出版社課長・秋吉の耳に衝撃的な情報が届いた。事業を率いる梶原局長の中3の息子が、謎の転落死を遂げたというのだ。ちょうど秋吉の課が中心となって、[引きこもり・不登校対策]を打ち出す新時代の高校をつくるという一大プロジェクトに邁進していたときだった。プロジェクトは一時中止、噂が社内で広まり、会社上層部は隠蔽に動く。
信頼できない上司、暴走する部下、情報戦の様相を呈す社内派閥抗争……。もはや社内に信用できる者はいない――。
志を持って教育事業を推進してきた秋吉の運命は? 少年の死の真相とは?
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そう言った途端、誰も口には出さないが、明らかな失望と落胆の気配が室内に満ちた。強いリーダーシップを発揮していた梶原の不在は、一時中止も当然と彼らに受け入れさせるだけの説得力があったのだ。またあくまでも〈一時〉のことであると考えたのかもしれない。
教育事業局が進学塾業界第三位の『天能ゼミナール』と合併して独立、構造改革特区を利用した通信制高校『黄道学園』を開校する――
プロジェクトの全体を統括するのが梶原局長であり、その中核を担っているのが秋吉の指揮する第一課であった。
なにしろ、本体である千日出版からの独立というスキームを含むプロジェクトである。すでに決定済みの案件であり、オフィシャルに公表もされているのだが、当然ながらリスクも大きい。新会社への移籍を望まぬ者は、去年の段階で別の部署へ異動するか、退職するかしている。逆に言えば、教育事業推進部に残ってプロジェクトに取り組む者は、皆相応の覚悟でやってきたのだ。
そもそも教育事業推進部第一課には、意図的なものかどうかまでは定かでないが、経営陣の方針に批判的であったり、出版という事業そのものに限界を感じていたりする者が多く集められている。中にはあからさまにリストラ的に配置換えされてきた者もいる。課長である秋吉でさえ、社内で冷遇されていると感じたことは一度や二度ではない。それだけに、独立を伴う黄道学園の構想が持ち上がって以来、第一課の結束は他のどの部署より固いと秋吉は信じて疑わなかった。
そして梶原局長は、自らが楯となって部下を守りつつ、プロジェクトの顔として各種のメディアにも積極的に出演していた。
「部長から指示があり、一課は当面、コミック学参シリーズの企画資料作成に専念する」
「課長」
皆を代表するように挙手する者がいた。主任の新井である。
「なんだ、新井」
「局長は確かにプロジェクト全体を主導しておられました。しかし、今はすでに一課、いや、推進部全体で目標に向かって邁進している段階です。局長にはお悔やみ申し上げますが、それで全体を止めてしまうというのは少々極端なんじゃないでしょうか」
ためらいの感じられる様子ながら、思いきったように新井は言った。『推進部』とは、教育事業推進部の社内における略称である。
彼の発言に、他の多くの部下達が頷いている。
「君の言うことはよく分かる」
管理職として、秋吉は全員の顔を見渡しつつ発した。
「正直に言って、私も皆と同じ思いだ。しかし、あくまでも一時的な処置であって、別に中止というわけじゃない。これは私の考えだが、そう長いものではないと思う」
「その、一時的に止めるってのも納得いきません。我々みんな、各方面との交渉を進めている真っ最中です。たとえ一時的なものにせよ、ここで止めたらプロジェクトにとってデメリットが大きすぎます」
新井はなおも食い下がってきた。もっともな指摘である。
現に、ほかならぬ秋吉自身が天能ゼミナールとの詰めの打ち合わせをまとめてきたばかりである。あれから二時間と経たぬうちに、「一時中止」と先方に伝えねばならないのは気が重いどころの話ではない。
「どうなんですか、課長」
不安を隠しきれない面持ちで新井が詰め寄るように前へ出た。
彼の妻は第二子を妊娠中だと聞いている。資本的には系列下にあると言っても、千日出版本体を出て新会社の起ち上げに参加することは、彼にとっては極めてリスクの大きい決断であったことだろう。今ここでプロジェクトが頓挫することにでもなったりしたら、会社に自分の居場所はないものと恐れているのだ。
ここで強引に押しきるのはまずい――
「君達の言うことは分かった。プロジェクトの行く末を憂慮するのは当然のことと思う。私の方でもできるだけのことはやってみよう。ただし、局長にご不幸があったことを忘れてはいけない。それを念頭に置いて、しばらくはコミック学参シリーズの方に専念してくれ。また言うまでもないと思うが、社の内外にあらぬ噂が立ってはご遺族にご迷惑がかかるばかりでなく、プロジェクトにとっても大きなダメージとなる。その点はくれぐれも留意して、根拠のない憶測に踊らされることのないようにしてほしい」
「はい」
全員が納得したように着席する。さすがに常識的な判断と配慮が働いたものと見える。
「沢本君、前島君、ちょっと」
秋吉は二人を自席の前に呼び寄せ、小声で話した。
「聞いた通りだ。新井君じゃないが、俺だっておかしな話だとは思ってる。さっきの部長の様子も、どこか変じゃなかったか」
二人は無言で頷いた。
「部長は確か、『ご自宅近くのビルから転落した』とか言ってたな。どういう建物かは知らないが、幹夫君はどうしてそんな場所にいたんだろう」
沢本も前島も「さあ……」と首を傾げている。
「部長には弔問の必要はないと言われたが、今すぐは避けるにしても、常識的に考えてお伺いしてもおかしくはあるまい。いや、むしろ行かない方が不自然だ」
話せば話すほど、自分でもどんどん疑念が募っていった。いきなり「一時中止」宣告は、どう考えてもやはり普通ではない。
「局長のお宅には折を見てお伺いすることにしよう。俺はこれから関係各所を事情説明に回らねばならない。沢本君はその間、俺に代わってコミック学参シリーズの方を頼む」
「はい」
「前島君は社内の情報収集に努めてくれ。それもできるだけさりげなく、目立たないようにだ」
「分かりました」
自席へと戻る二人の背中を見つめ、秋吉は無意識にハンカチを取り出していた。そして冷房で乾ききり、汗など少しも浮かんでいないはずの額を何度も拭った。
午後九時過ぎになって、秋吉はようやく大田区北馬込の自宅マンションに帰り着いた。
「おかえりなさい」
玄関で靴を脱いでいると、出迎えた妻の喜美子がすぐに眉を曇らせた。
「何かあったの?」
「分かるのか」
驚いて顔を上げると、喜美子はただ穏やかに苦笑した。
「そりゃ、ね」
そうか、と言葉少なに応じる。
「ご飯、食べる?」
「ああ。でも先に風呂に入りたいな。今日も暑かった」
「今、春菜が入ってるの」
「じゃあ、しょうがないな」
ネクタイを外しながらダイニングキッチンに入る。娘の春菜が入浴中というのなら、ある意味好都合でもあった。
「で、何があったの」
手を洗ってから食卓に着いた秋吉の前に料理の器を並べ、喜美子が尋ねる。
「梶原さんの息子さんが亡くなった」
茶碗に飯をよそっていた喜美子が、手を止めて振り返った。
「幹夫君が?」
「ああ」
千日出版の創立記念パーティーやお花見の会などで、喜美子も梶原家の人達とは面識がある。梶原夫妻には中学三年生の幹夫と、小学五年生の沙織という二人の子供がいた。ことに明朗で礼儀正しい幹夫について、喜美子は折に触れ褒めていた。
「そんな、どうして」
「事故だそうだ」
「もしかして交通事故?」
「違う。高い所から足を踏み外したらしい」
「高い所って?」
「なにしろ今朝のことだから、まだ詳しいことは分からないんだ」
あえてぼかした言い方をした。妻によけいな心労はかけたくない。
「春菜がお風呂に入っててよかったわ」
浴室の方に目を遣って妻が漏らした。思いは秋吉とて同じである。
一人娘の春菜は、現在中学一年生である。毎日元気よく通学しているが、小学四年生のときにいじめに遭い、登校拒否に陥った。原因はクラスのボス的な女子の命令に逆らったことだった。それだけでなく、ルールを守らず専横的にふるまう彼女を学級会で批判した。その翌日から、春菜は女子全員から無視され、私物をゴミ箱に捨てられるなどの嫌がらせを受けるようになった。そうした経緯を秋吉が知ったのは、春菜が登校拒否を始めてから二週間後のことだった。
あのとき秋吉家はどん底の苦しみを味わった。日本の教育制度や法律は、被害者を救うようにできているとは言い難い。秋吉には、むしろ被害者をより苦しめ、加害者を守るようにできているとさえ思えた。
本来ならばいじめの元凶である生徒を罰するべきではないのか。しかし保身を第一と考える担任や校長はいくら訴えても責任を認めず、親切めかして転校を勧めるばかりであった。
仕事のつながりで面識のあった教育カウンセラーに相談すると、悔しいだろうが相手の責任追及は一旦忘れ、まず環境を変えること、そのためにも娘を転校させることが先決だと助言された。その人物の紹介してくれた私立校に転校させ、家族で過ごす時間を増やした。娘のためにできることはなんでもやった。
そうした必死の対処が功を奏し、やがて春菜の傷ついた精神は回復の兆候を示し始めた。そんな頃、普段は多忙を理由にパスしていた職場の花火大会に家族三人で参加した。そのとき春菜に朗らかな声をかけ、一緒に遊んでくれたのがほかならぬ梶原幹夫であり、妹の沙織であったのだ。それが娘によい影響を及ぼしたのは間違いない。翌日から、娘は目に見えて明るくなった。
その幹夫が死んだなどと、春菜に到底聞かせられるものではない。
いや、いずれは話さなければならないだろうが、少なくとも詳細どころか真偽さえ疑わしいような現状では、迂闊に切り出すべきでないと思われた。
「それでな、例のプロジェクトが――」
「しっ」
箸を取り上げながらそう言いかけたとき、喜美子が鋭く秋吉を制止した。
「あ、お父さん、おかえりなさーい」
パジャマ姿の春菜がキッチンに入ってきた。まだ頰がピンク色に上気している。夏休みに入ったばかりだが、春菜は毎日バドミントンの部活で汗だくになって帰宅するという。小学生の頃に体験した暗黒をやっと抜け出してきただけに、気の合う仲間達との部活が楽しくてしようがないのだろう。
「ああ、ただいま」
「お母さん、あたしもおなか空いちゃったー」
自分の椅子に座りながら、甘えたように春菜が言う。
「あんたはもうとっくに食べたでしょ」
「そうだっけ? でも、おなか空くんだもん、この頃」
ぺろっと舌を出してみせる娘の様子に、秋吉は安堵し、また無上の喜びを覚えていた。妻が温めてくれたばかりの味噌汁を口に運ぶ。うまい。心に沁み入るようだった。
出し抜けに春菜が訊いてきた。
「ねえ、お仕事の方はどう?」
「えっ」
娘の黒い双眸がダイニングテーブル越しにじっとこちらを見つめていた。
「どうしたんだ、いきなり」
そうごまかすのが精一杯だった。
「だって、気になるんだもの。黄道学園。来年の四月からでしょ、開校するの」
娘はどこまでも無邪気に言う。
秋吉の手掛ける『黄道学園プロジェクト』についての情報は、以前から家族の間で共有されている。
「いじめとか、そういうのが起こらないシステムなんでしょ? あたし、毎日思ってるの。そんな学校、本当にできたらいいなあって」
「何言ってるんだ。お父さんはそのために頑張ってるんだぞ」
つい言ってしまった。後悔するがもう遅い。第一、この娘の前で、他に答えようがあっただろうか。
「春菜、この前頂いたクッキーが残ってるけど、食べる?」
喜美子がさりげなく焼き菓子の箱を開いてみせる。話を逸らそうとしているのだ。
「わあ、食べる食べる」
「飲み物はミルクでいいわね。もうこんな時間なんだから。この前みたいに紅茶のカフェインで寝付けなくなったら大変だわ」
「うん、ありがとう」
娘は早速クッキーに飛びついている。
妻に感謝の目を向けると、喜美子は「まかしといて」と言うように微かに頷いた。
(つづく)
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