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試し読み

文筆家の青野の下を半信半疑で訪れた、大学生の桜木月彦だったが……―― 奥野じゅん『江戸落語奇譚 寄席と死神』特別試し読み 第2回

第6回角川文庫キャラクター小説大賞の<優秀賞>を受賞した、『江戸落語奇譚 寄席と死神』が、4月23日に発売しました。
「僕の片便りをお読みになりましたか」青野から名刺を渡され、連絡するか迷っていた月彦に届いた一言。睡眠不足に悩まされていた月彦の原因を言い当てた、青野の下を、訪れることに……。
根津まで足を運んだ月彦を待ち受けていたものは!?

『江戸落語奇譚 寄席と死神』試し読み #2

 根津のあたりは、なか・根津・せんを合わせて『せん』と呼ばれ、下町情緒が女性に人気だ……というのを、いつだかのネットニュースで読んだ。
 逆にいうと、根津に対して、その程度の知識しかない。
 人もまばらな駅の構内で、着物姿のひとをずーっと探していたら、横から声をかけられた。
「桜木さん」
 振り向くと、普通のひと。いや、青野さんだ。Tシャツの上に薄手のカーディガンを羽織った、普通の服。
「あ……どうも……」
 拍子抜けしてばかみたいなあいさつをしたら、くすくすと笑われた。
「洋服でびっくり、ですか?」
「あ、はい。すいません。文筆家で根津に住んでるって聞いて、イメージだけで、着物で暮らしてるのかと……」
「たまたまよそ行きを着ていただけですよ」
 そういえば、に行ったとツイートしていた。大事な着物を汚したりしなくてよかったと、内心ほっとする。
 そして、会話が出てこない。明らかに人見知りの、挙動不審な俺。青野さんは、俺が落ち着くのを、何も言わずに待ってくれている。
 気を遣わせて悪いなと思い、ちょっと表情をうかがったら、その横顔に思わずれてしまった。
 つやのある黒髪は襟足がくびれたボブヘアで、少し長めの前髪からは、真っ黒のれいひとみのぞいている。すらりと背が高い。なんだか、隣を歩くのに気が引けてしまうほど、住む世界が違う感じ。
 口を半開きにして見上げていたら、青野さんは少し笑って、小首をかしげた。
「参りましょうか」
 優雅な流し目で微笑むこのひとは、やはりあの美人画から抜け出してきたのではないだろうか……なんて思ってしまう。
 優しい口ぶりの問いかけにぎこちなく返事をしながら、歩くこと十分。たどりついたのは、古ぼけた二階建ての店舗だった。
 看板には『小料理 あをの』とあるけれど、シャッターは閉まっている。脇の細い通路を抜け、勝手口のような扉から入ると、中はちゆうぼうだった。
「こちらは両親が商っていたお店ですが、五年ほど前にたたみまして、いまは僕の物置です」
 カウンターの向こうの客席を見る。
 通路を挟んで両側の座敷には、日本料理屋らしいずっしりとしたテーブルが二卓ずつ。その上には平積みにされた本がうずたかく塔を成していて、畳の上にも、たくさんの箱が積んである。
「二階が住まいです。どうぞ」
 厨房の隅にある階段をトントンと上がり、左手の引き戸を開いた。八畳の和室。旅館みたいな柄の押し入れが、昭和っぽい。
 部屋の真ん中にある丸い座卓のところに、座布団を敷いてもらった。無駄にぺこぺこしながら座る。
「何かお飲みになりますか。コーヒー、紅茶、お茶、リンゴ酢の炭酸割りもありますよ」
「なんでもいいです」
「遠慮なさらないで?」
 目を細めてにっこり微笑む、物腰やわらかなひと。会ったことのない人種とのやりとりに、しどろもどろになってしまう。
 お茶をれてもらって、緊張しつつコップを握りしめる。
「いまさらですけれど、こんな夜分にお呼び立てしてしまってすみません。あした、授業は何時からです?」
「えっと、あしたはちょっと遅くて二コマ目からなので……」
 と言いかけたところで、青野さんが、まゆをぴくっと動かした。
「失礼。桜木さん、もしかして、大学生なんですか? 四谷大学の?」
「はい、商学部の二年生です」
「えっ?」
 口に手を当て、目を丸くする。あまりの驚きように、おばけの重大なヒントなのかと身構えたら、青野さんは、戸惑いの表情を浮かべたままちょこっと頭を下げた。
「すみません。四谷大の近くにお住まいと聞いて、附属高校の生徒さんかと勘違いしておりました」
「は?」
「ですから、高校生かと」
 とっさにうつむいた。
 子供っぽい顔と小柄な体格、それから服にとんちやくすぎて、よく高校生に間違われる。慣れっこだ。でも、それを青野さんに言われると、なんだか猛烈に恥ずかしい。
 青野さんは多分一八〇近くはあるし、知的な振る舞いも、大人の男性って感じで……。
「あの、ここに来るのに『家族は問題ない』って言ったの……あれ、ひとり暮らしって意味でした」
 もじもじしていたら、彼は眉根を寄せて「本当にごめんなさい」と言いながら笑った。

 本題に入ったのは、日付が変わった頃。青野さんが、神妙な面持ちで切り出した。
「まずご承知おきいただきたいのですけど、僕は霊媒師やお坊さんではないので、厄払いをしたり、な力でおばけを退治することはできません」
 はっきりと告げられて、ちょっと拍子抜けしてしまった。おばけを消してくれるのだと期待していたからだ。そしてそれは、顔に出てしまったらしい。青野さんは口元にこぶしを当て、くすくすと笑った。
「ただ……見えるひとではあります」
「じゃあ、助けてくれたときは、見えてたってことですか?」
「いえ、あのときは見えてはおりませんでした。ただ、気配を感じて振り向いたら、あなたが倒れるところで」
 やはり、怖い思いをしていると言い当てたのは、ただの勘ではなかったらしい。
「えっと……いまは? いますか?」
「先ほどまでいましたよ。その辺りに」
「えっ!?」
 悲鳴を上げて飛び退くと、青野さんは「大丈夫ですよ」と笑いながら、手招きした。泣きそうになりながら、彼の横に体を寄せる。
「いまは姿を見せていませんが、おばけの正体は、おおよそ見当はついています。電話でお話をうかがったときに、思い当たる怪異がおりました」
「えっ、何ですか?」
 前のめりに聞いたら、彼はそっと人差し指を唇につけ、ほんの少し笑った。
「まだ言えません。人違いは失礼にあたりますので。憶測でものは言えないのです」
 失礼? おばけに……?
 首をかしげる俺に、青野さんはゆるりと目線を合わせた。
「おばけの正体の話の前に、僕の研究について少しお話しさせてくださいませんか?」
 俺がこくりとうなずくと、彼はゆっくりと語り始めた。
「まず、『怪異』という言葉は、本来は不思議な現象全般のことを指すのですが、僕は単純に、おばけのことをそう呼んでおります。なぜかというと、僕が研究している『江戸落語にまつわるおばけ』が、うまく定義できないからです。死んだひとの幽霊、伝承のようかいなどは分かりやすいですが、落語の……? となると特に名前がないので、下手に分類したりせず、怪異と呼ぶことにしました」
「青野さんのは、おばけ研究のなかでも特殊ってことですか?」
「おっしゃる通り。落語の怪異、しかも江戸に限るとなると、かなり狭い分野ですし、先行研究もありません」
 なぜ江戸落語限定なのだろう。せっかくなら、もっと手広くやればいいのに……という俺の疑問を見透かしたのかは分からないけれど、青野さんは、ふわっと笑った。
「それしか見えないのですよ」
「え?」
「落語には関西のかみがた落語と江戸落語があるのですが、なぜか僕に見える怪異は、江戸落語にちなんだものばかり。なので、それを専門に研究しているというわけです」
 なるほど。おばけならなんでも見えるわけじゃないのか。
「じゃあ、青野さんが分かるってことは……俺に取りいているのは、普通のおばけじゃなくて、江戸落語の怪異なんですね?」
「そうです。それから、先ほど『失礼にあたる』と申し上げましたが、怪異には、失礼のないよう接しなければなりません」
「なんでですか?」
「世の方々は、おばけというと、人を脅かすだけの単純なものと考えがちなようですが、そうではありません。怪異は、人間が思う以上に知能が高く、理性的で、取り憑くのには必ず理由があります。ですから、人から引きはがすには、『失礼のないように』きちんと説得しなければなりません」
 ぽかんとする俺に、青野さんは、眉根を寄せてほんのりと笑った。
「人違いは失礼にあたりますよね。無礼を働いて機嫌を損ねれば、こちらのお願いは聞き入れていただけないかもしれません」
 対人関係と同じということらしい。苦手な俺は、怪異に失礼のないように接することができるのだろうか。
「さて、それでは、桜木さんに憑いている怪異の話をいたしましょうか。僕の考えが正しければ、あなたに憑いているものは、そんなに怖くないですよ」
「えっ? いや、怖いです……けど」
 しりすぼみに言うと、青野さんはほんの少し笑った。
「普通、落語で怪異と聞いたら、四谷怪談のおいわさんなんかを思い浮かべませんか?」
「はい。それこそ、呪いとかたたりとか」
「そうですよね。でも桜木さんに憑いているのは、怪談ばなしではなく、人情噺の登場人物が怪異になったものです。なので、悪さはしません」
 人情噺とは? 頭の上に疑問符をぽんぽんと浮かべていると、青野さんは上品に微笑んだ。
「面白おかしいこつけい噺、幽霊が主役の怪談噺、そして、ほろりときたり感動してしまうようなのが、人情噺と呼ばれるものです」
 言われてみれば、俺を毎晩悩ませている怪異は、ひたすら謝罪を繰り返していて、俺を呪っている感じは全然しない。
「人情噺の多くは、夫婦や親子の物語でして……ですので、差し支えなければ、桜木さんのご家族のことをお聞きしたいのですが。いかがでしょう?」
 思わず、ごくりとつばを飲んだ。できれば言いたくない。けれど、このひとはもう、何か知っているのかもしれない。
 答えあぐねていると、青野さんは、包み込むような優しい声で言った。
「もちろん、無理にとは申しませんよ」
 その口ぶりで、少なくとも、家族関係が良くないことはばれているのだろうと思った。
 自分の気持ちを言葉にするのが苦手だ。うまく言える自信もない。だけど青野さんなら、俺のつたない話もんでくれる気がする。
 俺は意を決して、たどたどしく話を始めた。

「えっと……実はいま、母親が入院してるんです。自殺未遂をして、意識が戻らなくて。二月十五日からなので、もう四ヶ月になります」
 青野さんは眉根を寄せ、沈痛な面持ちで尋ねてきた。
「お医者様はなんと?」
「はっきりしたことは言えないみたいです。急に目を覚ますかもしれないし、ずっとこのままかもしれないし……意識が戻ったとしても、日常生活が送れるとは限らないので」
 実際、主治医からは、後遺症は覚悟してくれと言われている。
「自殺を図った理由は分かっているのですか?」
「その日は朝から父と大げんかしてて、夕方大学から帰ったら、リビングで母が倒れていました。空のコップと、真っ黒な液体がこぼれていて、台所には、たばこを煮出したらしいなべが残っていました。すぐに病院に運んで胃洗浄をしてもらったので、それを飲んだということで間違いないそうです」
「けんかの原因は?」
 俺は黙って首を横に振る。
「あんなののしりあってるの、生まれて初めて見ました」
 ……と言っても、両親は仲が良かったわけじゃない。逆だ。仲が悪いのを通り越して、全く会話がなかった。
「うち、家族関係がたんしてるんです。父が放浪癖があるような性格なのを、母は何も言わずにやり過ごしている感じで、家族らしい何かとかひとつもなくて」
 誰も本音を言わないから、けんかすら起きない。だからこそ、何が原因で、どう決裂して、なぜ母は死のうとしたのか──まるっきり全てが謎なのだ。
「俺はひとりっこなので、常に空気を壊さないことだけ考えてる感じで……だからその日のけんかもノータッチです。巻き込まれたくなくて、そのまま大学に行きました」
 青野さんは、口元にこぶしを当てしばらく考えたあと、首をかしげて尋ねてきた。
「お父様からは、そのけんかの内容については聞いていないのですか?」
「はい、何も教えてくれません。いつも必要最低限の会話だけなので。でも、入院費のために俺がバイトを増やしたら、父も渋々ですけど、新しい職場で働きだしました。なので、全く罪悪感がないってわけではないんでしょうけど、でも……、なんか、」
 話しながら改めて、自分は父に対して良い感情を抱いていないのだなと認識する。思わずけんにしわを寄せながら続けた。
「お酒の量がすごい増えて、いつだったか、『あいつが裏切ろうとするからこうなった』と、忌々しげに愚痴をこぼしていました。そういうのが嫌で、この春から大学のそばに引っ越して、ひとり暮らしをしています」
 青野さんは、「なるほど」と言ったきり、黙ってしまった。そんな彼の表情を見て、俺は思った。
 やっぱり、最後まで言わなければいけないのだ。せっかく真剣におばけの正体を考えてくれているのに、自分が本当のことを隠していたら、意味がないし、不誠実だ。
 俺は、絞り出すように切り出した。
「あの……俺、自分で自分が変だと思うんです。母親が意識不明だって、普通ならすごい悲しいことなはずだと思うんですけど、あんまりそうは思えていなくて。親が死にかけているっていう事実が、それ以上でもそれ以下でもないっていうか」
 青野さんは、目を細めて俺の顔を見た。
「だから、おばけに謝られる理由がないとおっしゃるのですね?」
 やはり、青野さんにはお見通しだったようだ。
 普通の感覚のひとなら、親が死線をさまよっている状態で毎晩おばけなんて出たら、自分にも何か関係があると思うだろう。
 なのに俺のれいごと抜きの実感は、『もしそのことで謝りたいなら、母さん本人に謝ればいいのに』とか『俺に謝られてもどうしようもないからやめてくれ』とか。自分がすごく冷たい人間なんじゃないかと不安になってくるし、悩んでいる。
「普通、親ってもっと大事にしなきゃいけないと思うんですけど。俺、家族愛とか、そういうのがピンとこないんです。親が死にそうなんだから、自分も悲しくならなきゃって頑張ってるんですけど、どうやってもできないから……」
 想像通り、おかしな答えになってしまった。いつもそうだ。家族のことを話そうとすると、自分は変な奴なんだと白状するみたいになる。
 情けなくなって畳に目線を落とすと、青野さんは優しく声をかけてくれた。
「僕は、あなたはあなたなりに、お母様のことを想っていらっしゃると思いますよ。アルバイトを増やして入院費をまかなおうと行動を起こしたり、こうして見ず知らずの僕に相談をしてくださっているのですから。それに、お父様も。本音はどうあれ、目を覚まさない妻のために働いていらっしゃるのでしょう?」
 やわらかく微笑まれたら、それ以上何も言えなくなってしまった。
 ほんの少しの沈黙。そして青野さんは、静かに切り出した。
「事情は分かりました。解決への筋道も、なんとなく見えています。ただ、その怪異と交渉するためには、ひとつ見つけなければならないものがあります。そしてそれを見つけるために、あなたは、立ち向かわなければなりません」
 きっぱりと言い切った彼の目は、りんとしていた。意志を宿した真っ黒なひとみ。見据えられて、たじろいでしまう。
「立ち向かうって……怪異にですか?」
 おそるおそる聞くと、青野さんの答えは、予想とは全く違うものだった。
「いいえ。お父様にです」
 ぱっと目を丸くする。
「目をそらして逃げている限り、取りいた怪異はあなたに謝り続けるでしょうし、お母様はいつまでも目を覚ましません」
 動揺のあまり、言葉が出てこない。すると彼は、厳しかった目をすっと細め、やわらかく微笑んだ。
「僕もお手伝いしますから、一緒にお話ししに行きましょう?」
「……ありがとうございます。お願いします」
 小さく頭を下げながら思う。本当は気づいていた。現実とか、親と話すこととか、自分はその全部から逃げているのだ、と。

 青野さんの隣に布団を敷いてもらって、寝ることにした。
 いつも起きるのは深夜二時過ぎ。いわゆるうしつ時というやつだけど、怪異に詳しい青野さんならどうにかしてくれるのか、でも、おばけ退治はできないと、最初にはっきり言われたし……。
 そんなことを考えながら、いつの間にか眠っていたらしい。
『悪かったよぉ』
 目が覚めると、いつも通り正座の状態だった。動けないし声も出ない。
『許してくれ』
 じゃらじゃらと、小銭の音。
 すると、隣で寝ていた青野さんが、「うーん」と寝ぼけた声を出した。彼にも聞こえているのだろうか。なんとかして知らせたい、けれど、何もできない。
 弱々しい謝罪の声を我慢して聞いていると、視界の端で、青野さんがゆっくりと起き上がるのが見えた。
「もしもし。どなたかは存じませんが、今晩のところは勘弁していただけませんでしょうか。月彦も、もう謝らなくて結構だと申しております」
 怪異には失礼のないように。青野さんが言いたかったのはこういうことか。
 しかし、怪異の声は止まらない。『そうはいきやせん』『申し訳ねえ』と、いつもとは違って少し会話のようにはなっているものの、同じ謝罪を繰り返すだけ。
 そのたびに青野さんは、相手の機嫌を損ねないよう、丁寧に説得を試みていた……と思った、そのとき。
「べらんめえ! したに出てみりゃあ、いつまでもいつまでもガタガタと抜かしやがって!」
 は? えっ!?
 青野さん、なはずの声の主は、がばっとつかんだ枕を空中に向かってぶん投げた。
「この分からずやのこんこんちきめ! てめえがいくら悪い悪いったってえ、こちとら迷惑千万、何の足しにもなりゃあしねえんださっさとせやがれ!」
 怪異の声が止む。体が動いた。ばっと振り返り、天井に向かってわめく青野さんを見ると、彼もこちらへ振り向いて……静かに目が合った。
 一瞬の沈黙。すーっと真顔になる青野さん。そして、少し困ったように頰に手を当て、小首をかしげた。
「またやってしまいました……。お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません。江戸っ子気質かたぎなのか、どうにもこうにも気が短くて」
 人間、驚きすぎると、文字通り言葉を失うらしい。知的で物腰やわらかだと思っていた青野さんの口から、あんな暴言の嵐が飛び出すなんて。
 というか、『怪異には失礼のないように』というルールは、どうなってしまうのだろうか。
「あ、あの……俺に取り憑いてるあのひと、怪異、怒らせちゃったんじゃないですか……?」
 おびえながら尋ねると、青野さんはちらっと天井を見てから、優雅な微笑みをたたえて答えた。
「大丈夫です。僕の身内が気が合うようで、いまごろ機嫌をとってくれているはずですので」
「身内、というと?」
「その説明を始めると夜が明けてしまいますので、きょうのところはやめておきましょう。さ、お休みください」
 そう言いながら、投げた枕を回収し、さっさと布団にもぐってしまう。俺も、頭が大混乱のまま、黙って布団にもぐり込んだ。

 翌日。夕方に青野さんと待ち合わせをして、俺の実家があるはちおう市へ向かっていた。
 ちゆうおう線の車内。つり革に摑まった青野さんは、真面目な顔で言った。
「お母様の自殺未遂の原因は、お父様から贈られたプレゼントです」
「えっ? 母は、プレゼントをもらったのが嫌で死のうとしたんですか? そんなことあります? というか、父が母に何か贈るなんて、一回も見たことないですよ」
 父が母に優しさを見せるところなんて、想像がつかない。ましてや贈り物なんて……。
 青野さんは、思案する俺の顔をのぞき込んだ。
「怪異が悔いているのは、お父様へプレゼントを贈るよう勧めてしまったことだと思います。そのせいでこんなことになってしまって、申し訳ないという気持ちで桜木さんに取り憑いているのでしょう。許してもらえたと怪異自身が納得するまで、続くでしょうね」
「許すもなにも、何が起きたのかも知らないのに、どうしようもないです」
 と答えたところで、ようやく気づいた。
 父に立ち向かえと言うのは、その日何があったのかを逃げずに聞かなくてはならないと……彼はそういうことを言いたかったのだろう。
 合点がいった俺の表情を見て、青野さんも安心したらしい。微笑みつつ、うんうんとうなずいてくれた。
「きちんと話せば、必ず伝わります。あとは問題の捜し物が見つかるかどうかですが……これは運しかありません。でもきっと大丈夫。頑張っているひとのことを、おてん様はいつも見ていますからね」

 青野さんには駅前の喫茶店で待っていてもらうことにして、俺はひとりで実家へ向かった。
 母のお見舞いは交代で行くことにしており、父と対面するのは久しぶりだ。幼い頃から本音で話すことを避けてきた父と、うまく話せるだろうか。
 緊張しつつ、ダイニングテーブルの向こうに座る父に、重苦しく切り出した。
「俺、母さんの自殺未遂の動機が知りたいんだけど」
 父は、面食らったような顔をした。
「……なんだ、急に帰ってくるなんて何かと思ったら。知るかよ。遺書も何もねえんだから」
 話を終わらせようとする父を、早口で問いただす。
「父さん、バレンタインにプレゼントしたでしょ?」
 父は、口を半開きにして固まった。ややあって、けんにしわを寄せる。
「してねえよ」
「噓。したでしょ。何をプレゼントしたのかを知りたい」
 父は何も言わずに立ち上がった。こういうところが嫌いだ。でも俺は、なるべく感情的にならないよう、静かに尋ねた。
「もしかしたら母さんは、父さんがショックを受けるようなこと言ったかもしれないけど、多分それ、悪気があってのことじゃないから。だから、何を贈ったのか教えてください」
 父は、俺の目をじっと見下ろしたあと、再びいすに座った。
「なんでそんなことが分かるんだ? お前あの日、あいつとひと言もしゃべってねえって言ってただろ」
「うん、話してない。でもそうなんだ。信じてくれないと思うけど」
「当たり前だ。信じるわけねえだろ」
「じゃあ……いまから俺、父さんのプレゼントに関して、大事なことをひとつ言い当てる。もし当たってたら、何を贈ったか教えて」
 挑むような目で見据える。父はしばらく黙ったあと、言ってみろとばかりに、無言であごをしゃくった。
「ある日父さんは、夢を見た。江戸時代の魚売りに話しかけられる夢。魚売りは、『河川敷に革の財布が落ちているから、それを拾って妻にプレゼントを買え』と言った。父さんは言われた通りに川へ行って財布を拾い、プレゼントを買って、バレンタインの日に母さんに渡した。そして翌朝母さんは、『そんなものもらっていない。夢だったんじゃないの』と言った」
 ひと息に言ってしまったら、途端、泣きたくなった。父は目を見開いたまま、完全にフリーズしている。
「当たり?」
「なんで……」
 絞り出すような声でつぶやく。俺だって知らない。青野さんにそう言うように言われただけだ。
「当たりなら、約束通り教えてよ」
 父はもんの表情を浮かべたあと、長くため息をついて目を伏せた。
「全部当たりだ。買ったのは指輪だよ。財布に入ってた三十万丸ごと使ってな」
 吐き捨てるように言った父は、毒気の抜けた目で俺を見た。どういうことかと聞きたいのだろう。俺は、真顔のまま首をすくめた。
「俺も夢に出たんだ。指輪、絶対家のどこかにあるよ。一緒に捜そう」

 思えば、父と一緒に何かをするなんて、ほとんどしたことがなかった。
 すぐに仕事を辞めたり、二、三日ふいっといなくなるような、気分屋のひと。
 俺のことはまあ可愛がっていたのかもしれないけれど、実感としては、自分が機嫌のいいとき、気が向いたときにかまうだけで、育児という点にはまるで興味がなかったように思う。
 そんな父に振り回される母は、いつも余裕がなさそうで、だから結果的に、母からちゃんと愛情をもらったかと考えると、それも微妙だ──『愛情』が何なのかもよく分からないのに、語れることではないかもしれないけれど。
「母さんが貴重品をしまいそうなところ、なんかある?」
「知るか」
 ぶっきらぼうに言いつつ、がさごそと母のたんすをあさっている。俺も、頭から突っ込むようにして物入れの中を探る。
 しかし、小さな指輪を、二十五年分の荷物があるこのアパートから見つけられるだろうか──いや、絶対に本人の前で見つけないと。
「天袋かあ?」
 父は首に手を当てながら、かったるそうに見上げた。何かを出し入れしているところなんか見たことがない、入れっぱなしの物入れだ。
 脚立を持ってきて、俺が下を支え、父が上って引き戸を開ける。
「段ボールだらけだな」
「全部出してよ」
 降ろしてきた段ボールはどれもすごく重たくて、でも、中身を見たら納得した。アルバムに、俺が幼稚園や学校で作った工作やら絵やら……。
「こんなもんまでとっといてたのか」
 あきれたようにつぶやく父がつまみ上げていたのは、ピンクの花柄のエプロンだった。
「新婚のときに買ってやったんだよ。何年も着てて、いい年こいて見苦しいから捨てろっつったんだけどなあ」
 嫌そうな顔でぽいっと投げ捨てる。俺は正直、母がこんな風に思い出の品をとっておいているなんて、驚いた。
 冷え切った両親が離婚しないでいたのは、母が嫌々我慢していたからだろうと思っていた。でも一応、母は母なりに、家族を大事にしていたのだろうか? 俺の目には、家庭の形を維持することだけに必死だったように映っていたけれど。
 そんなことを考えながら、別の段ボールの中を漁っていた、そのとき。
「あ……あった」
 父が段ボールから取り出したのは、手のひらサイズの小箱。ぱかっと開けたら、真新しい指輪が鎮座していた。小粒のダイヤモンドがぐるりと一周埋め込まれて、きらきらと輝いている。
「本当にありやがった。あいつ、なんでもらってないなんて言ったんだ……?」
 ふたりで静かに、箱をのぞき込む。しばらく考えたあと、俺はぽつっと言った。
「母さん、これ、泥棒してきたんだと思ったんじゃないの? だって正直、父さんそんなお金持ってなかったでしょ」
 実際、拾った財布の中身で買っているのだから、泥棒には違いない。父は黙ったまま指輪を見つめている。
「けんかのとき、母さん、盗んだんだろうとか言ってた?」
「いや……もらってない、夢だ、の一点張りだった」
 俺はふーっと長く息を吐いて、天井を仰いだ。
「もしかしたら、内緒で警察に届けるつもりだったのかも。きっと母さん、指輪もらってうれしかったんだよ。でも父さんが自力で買ったわけないって分かってたから、持ってるわけにいかなくて、でも本人にそんなこと言えないから、夢だったで押し通そうとした。とか」
 父はそっぽを向く。
「ねえ、なんで『裏切った』って思ったの?」
 素直な疑問を投げかけてみる。父は首をぼりぼりといたあと、ばつが悪そうに言った。
「あれとは別に、ちょっといいワインを買ってきたんだよ。そっちは完全に俺の自腹だ。あいつ、酒弱いだろ。なのに俺のペースに合わせて飲んで、へらへら笑って、うれしいだのありがとうだの、散々言ってたんだ。なのに朝になったら、もらってねえ、飲み過ぎだ、夢だって。そんで……まあ、いいや。とにかくあいつは裏切り者だ」
 自殺をしてしまうほどのけんか。父が母にどんな言葉を浴びせたのかは、分からない。でも多分、父は父で、喜ぶ母の姿を見て、うれしかったのではないだろうか。だからこそ、もらっていないと言われたのを裏切りと感じ、ののしったのだろう。
「どうする? 指輪。もし母さんが目を覚ましたとして、落ちてた財布のお金で買ったって分かったら、これ受け取ってくれるかな」
 父はしばらく考えたあと、ぽつっと言った。
「財布はまだ持ってる。免許証が入ってたから、持ち主も分かってる。三十万貯まったら返すよ」
 驚きのあまり、返事に詰まってしまった。どうしようもないと思っていた父から、そんな言葉が出てくるなんて。
 ふっと、青野さんの顔が浮かんだ。おてん様は見ていた──まさにその通りだったのかもしれない。

(つづく)

作品紹介 



江戸落語奇譚 寄席と死神
著者 奥野 じゅん
定価: 660円(本体600円+税)

人気文筆家×大学生の謎解き奇譚!
大学2年生の桜木月彦は、帰宅途中の四ツ谷駅で倒れてしまう。助けてくれたのは着物姿の文筆家・青野で、「お医者にかかっても無理ならご連絡ください」と名刺を渡される。半信半疑で訪ねた月彦に、青野は悩まされている寝不足の原因は江戸落語の怪異の仕業だ、と告げる。そしてその研究をしているという彼から、怪異の原因は月彦の家族にあると聞かされ……。美形文筆家と、なりゆきでその助手になった大学生の謎解き奇譚! 第6回角川文庫キャラクター小説大賞<優秀賞>受賞作。
イラスト/硝音あや
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322012000505/
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