中だった小此木が顔を上げた。
「おっ、すまんねどうも。まあ、適当に座って」
「はい」
 秋吉達は小此木の対面に並んで腰を下ろす。
 心持ち居住まいを正した部長は、一切の前置きを抜きにして切り出した。
「すでに噂が流れているらしいが、梶原局長のご子息が亡くなられた」
「えっ」
 あまりに唐突であったので、秋吉は驚きの声を漏らしてしまった。
「局長のご子息って……幹夫君がですか」
 梶原家を何度か訪れたことのある秋吉は、幹夫についてもよく知っていた。今どき珍しいくらいまっすぐで素直な少年で、父親の薫陶の賜物であろうと梶原に対する畏敬の念を深めたものだ。中学三年生だから、中学生活最後の夏休みを有意義に送っているとばかり思っていた。
「そうだ」
 小此木は粛然とした面持ちで頷いた。
「ご自宅近くのビルから転落したらしい。今朝になって発見されたそうだ」
「転落って……事故ですか」
「そう聞いている。詳しい事情はまだ分からない」
「今朝になって発見されたってことは、昨夜から行方不明だったってことでは」
「分からん。今警察が調べてるって」
「警察が?」
 今度は沢本が声を上げた。
「それって、何か事件性でも……」
「滅多なことを口にするもんじゃないよ、沢本君」
「は、申しわけありません」
 小此木にたしなめられ、沢本がうなだれる。
「ともかく、我々はすぐに行ってきます」
 立ち上がろうとした秋吉を押しとどめ、小此木は荘重に告げた。
「いや、梶原家にはすでに倉田常務らが行っている。ご遺族のお気持ちを考え、君達は社にとどまって課内が動揺しないよう抑えてもらいたい」
 小此木の指示はもっともなものと言えた。まだ混乱しているであろう梶原家に必要以上の人数で押しかけても迷惑となるだけである。
「それから、例のプロジェクトは一時中止とする」
 衝撃がよほど顔に出てしまったのだろう、小此木が咎めるような視線を向けてきた。
「当然だろう。あれを統括しているのは梶原さんだ。さっき連絡があってな、梶原さんはしばらく休まれるそうだ。もしかしたら休職になるかもしれん」
 言葉もない。他人である秋吉から見ても、幹夫は眩いばかりに潑剌とした存在だった。そんな息子を失った父親の胸中がいかなるものであるか。想像するだけでも耐え難かった。
 重い空気を打ち破るように、それまで黙っていた前島がおずおずと告げた。
「局長とご家族には大変お悲しみのこととお察しします。ですが、現場は私達で動かすことも可能です。プロジェクト自体を少しでも前に進めておいた方が、局長にとっても――」
「前島君」
「はい」
「そういうのをね、さしでがましいとか、賢しげな、とか言うんだよ。前にウチで『新紀元日本語大全』を出したとき、君はまだ入社してなかったっけ」
 実に嫌味な言い方で、且つまた実に小此木らしい。
「申しわけありませんでした」
 前島は即座に詫びる。
「何もわきまえておらず、お恥ずかしい限りです。勉強させていただきました」
 あからさまな迎合ぶりだった。
 秋吉よりも二歳下の沢本に対し、前島は二十九とまだ若い。本人はアラサーだと自嘲しているが、その歳で課長補佐に抜擢されただけあって、何事にも憎らしいほど抜け目がなかった。
 秋吉には前島の言にも一理あると思えたのだが、本人がここまでのリアクションを取っている以上、その意見には同意できなくなった。
「僕だってね、一時的なものとは言え、あれだけのプロジェクトをここで止めるのは断腸の思いだよ。しかし、立花専務が決められたことだ。社長も納得しておられるそうだし、こうなったらもうどうにもならんよ」
 妙に言いわけがましい口調が気になったが、上層部の判断であるならば、これ以上小此木に反論しても意味はない。
「分かりました。ご葬儀のお手伝いとかはどうしましょう」
 すると小此木は「それなんだがね」とさすがに声を潜めるようにして、
「局長ご本人の希望で、ご葬儀はお身内だけで済ませたいそうだ。これもまあ、他人がどうこう言える話ではないだろう」
 確かに他人が口を出せる問題ではない。沢本も前島も黙っている。
「秋吉君、一課には参考書の新シリーズを全国的に展開する企画もあったよね。あの、左ページが全部マンガになってるってやつ」
「あ、『コミック学参シリーズ』ですか」
「そうそう、それ。例のプロジェクトで後回しにしてたけど、一課は当面あれの資料をまとめてほしい。それからね、変な噂が立ってご遺族に迷惑がかかったらそれこそ取り返しがつかん。念のため、全員に注意を喚起しておいてくれ」
 そこで小此木は両膝をパンと叩いて立ち上がった。
「以上だ。じゃ、くれぐれもよろしくね」
 やむなく秋吉達も立ち上がり、一礼して退室した。
 第一課に戻る途中、D会議室が空いているのが目に入った。
「ちょっといいか」
 二人の部下に目配せし、先に立ってD会議室に入る。
 最後に入った前島が、抜け目なく表示を「使用中」に変えてドアを閉める。
「みんなにはこれから改めて話すが、俺が戻ってきたとき、課の雰囲気がなんだかおかしかったのはこのせいだな」
「はい」
 沢本と前島が同時に返答する。
「部長も『噂が流れている』とか言ってたが、どういうことなんだ」
「さあ、私が出社したときにはすでに課内がざわめいていて、梶原局長にご不幸があったとだけ……前島君、君は僕より先に来てたよね」
 沢本は助けを求めるように前島を見た。
「第一報を受けて、総務がすぐに動こうとしたようです。慶弔金のこととかいろいろありますから」
 前島の回答はいつもながら的確であった。
「そしたら上の方から『ちょっと待て』と。雑誌か書籍部の社員がたまたまその場に居合わせたらしくて、それで噂だけが先行したみたいです」
「噂? どんな」
「亡くなった状況のことだと思います。おそらく……」
 いつもは率直な前島が、警戒するように言葉を切った。
「ここには俺達しかいない。続けてくれ」
「単なる事故じゃないんじゃないかと」
「だったら大変じゃないか」
 冷房が効きすぎているのか、胸のあたりが急激に冷えたように感じられた。
「事件性があるのか。それで警察が調べてるってのか」
「そこまでは分かりません。でも、皆が動揺してるのは……」
 今度こそ前島は自らの言葉を完全に吞み込んだ。迂闊に口にすると不謹慎の誹りを免れないからだ。
 事故ではなく、自殺。もしかしたら、他殺の線もあるのかもしれない。
「そうか……」
 秋吉は呻いた。
 千日出版は大手と言われる老舗出版社であるが、秋吉の所属する教育事業推進部は、社内において言わば傍流であって決して主流ではない。そんな部署が、社運を左右すると言っても過言ではないほど、かつてない規模のプロジェクトを進めようとしていたその矢先に――
「分かった。すぐに戻ろう」
 率先して第一課のフロアへと向かう。雑誌やコミックは各階でそれぞれ流行りの大フロアにまとめられているが、教育事業局は課ごとに分けられている。全体的にモダンな新社屋内にありながら、よく言えば伝統的、悪く言えば古めかしいその間取りが、かえって自分達の部署にはふさわしい気がして、秋吉は密かに愛着を感じていた。
 ドアを開けて中に入ると、部下達が一斉に振り返った。全員が自分達の帰りを待ちわびていたようである。
「みんな、ちょっと集まってくれ」
 部下達が周囲に集まるのを待ち、声を張り上げた。
「もう知っている者もいるかもしれないが、梶原局長にご不幸があった。ご子息が亡くなったらしい。詳しい事情はまだ判明していないが、連絡があり次第報告する。ご葬儀についてはお身内だけで済まされるということだ。また局長は当分休まれるらしいので、『黄道学園プロジェクト』の一時中止が決定した」

(つづく)

月村了衛『白日』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322005000382/


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