皇室、小説、ふらふら鉄道のこと。
【試し読み⑤】西日本の各地に残る、いさましい神功皇后伝承。 『皇室、小説、ふらふら鉄道のこと。』
『皇室、小説、ふらふら鉄道のこと。』より、第1章を特別公開!
>> 第 4 回「明治期に、天皇系統図から外された女性天皇のこと。」
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――対外危機が起こると、持ち上げられる神功皇后伝承。
蒙古を撃退した女性天皇としてもてはやされ、
今もたくさんの伝承や遺蹟が西日本各地に残る。
三浦 神功皇后はどういう形で語り継がれ、庶民の間で信仰されてきたんでしょうか。
原 鎌倉時代「元寇」のときに、水や火や風を操り、蒙古を撃退したのは神功皇后だという縁起本が出て、広がりました。対外的な危機が神功皇后を押し上げた。
三浦 秀吉の朝鮮出兵のときは、「香椎宮に祀られてる神功皇后に、戦勝祈願しにいこうぜ」という感じだったんですか?
原 いえ、向こうに行って思い出したんです。
三浦 えっ、遅くないか!?
原 文禄の役のときには、現在の 38 度線付近にある臨津江の戦いで、武将の家臣が神功皇后の三韓征伐を思い出しています。
三浦 戦地でようやく、神功皇后のご加護で勝ちたいなと思いはじめた、と。確認ですが、神功皇后の三韓征伐って伝説なんですよね?
原 はい、実証されていません。ただ平安時代から『日本書紀』の研究は盛んでしたので、宮中でも勉強会が開かれていた。何種類も研究書が出ていたので、皆一通り読んでいたのではないでしょうか。
三浦 戦地でようやく、神功皇后のご加護で勝ちたいなと思いはじめた、と。確認ですが、神功皇后の三韓征伐って伝説なんですよね?
原 はい、実証されていません。ただ平安時代から『日本書紀』の研究は盛んでしたので、宮中でも勉強会が開かれていた。何種類も研究書が出ていたので、皆一通り読んでいたのではないでしょうか。
三浦 確か紫式部も、「日本紀のお局」とあだ名をつけられてますよね。「女なのに漢文オタ」みたいなニュアンスで。
江戸時代より前の関東平野なんて、沿岸部は葦の生い茂る湿地帯でしょうし、文化も経済も西のほうが断然中心地ですから、神功皇后の伝説はあまり伝播してきてないですよね? 関東育ちのものにとっては、ヤマトタケルのほうが親しみがある気がします。
原 あるいはヤマトタケルの妃のオトタチバナでしょう。滋賀県から西に行くと、急に神功皇后伝説が増えます。
ヤマトタケルやオトタチバナは別として、古代の天皇や上皇がどこまで来ていたかといえば、東の端は三河です。愛知県豊川市の宮路山に、大正期に建てられた巨大な持統天皇聖蹟の碑がある。大正天皇が初めて京都御所で即位礼を行った折に、皇后も即位を宣言するはずでしたが、妊娠していて行くことがかなわなかった。当時は各地で女帝の碑が建てられるんです。持統天皇聖蹟の碑もその一つです。
三浦 なぜ、持統天皇は三河の山に登ったんでしょう。
原 本当に登ったかどうかはわかりませんが、「国見」をした可能性はあります。『続日本紀』には太上天皇だった大宝 2 年 10 月 10 日に三河国を行幸したという記述があります。神功皇后となると、伝説だらけ。例えば愛媛県の鹿島という島では鯛めしが名物ですが、これは神功皇后が三韓征伐に行く前に鯛めしでもてなしたという伝説によるものです。
三浦 そんな伝説が残っているとは、その土地の人に愛されてる感じがありますね。そうじゃなければ、「戦に行く前に、鯛めしを食べたに違いない!」なんて、妙に具体的なエピソードは生まれないはずですもん。
原 たとえフィクションだとしても、地元の住民はそう信じていたことだけは間違いありません。
三浦 そんな風にいろいろ設定が加わっていくのは、神功皇后というキャラクターに魅力を感じ、思い入れしたからなんでしょうね。現代で言えば、「初音ミクは葱を持っている」みたいなことかな。面白いですね。
神功皇后って、持統天皇の境遇に似ていませんか? 夫に先立たれ、戦にも参加し、子供を抱え、のちに孫の後見をする。持統天皇の偉大さを強調する意図で、「こういう人は以前にもいたんですよ」と、神功皇后の伝説を『日本書紀』に取り入れたということはないでしょうか。
原 斉明モデル説もあります。『日本書紀』によると実際に九州まで行っているし、朝鮮半島まで行こうとしたところも似ています。
三浦 そうか、斉明天皇は対外戦争時の女帝ですね。それにしても日本って、日清日露や第一次世界大戦以外、海外で戦って勝ったことは有史以来一度もないわけですよね。やっぱり、戦争するのはやめたほうがいいな。
原 日清戦争の戦場のほとんどは朝鮮半島です。朝鮮は当時中国を中心とする国際秩序に属していたので、中国が朝鮮内乱の鎮圧に兵を出し、日本も出兵したのでぶつかり合った。そこで神功皇后伝説が出たかというと……あまり出ていない。
三浦 勝ち戦だから、神功皇后のことを思い出さなかったのかな。
原 あのときは、神話や伝説が動員されたという感じではなかったですね。日清戦争のときは神様に頼らなくても短期決戦で勝ってしまったでしょう。せいぜい戦勝が決まってから、明治天皇の皇后だった美子、すなわち昭憲皇太后が三韓征伐に関係する宗像三女神を祀る厳島神社に参拝したぐらいです。太平洋戦争でも、土壇場になってから神功皇后が出てくる。
三浦 窮地に追い込まれると、神風を期待するように、神功皇后のご加護を期待しはじめるんでしょうか。
原 その可能性もないとはいえません。
三浦 戦の専門職に登場願いましょう、と。神功皇后に過剰に思い入れする貞明皇后に対して、どうして息子である昭和天皇は何も言えなかったんでしょう。天皇は当時、40 歳を超えてたんですよね?
原 西園寺の危惧が当たってしまったわけです。
三浦 相当怖いお母さんだったのかな……。
原 昭和天皇は、二・二六事件の折には強い態度に出たんです。そこには秩父宮と結びつく母に対する怒りも含まれていたというのが清張の読みだと思う。先ほども言いましたが、その直後の内閣交代のさい、皇太后は新閣僚に一人ずつ会って激励の言葉をかけるという、前例のない政治的行動に出ている。ある意味では、天皇に対する対抗心を剝き出しにしてくる。それが昭和天皇をいたく狼狽させたのではないか。そのときに天皇がより強い態度に出たかというと、出ないんです。
三浦 出ればいいのに!
原 何かのトラウマでしょうか。
三浦 貞明皇后は、次男であり、昭和天皇の弟である秩父宮ばかりをかわいがっていたんですよね? これ以上お母さんに嫌われたくないと思って、反抗できなかったのだとしたら、とてもつらい話ですね。同じ息子なのに、どうして一方だけを贔屓するのか、よくわからないし。
原 大正天皇の病気を見てきたことも大きかったと思います。原因不明の病で、形容のしようがないほどおかしくなった天皇を間近で見るのは恐怖だったと思う。未だに大正天皇の病気の真相はよくわかっていません。昭和天皇自身は生物学者でしたが、科学でも説明できないことに対する恐れがあったのではないか。
三浦 なるほど。そういえば、明治以前でも以後でもいいのですが、天皇自身がつけていた日記ってあるのでしょうか?
原 大正天皇が皇太子時代につけていた日記は一部公開されています。昭和天皇も一時期日記をつけていたようですが表には出てきません。日記ではありませんが、昭和天皇が和歌の推敲などをする際によくメモを取っていたという話は聞いたことがあります。
皇族の日記としては、『高松宮日記』がよく知られています。これも靖国関係者に危うく捨てられるところだったのを、阿川弘之と中央公論社が協力して防いだんです。露骨に女官の好みや性のことまで書かれていましたから。
三浦 日記なんだから、好みの女性のことぐらい、誰だって書きますよねえ。そんなこと気にするなんて、変な感性だな。貴重な歴史的資料が捨てられなくて、本当によかったですね。
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