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試し読み

【試し読み④】明治期に、天皇系統図から外された女性天皇のこと。『皇室、小説、ふらふら鉄道のこと。』

『皇室、小説、ふらふら鉄道のこと。』より、第1章を特別公開!
>> 第 3 回「女官、究極の女性社会。三浦は震え、原は興奮した。」


――『源氏物語』は不敬ではないのか?
にもかかわらずこれだけ読まれてきたのは
いったいなぜなのか?
三浦の疑問に、原が答える。

三浦 不敬と言えば、ずっと疑問だったんですが、『源氏物語』は相当不敬な話ですよね? それなのにどうして、発表当時から宮中であれほど読まれたんでしょう。平安時代にはどういう感覚でみんなが読んでいたのか、とても不思議なんです。
女御にょうごと密通してできた子供が天皇になっちゃうって、実際にもあるかもね」「やあだ、これはあくまでもフィクションよ」「いやいや、そうとも言いきれなかったりして……」といった感じで、宮中の人々はキャイキャイと受け止めていたんでしょうか。
 もし、戦前・戦中に『源氏物語』が新作として発表されたら、紫式部は不敬罪で確実に捕まるんじゃなかろうかと気が揉めるんですが。不敬という概念は、明治以降に厳しくなったんですか?

 一夫一婦制が確立されたのは、皇室で言えば大正天皇以降です。平安時代は一夫一婦ではないのは明らかです。例えば紫式部が仕えた藤原彰子しょうしは、一条天皇の中宮ですね。一条天皇には清少納言が仕えた藤原定子ていしという皇后がいました。中宮は皇后と同じ意味ですから、一条いちじょう天皇には二人の皇后がいたわけです。ただし定子は皇后になったその年に亡くなったため、彰子が皇后になり、後一条と後朱雀ごすざくを産みます。
 この時代は摂関政治の全盛期で、確かに藤原道長は強大な権力を持っていましたが、天皇により近いところに彰子という母がいて、摂政道長よりも近い立場で幼帝の面倒を見ていました。母が天皇の代役を果たすこともあったわけです。藤原氏が外戚として権力を持った摂関政治では、天皇が骨抜きにされていくと言われますが、実際はそれほど単純ではなく、母としての藤原氏にも権力がある。
 神功皇后も子の応神天皇が幼いときから摂政となり、結果 69 年も務め、死ぬまで権力を持っていた。もちろんこの話は実話ではないでしょうが、伝説を含めた歴史を遡ればそこまで行き着きます。例えば皇極こうぎょく天皇と孝徳こうとく天皇は姉と弟だし、元正げんしょう天皇と聖武しょうむ天皇は伯母と甥でしたが、どちらも母子関係に近いものがありますし、北条政子や日野富子は文字通り将軍の母として権力を持った。これは江戸期に一度中断しますが、明治以降また皇太后と天皇という母子関係が出てくる。そういう連綿とした一つの系譜の中に位置づけることはできないだろうかと思うのです。

三浦 そこがよくわからない。男系社会における「母」の権威というのは、「天皇」あるいは「将軍」の子を産んだことで発生するものですよね? 生まれた子供は、「天皇の子」であり、「将軍の子」であるから、次代の天皇や将軍になる。その母親も、権威を持つ。でも、その子が本当に天皇や将軍の子なのか、わからないじゃないですか。そこを衝いたのが、『源氏物語』なのではないかと思うんです。そういう物語が、平安時代の宮中では受け入れられ、天皇や中宮自身も続きを楽しみに読んでいたらしい。明治以降の宮中とは、感覚が若干違うのではと思うのですが。

 そう。だからこそ例えば豊臣秀頼ひでよりなんかも、本当は秀吉の子ではなくて、淀殿が密通していた大野治長はるながの子だったんだという風説が江戸時代になると広まるわけです。
 もっとも明治以前に限らず、生まれた子が天皇の正しい血筋を引いていると確定できるかという問題は常にあります。なぜ貞明皇后は秩父宮だけをあんなにかわいがるのか。外務省情報部長だった天羽あもう英二の二・二六事件直後の日記には、「秩父宮ガ正嫡。二・二六事件ハ天皇、秩父宮ノ争云々」という記述があります(『天羽英二日記・資料集』第三巻、天羽英二日記・資料集刊行会、1990 年)。そういう噂は潜在的にくすぶり続ける。

三浦 だとすると、どうして男系で正統性を担保しようとしたんでしょう。もし、「天皇家の血筋は連綿と続いているのだ」としたいなら、天皇自身の性別はどちらでもいいですけれど、跡継ぎは常に、「天皇の娘が産んだ子」の中から選んだほうが、明確ですよね。

 そこには中国への対抗意識があったのではないでしょうか。中国では革命があって、始終王朝が交替する。それに比して日本はずっと一つの血縁で来ている、本居もとおり宣長のりながのような国学者はそれが言いたいわけですね。もともとの日本人精神の中に天皇にとって代わろうとする野心はなかった、と。

三浦 うーん……? 重要なのは、「血縁」というよりも、むしろ「家」である。天皇家は、長く続いている「家系」だから貴いのだ。本居宣長が言いたいのは、そういうことですか?

 ああ、そうですね。血縁というよりも家系と言ったほうがよいかもしれません。例えば『古事記伝』一之巻に当たる「直毘なおびのみたま」には、「御世御世の天皇は、すなはち天照大御神の御子になも大坐ます」という一節があります。代々の天皇は、みなアマテラスを祖先とする一つの家系として繫がっていると言っているわけです。
 万世一系という言葉が流布するのは、明治以降です。その原型に当たるものは国学の中に出てきていた。当然そう言った以上は歴代天皇を確定させることが急務になった。そのとき大問題となるのが、南朝の長慶ちょうけい天皇が存在したか否かと、神功皇后を皇統に入れるか否かでした。結局この問題は大正末期になってようやく結論が出て、長慶天皇を天皇として認める一方、神功皇后は外されました。いくら三韓征伐などで活躍しても、皇后なのに天皇だったという前例を認めるわけにはいかなかったのではないか。時の天皇が天皇としての役割を果たせず、時の皇后が神功皇后に肩入れしていればなおさらでしょう。

三浦 神功皇后は天皇の娘なんですか?

 神功皇后の父が、開化かいか天皇の玄孫やしゃごですね。

三浦 遠い繫がりだな。だとすると、天皇の娘ではないから、皇統に入ることが許されなかったのではないでしょうか。

 『日本書紀』では神功皇后を天皇と同じ独立の一巻として扱っていますが、天皇とは表記していない。『愚管抄ぐかんしょう』『神皇じんのう正統記しょうとうき』など、多くのテキストで神功皇后は天皇扱いですが、それを天皇でないとしたのが『大日本史』です。しかしそこでかたがついたわけではない。明治維新からでも決着に 60 年近くかかったのは、それだけ二転三転したということです。

三浦 説話を通して庶民にも、神功皇后は根付いているんですよね?

 その点が神武じんむ天皇と違います。神武には庶民レベルの説話はなかったし、現在ある神武天皇陵は、幕末に急ごしらえで橿原かしはらに作ったものです。

――神功皇后は、明治期に実在しないとして
天皇系統図から外された。
なぜ神功皇后は、「天皇」ではなくなったのか。
その理由を、過去の女帝に探る。

三浦 素人考えですが、『日本書紀』で神功皇后を天皇扱いしなかったのは、やはり天皇の子ではないからではないでしょうか。兄が即位したら、弟は「臣下」になるように、天皇になる可能性があるのは男女を問わず天皇の子のみ、というのが原則だったのでは、という気がします。律令体制を成立させつつあった『日本書紀』編纂当時の支配層は、そういう明確な原則を打ち立てたかったのではないでしょうか。そうすれば、ある程度後継者争いを回避できますし。
 律令体制以降、女性で天皇になったのは、天皇の娘であり、なおかつ天皇か皇太子の妻だった人と、未婚で天皇の娘である人だけですよね? つまり女帝の絶対条件は、「天皇の子」であることです。神功皇后のような女性が実在して、実質的には女帝だったのかもしれないけれど、「歴史」として記述する段階では、あくまでも「即位せず、皇后だった」ことにしておいた。そうじゃないと、『日本書紀』編纂当時の支配層にとっては都合が悪い。
 もちろん、律令体制成立以後も天皇の子がいなかったら先代の天皇の子とか、天皇の兄弟とか、緊急事態がいろいろあったんだと思います。だけどその場合、選ばれるのは男性です。女性が天皇になるには、「天皇の子」という資格が必要だったように見受けられます。貞明皇后が神功皇后に思い入れたのも、「あたしのほうが天皇よりも祭祀に熱心だし、神がかれるし、カリスマもあるし、政治的センスだってあるのに、天皇の子じゃないから天皇になれない。神功皇后と同じ立場だわ」と考えたからかもしれません。
 もし、そんな自分の代わりに秩父宮を皇位につけたいと思っていたのだとしたら、「簒奪」感がいよいよ増しますね……。明治以降、天皇の子であっても、女は皇位につけない決まりになったんですよね?

 その通りです。

三浦 繰り返しになりますが、日本の律令体制確立期に、中国にならいつつ、血統によって天皇になる(天皇の子が天皇になるのが原則)という仕組みにしたのだとしたら、なぜ女性の血統によらなかったのかが謎です。特に古代には、母系で地位や財産を継ぐしきたりがなかったわけでもないのに、中央集権的国家を作ろうというときに、なぜそこを活かさなかったのか。天皇の奥さんが産んだ子は、天皇の血を引いていない可能性があるけれど、天皇の娘が産んだ子は、絶対に天皇の血を引いています。

 確かに神功皇后は、開化天皇の子孫だとは言っても系図的にはかなり離れていますから、継体けいたい天皇のように、本当は天皇家とは関係のない豪族の出身ではないのかと疑うことは充分可能です。息長足姫オキナガタラシヒメ命という別名は、この皇后が近江おうみの息長氏という豪族の出であることを示しているようにも見えます。藤原彰子のように母のほうが実際には幼少の天皇と同居して後見役を務めていたのも、絶対に天皇と血で繫がっているという要因が大きいのかもしれません。

三浦 孝謙こうけん重祚ちょうそして称徳しょうとく天皇以前、律令体制確立期に天皇になった女性は全員、天皇の娘か、娘かつ天皇の妻(皇后)です。神功皇后は天皇の娘ではないので、その条件から外れますよね。少なくとも律令制度が日本で固まって、『日本書紀』が編まれた頃には、天皇の子に皇統が受け継がれていくという原則が明確化されたのではないでしょうか。つまり、「血による継承」と「天皇家という家柄」の複合形です。「血による継承」に、女系社会の名残がほの見えるのではないかと。それがだんだん時代が下るにつれ、「家柄、家系=男系」により傾いていったということはないですか?

 そこで気になるのは、称徳天皇が皇位につけようとした道鏡どうきょうの存在です。成功したら王朝交替の可能性があったわけです。平安以降になると、この二人の関係が性的にスキャンダラスな逸話を伴って語り継がれてゆく。そのせいか、藤原氏のような絶対的な権力を持った貴族でさえも自己規制をする。

三浦 称徳天皇と道鏡にまつわる逸話も、「女の天皇は操られやすい」というバイアスがかかっている可能性がありますよね。本当は政治家として非常に有能な女性だったのに、藤原家との権力闘争に敗れ、「やっぱり女帝はダメだ。道鏡なんかにうつつを抜かして」という「物語」が、「歴史」として捏造ねつぞうされたのかも、なんて想像してしまいます。

 平安時代以降も、女性天皇の可能性がなかったわけではありません。清和せいわ天皇は数え 9 歳で即位しました。それまでは幼帝の場合には、女性が中継ぎとして天皇となる慣行がありましたが、このときはふさわしい女性がおらず、幼い子がそのまま天皇になった。奈良時代までならあり得ない皇位の継承の仕方ですが、前例ができると抵抗がなくなってしまいます。

三浦 なるほど。それでお母さんや上皇や法皇が権力を持つようになったわけですね。

東武ワールドスクウェアの精巧なミニチュア建築を背景に

第5回へつづく####
対外危機が起こると、持ち上げられる神功皇后伝承。
蒙古を撃退した女性天皇としてもてはやされ、今もたくさんの伝承や遺蹟が西日本各地に残る。


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書誌情報はこちら>>『皇室、小説、ふらふら鉄道のこと。』

☆発売中の「本の旅人2019年3月号」では、第2章を一部をお読みいただけます!


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