出版社課長・秋吉の耳に届いた、上司の息子の突然の死の情報。
進行中の大きなプロジェクトは一時中止、噂が社内で広まり、会社上層部は隠蔽に動く。
信頼できない上司、暴走する部下、情報戦の様相を呈す社内派閥抗争……。もはや社内に信用できる者はいない――。
志を持って教育事業を推進してきた秋吉の運命は? 少年の死の真相とは?
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翌日、秋吉は自席でパソコンのディスプレイを睨み、スケジュールの調整に専念した。
多岐にわたる関係各所へ足を運び、プロジェクトの一時中止に関する説明を行なわねばならない。詳しい事情をこちらが把握していない段階で一方的に中止を伝えるのは、ビジネスとしてあり得ないと言ってよく、心苦しい限りであった。だがそれでもやらねばならない。後になればなるほど、取引先の不信感を招くだけであるのも事実だからだ。
昨日の段階で、失礼とは思いながらメールや電話による連絡はできるかぎり済ませてあった。それでも実際に相手先に伺う必要がある。そのためのスケジュール調整なのだが、なにしろ数が多いばかりでなく、先方も多忙なので、どうしても都合がつかない相手が出てくる。まるで難易度の高いパズルでも解いているような気分になり、秋吉は朝から何度も舌打ちばかりしていた。
〈一時的〉と告げられた中止期間は、一体いつまで続くのだろうか。それすら分からないという現状が、どうにも歯痒くてたまらない。
キーボードを叩いていた手を止めて、秋吉は引き出しから資料の束を取り出した。梶原局長の指揮の下、これまで自分が身を削る思いでまとめあげたものだ。
『黄道学園』とは、来年四月開校を目指して千日出版と天能ゼミナールが準備を進めてきた通信制高校である。
他校とは決定的に異なるこのプロジェクトの最大の特徴は、最新のITを駆使して[引きこもり・不登校対策]を前面に打ち出した点にある。
一言で言うと、〈ネット上に在る学校〉か。
入学した生徒は新開発のインタラクティブ・VR・システムを装着して自室のパソコンに向かうだけでいい。SNSに参加するような気安さで〈学校〉にアクセス可能となる。つまり生徒は自宅にいながらにして、天能ゼミナールの誇る一流講師陣の授業を、まるで教室にいるかのような感覚で受けられるのだ。
そのために千日出版は、IT企業の雄『ジュピタック』と提携し、綿密なミーティングを進めてきた。ジュピタックの技術力があればこそ、黄道学園プロジェクトは初めて軌道に乗ったと言っていい。
さまざまな事情から引きこもりとなってしまった生徒を教育の場へ復帰させるにはどうすればいいのか。その難題解決に対する試みの一つが、黄道学園プロジェクトなのだ。
もちろん、リアル校舎である『本校』を設け、入学式、卒業式、体育祭、文化祭などのイベントも実際に挙行する。参加はあくまでも本人の意思で、ネットでも同時配信するから問題はない。コンセプトは[ネットのオフ会の延長]だ。
学校法人を設立して運営するため、授業料での収益はあまり見込めないが、関連する教材や機器の売り上げ、使用料で関係各社が回収するというビジネスモデルである。何より、千日出版にとってもジュピタックにとっても、教育関連事業で実績を挙げることによって企業イメージの大幅アップが期待される。
自ら作成した資料を読み返しながら、秋吉は三年前のことをまざまざと思い浮かべる。
我が子が不登校となる。それは親にとって、想像もしなかった――そして想像もしたくない状況である。そんな危機に直面した家庭にとって、黄道学園のような場があれば、どれほどの救いとなることか。秋吉は切実な思いを胸に抱いてこの仕事に取り組んできたのだ。
それはまた、秋吉自身の救いにもつながった。いじめや不登校という問題。それを根絶しようと努力するどころか、自ら助長し、発覚すると隠蔽してやり過ごそうとする教育現場。そうした現実に、自分が如何に傷ついていたのか。改めて思い知らされたようだった。
だからこそ、秋吉にとってこのプロジェクトは〈特別〉であったのだ。
資料の中に、二つ折りにされた厚紙があった。秋吉は格別の感慨を以てそれを開く。
[いじめや不登校に苦しむ子供達が、心から安心できる〈居場所〉となる学校。生徒に何も押しつけず、ただ生徒が安心できる時間と空間を提供する。登校さえ強制しない。勉強の仕方も、活動の仕方も自由である。
しかしそれは、生徒が自らの主体性を以て決定するものでなければならない。教師もまた、従来の価値観に囚われることなく、生徒の多様性を広く認め最大限に尊重する。
大学受験、海外名門校への進学等を希望する生徒には、最高の講師陣が全面的に指導する。そして最新テクノロジーにより、それらをすべての生徒に提供する。
黄道学園は、すべての生徒に自らの尊厳についての自覚を促し、その手助けをし、成長の機会を与える。そこに、従来の偏見や固定観念は無用である。生徒は、誰もが一人の人間として、自ら選び、希望した道を進むことができる]
それは、梶原が起草した黄道学園設立の理念であった。
梶原が筆を執ったとき、秋吉もその場にいた。秋吉の話を聞きながら、彼はすべての礎となる文を綴っていったのだ。
局長は、黄道学園に懸ける自分の気持ちを真に理解してくれていた――
だが[ネットを利用した通信制高校]というだけでは、似たようなアプローチを取っている先行他社と競合することはできない。そのため、天能ゼミナールと合併するという案が浮上し、社長の決断を経て採用されたのだ。
黄道学園のもう一つのポイントは、まさにその点にある。
すなわち、[東大をはじめとする一流大学への進学を可能とする]学力の涵養だ。
通信制高校というと、教育の機会を奪われた生徒への救済措置のようなイメージが世間ではまだまだ強い。意識的か無意識的かを問わず、生徒にも保護者にも抵抗感があるだろう。そうした従来のイメージを覆し、生徒の可能性をどこまでも広げるため、受験のエキスパートとして知られる天能ゼミナールの有名講師陣が個別に徹底指導する。
実際にこのプランが公表されたときには、受験業界が騒然となったものだ。
入塾テストの段階で並の大学よりも厳しいと言われる天能ゼミナールの講師が指導してくれるという事実。それは、[第一期生から東大合格者を出す]という目標を掲げた黄道学園の信頼性を、大いに担保するものとなったのだ。
そうだ、すでに公表済みのこのプロジェクトを、ここで消滅させてなるものか――
「課長」
不意に声がした。顔を上げると、デスクの前に前島が立っていた。
「よろしいですか」
「ああ」
頷くと、前島は心持ち身を乗り出すようにして小声で報告した。
「噂が急速に広まっているようです」
「どんな噂だ」
「局長の息子さん、事故ではなくて自殺じゃないかって」
「ちょっと待て」
前島を制止し、室内の様子を確認する。
沢本は大テーブルで数人の部下を相手にコミック学参シリーズについて説明している。他の者達はそれぞれ自席で仕事に没頭しているようだが、その実、密かに聞き耳を立てていないとは断言できない。
「別室で話そう」
「はい」
前島を連れてフロアを出た秋吉は、エレベーターホールに向かい、折よく到着したエレベーターに乗り込んで九階のボタンを押した。同階には、社員食堂とカフェテリアがある。
カフェテリアの方に入った秋吉は、機械的にコーヒーを二人分注文する。カップの載ったトレイを持って隅のテーブルに陣取り、前島に向き直った。
「で、どういうことなんだ」
「昨日第一報が入ったとき、総務課に居合わせたという社員を突き止めました。コミック編集部の青井さんです」
初めて聞く名前だった。しかし千日出版は業界でも屈指の規模を誇る。離れ小島とも言うべき教育事業局にいる秋吉が知らない社員は無数にいた。
「コミック学参シリーズを大々的に動かしたいので、漫画家を紹介してほしいと言って話を訊きに行きました。それとなく誘導すると、すぐに乗ってきて、いろいろ話してくれました。要するに、総務課が梶原局長の件で大騒ぎしているとき内線電話が入って、受けた人が『えっ、自殺?』とか声を上げていたと」
「内線? 誰から」
「そこまでは分かりません」
「それを目撃した青井が噂の出所というわけだな」
「ええ。すぐに上司から口止めされたそうですが、一度広まると、もう……」
「本当なのか、自殺ってのは」
「総務に同期の友人がいるので、単刀直入に訊いてみました。すると、総務でも事実関係は把握しておらず、どう対処していいか困っているということでした」
秋吉は目の前のコーヒーに視線を落とす。胃の具合が芳しくなく、カップを取り上げる気にもなれなかった。
「局長のご自宅には、確か昨日、倉田常務が行かれたはずですよね。常務はなんと?」
逆に前島から質問された。
「今朝小此木部長にも確かめたんだが、どうにも要領を得なかった」
そう答えると、前島は「ああ……」という顔で頷いた。何事も曖昧にして自らの立場を鮮明にしない。それが最良の処世術であると小此木は信じ込んでいる。少なくとも、第一課の課員達は小此木をそういう人物であると認識している。
「分かるような気がします。部長が明言を避けたのも」
カップを取り上げて、前島が意味ありげに呟いた。
時に応じて切れ者らしくふるまってみせる。それが前島の得意技であり、秋吉が自らの補佐である彼女を全面的に信頼しきれぬ理由であった。
だが今は、秋吉も前島とまったく同じことを考えていた。
「梶原さんは新会社の代表としても、プロジェクトの顔としても、これからもっともっと前面に出てもらわなくちゃならない。幹夫君が自殺だとすると、梶原さんにとってはつらいなんてもんじゃない。プロジェクトへのモチベーションを完全に喪失したとしてもおかしくはないと思う。一方で、会社にとってはどうだろう」
前島の意見を聞くつもりで振ってみたのだが、それには答えず、彼女はただじっとこちらの発言を待っている。
自らの責任となりそうなことは絶対に口にしない。それが彼女の慎重さであり、狡猾さであった。
秋吉は心の中でいまいましく思いながら自分で続ける。
「理想を掲げた黄道学園の顔となるリーダーの息子が自殺した……となると、会社としてはかなり困ったことになるだろう。夏休み明けには生徒募集を兼ねた説明会やイベントがいくつも企画されてる。引きこもりや不登校対策に悩んでいる親御さんから、ここなら任せられると信頼してもらうことが必要な時期なんだ。今その信頼を損なうようなことになったら、プロジェクトそのものの成否に関わる」
「だから会社は事故ということにしておきたい、とおっしゃっているのですか」
「推測だよ。証拠はない」
そう答えてから、自らの考えをこちらに言わせる前島の話法に腹が立った。
「プロジェクトが失敗したら、困るのは君だって同じはずじゃないか」
前島は何も答えない。
秋吉はつい嫌味を言ってしまった自分自身に、どうしようもない苛立ちを覚えた。
「俺が言いたいのは、事故であろうと、自殺であろうと、幹夫君は帰ってこないし、梶原さんの悲しみに変わりはないということだ。そこに会社の都合を持ち込むべきじゃない」
「なんだか矛盾してませんか」
コーヒーを一口含み、前島が冷静に告げる。
「何が」
「プロジェクトが失敗したら困ると言いながら、会社の都合を持ち込むべきじゃないと言う。一体どう解釈すればいいのでしょう」
あくまで「上司の指示を待つ部下」を装っている。
腹立たしいが、冷静な分だけ理は前島の方にあった。
秋吉は視線を落として自分のカップを覗き込んだ。どす黒い液体に対し、やはり胃が摂取を拒否している。
「俺は直接倉田常務に当たってみる。君は引き続き社内で情報を集めてくれ。それと、この件に対して一課のみんながどう感じているか、さりげなく様子を見てほしい。いいか、あくまでさりげなくだ」
「分かりました」
「頼んだぞ」
コーヒーを飲んでいる前島を残し、立ち上がって出口へと向かう。
「課長」
背後から呼びかけられて振り返る。
「なんだ」
「コーヒーごちそうさまです」
何も答えずカフェテリアを後にした。
しかしその日は、倉田常務との面会は叶わなかった。常務には終日社外での予定が入っているというのである。また秋吉にも、社外に出向く用が何件もあった。
午後七時半頃社に戻り、常務の秘書である上山に連絡を入れたが、まだ戻っていないということだった。
直接の上司である部長の小此木を飛ばし、課長が連絡してくることを上山秘書は訝しんでいるようだった。それでもある程度は事情を察しているのだろうか、こちらを咎めるような態度は見せなかった。
もしかしたら帰社するかもしれないと思い、九時頃まで待ってみた。しかしどうやら本当に社に戻る気配はないようだった。
秋吉はやむなく九時半過ぎに社を出て帰宅の途に就いた。
翌朝、一番に常務の執務室へと向かった。その日は一旦出社してから外に出る予定だと上山から聞いていた。
「困るなあ、秋吉君」
常務の執務室へと続く秘書室で、上山とともに待っていたのは、倉田ではなく小此木であった。
(つづく)
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