第6回角川文庫キャラクター小説大賞の<優秀賞>を受賞した、『江戸落語奇譚 寄席と死神』が、4月23日に発売しました。大学生の
その二人の出会いである冒頭部分を、今回は大公開!
『江戸落語奇譚 寄席と死神』試し読み #1
序
意識を刈り取られる……という表現が一番近いだろうか。ぼーっとするとか、ふらふらするとか、そういうレベルは超えている。
帰宅ラッシュの
六月の蒸し暑さに体力を奪われて、雑踏に
ふうっと意識が遠のいて、ひざからかくんと落ちるのが分かった。前のめりに思い切り倒れる……と思った、そのとき。
「おっと」
誰かの声がしたと思ったら、正面から抱き留められた。なけなしの力でそのひとにしがみつき、すんでのところで崩れ落ちることはまぬがれる。
「あ……すみませ……」
条件反射的に謝ろうとしたものの、ふにゃっと力が抜けて、全体重が目の前の人物にかかる。
「大丈夫ですか。お気を確かに」
頭の上から聞こえる、男性の声。何か言っているけれど、ざわざわとした人の往来と、発車メロディにかき消されて、その声も徐々に遠のいていく。
もうだめだ、倒れる。
……と思ったら、突然体が宙に浮いた。男性は、俺を
「人を呼んできます。少し待てますか?」
「いえ……大丈夫です。休めば良くなるので。すみません。ありがとうございました」
ろくに顔も見ずに、首から上だけでぺこりとお辞儀らしきものをする。しかし、その頭の重みでまた視界が揺れる。
男性は俺の肩をぱっと
「眠れないでしょう、毎晩怖い思いをするのでは」
驚いて顔を上げた。
和服姿だった。薄い灰色の着物に紺色の羽織を合わせた、上品なひと。年の頃は、二十代後半といったところだろうか。
なんだろう、これはなんか見たことがあるな……と、また意図しない方向へ考えが行きかけたところで、はっと、言われた言葉を思い出す。
──毎晩怖い思いをするのでは
「あの、分かるんですか? その……なんかあるって」
男性は、ミステリアスな微笑みをたたえて言った。
「もしかしたらそうではないかな、と思っただけです。でもそのご様子だと、全くの見当違いではなさそうな」
何と答えていいやら。困っていると、男性はふっと笑って、斜めがけにした薄いかばんから、名刺入れを取り出した。
「文筆家をしております、
手渡された真っ白い名刺には、型押しの凹凸で、
「あなたのその極度の寝不足、心当たりがございます。お医者にかかっても無理なら、ご連絡ください。ともあれ、まずはお大事に」
青野と名乗った男性は、さっと立ち上がると、優雅に一礼して、雑踏の中に消えてしまった。
名刺を持ったまま口を半開きにして、その場で固まる。
なんだ? いまの。
いくらかは回るようになった頭で、一分間の出来事をさーっと思い出す。
どうして寝不足だと分かったのだろう。それに、怖い思いって……俺を悩ませているあれのことを分かって言っているのだろうか。
そして、ひとつずつ記憶を呼び起こしながら最後に思い出したのは、着物姿の青野さんが、見たことのある何かだったということ。
なんだっけ? なんだっけな……。
首をかしげたところでふと目に入ったのは、ホームの壁に貼られた、美術展のポスター。大きく描かれた浮世絵の美人画に、彼の端整な顔が重なる。
ああ、そうだ。さっき電車の
一章 芝浜
命からがら家に帰り、せんべい布団に倒れ込んで、そのまま眠ってしまったらしい。気がついたのは、午後十時過ぎ。時間がもったいなかったと思う半面、とりあえず細切れにでも眠れたのだから良かった。
のろのろと起き上がって、六畳1Kボロアパートのレトロすぎる台所へ向かい、水を飲む。玄関の脇に転がったリュックを見て、もらった名刺のことを思い出した。
文筆家、と言っていた。有名なひとなのだろうか。
脇ポケットに入れたはずのそれを取り出した。電話番号とメールアドレス、ツイッターのアカウントが書かれている。布団の上に戻り、まずは名前を検索することにした。
[青野短]
ウィキペディアはない。けれど、名刺に書かれたツイッターアカウントが一番上に出てきた。プロフィール欄にはこうある。
[文筆業を営む者。花札狂い。
色々ツッコミどころはあるけれど、何より驚いてしまったのは、そのフォロワー数だ。
「い、一万……」
ウィキもないようなおばけの研究家に大量のフォロワーとは、これいかに。しかし、一番上の投稿を見て、おおいに納得してしまった。
[きょうは、四谷ほととぎす亭へ。肩のこらない小さな
この、たった二行のツイートに、リプライが六十件。
[短先生、四谷にいらしたんですね~! 通ったのに……お会いしたかったです]
[お着物姿の写真、上げてください!]
ハートマークや絵文字だらけ。なるほど、あのすらっとしたルックスに、女性ファンがいっぱいいるというわけだ。
ただ、過去のツイートを
よって、お出かけ報告と男着物の着こなしの紹介にだけ、やたらにハートマークが飛んでいる状態だということが分かった。いや、これも、真面目な発信のようだけど。
登録したきり一度も使っていない、自分のアカウントを見る。知ってはいたけど、フォロワーはゼロだ。
アイコンが桜の写真なのは、本名の
友達ゼロの現実に少し
──夢枕におばけが立つ方、DMにてご連絡ください
やっぱり青野さんは、あの一瞬で何かを見抜いたのだろうか。
俺が倒れるほどの寝不足に陥っているのは、毎晩おかしな現象に遭うからだ。
夜、普通に布団にもぐって眠りにつく。寝つきは良い。しかし午前二時頃になると、ぱっと目が覚める。なぜか布団の上で正座をしていて、動けず、声も出ず、ただまっすぐに目の前の壁を見つめるしかない。
頭の上では、男性の声が旋回するようにぐるぐると『やっと見つけた』『すまねえ』『情けねえ』と繰り返している。心底申し訳なさそうな声色で、たまにはなをすすったりして。
初めて出た日は、恐怖のあまり絶叫した……つもりだったけれど、声も出ないし逃げられもしないしで、震えて耐えるだけの地獄だった。
どう考えても幽霊。でも俺はそんなもの一回も見たことがないし、信じてもいなかった。いまも自分に霊感があるとは思っていない。けれど、現実問題、毎日おばけを見ている。
頭の上をぐるぐる回る幽霊は、たまに俺の目の前まで降りてきて、ちらちらと視界に入る。時代劇に出てくる、下町の商人みたいな。長い棒の両端に
俺が意識を失うまでそれが続き、ぱたっと記憶がなくなって気づけば朝……というのが、一連の流れだ。
始まったのは五月に入ってすぐで、まもなく一ヶ月。睡眠もろくに取れないし、本当に体力の限界で、でも、こんなこと誰にも相談できないと思っていた。
青野さんは、『お医者にかかっても無理なら』と言っていた。
病院に行くとしたら、精神科だろうか。別にメンタル的な病に偏見はないけれど、いざ自分が行くとなると、幻覚だなんだと、実感とは違う診断を下されるような気がする。
どうしよう。今晩もまたあれが出てくるのだろうか。
目を閉じ、ひとつ想像をしてみる。腕利きの精神科医と、不思議な文筆家が並んで立っていて、白衣のおじさんは『病気です』と言い、着物の青年は『おばけです』と言う。
どちらがしっくりくるだろうか……と考えると、
ツイッターのDMに送るか、もらった名刺の電話番号に直接かけるかで、小一時間悩んだ。
自分で言うのもなんだけど、内気で消極的なタイプの俺は、人見知りだし、トークスキルもない。初対面のひとに自分から連絡するなんて、十九年の人生で一度もやったことがないような。
時刻はまもなく夜十一時になろうというところ。電話は非常識な気がするし、でも今晩も眠れなかったら
ツイッターと名刺を見比べて悩んでいると、なんと、青野さんがつぶやいた。
[きょうはカスばかり。欲を出すほど、欲しい札は来ないということでしょうか。待ち焦がれていますよ]
畳にばらまかれた花札の写真が添えられている。
有益なことしかつぶやいていない青野さんのタイムラインに、不思議なツイート。でもとりあえず、まだ起きているということは分かったので、勢いのままに電話をかけた。
コール三回で
「も、しもし……青野さんのお電話ですか?」
『はい。そちら様は、寝不足の?』
独特のハスキーボイス。青野さんだ。
「桜木月彦と申します。さっきはありがとうございました」
誰もいない方向へ頭を下げる。電話の向こうの青野さんは、少し笑っているようだった。
『僕の片便りをお読みになりましたか』
「へ?」
『あなたから連絡が来たらいいのに、とつぶやいたのですけど。行き倒れてしまったのかと心配しておりました』
「あ……すいません。寝てて……」
あのツイートは、俺に向けてだったのか。
でもまあ確かに、助けてもらって名刺までくれたのに、お礼をしないなんて非常識だ。向こうにしてみれば、俺からしない限り、連絡の取りようがないのに。
何と言っていいか分からずまごまごしていると、彼は小さく笑った。
『桜木さん。夢枕に誰かが立つのでしょう?』
「はい。なんで分かったんですか?」
『……研究家だから、とでも申し上げておきましょうか』
はぐらかされてしまった。けれど、なんだか解決策は知っていそうだ。意を決して、相談してみる。
「実は、毎晩、幽霊が謝ってくるんです。でも俺、心霊スポットとかお墓にも行ってませんし、謝られるような覚えもなくて」
『姿は見えていますか?』
「はい。なんか、時代劇の商人みたいな男性で、桶がついた棒を……担いでて……その……」
うまく説明できずに
『はっきりと見えるのですか?』
「えっと、はい。一応。自分は動けないんですけど、ちらちらと視界に入ってきて。あとは、財布を差し出してきます。『これで勘弁してくれ』って……多分革の財布だと思うんですけど、中身をじゃらじゃらと見せてきて」
『動けないというのは?』
「布団に入って寝たはずなのに、夜中に目が覚めると、なぜか正座してるんです。それでそのままずっと謝られて、でも朝になったら、ちゃんと元通りに寝てます」
『……なるほど』
そう言ったきり、青野さんは完全に黙ってしまった。何かまずいことがあるのだろうか。
どうしようかと慌てていたら、静かな声で聞かれた。
『桜木さん、お住まいはどちらで?』
「四谷大学のすぐそばです」
『なるほど。でしたら、まだ電車はありますね。よければ、いまから僕の家に来てくださいませんか?
「い、いまですか?」
『もちろん、無理にとは申し上げませんけども。時間が時間ですから、ご家族には許可を取っていただいて』
急すぎてびっくりしてしまう。それに、あしたも普通に学校だ。でも、どうせきょうも眠れないなら、専門家っぽいひとのところにいた方がいい気がする。
「家族は問題ないです。行きます」
根津駅の改札まで迎えにきてくれるということなので、床に転がしたままのリュックをそのまま
(つづく)
作品紹介
江戸落語奇譚 寄席と死神
著者 奥野 じゅん
定価: 660円(本体600円+税)
人気文筆家×大学生の謎解き奇譚!
大学2年生の桜木月彦は、帰宅途中の四ツ谷駅で倒れてしまう。助けてくれたのは着物姿の文筆家・青野で、「お医者にかかっても無理ならご連絡ください」と名刺を渡される。半信半疑で訪ねた月彦に、青野は悩まされている寝不足の原因は江戸落語の怪異の仕業だ、と告げる。そしてその研究をしているという彼から、怪異の原因は月彦の家族にあると聞かされ……。美形文筆家と、なりゆきでその助手になった大学生の謎解き奇譚! 第6回角川文庫キャラクター小説大賞<優秀賞>受賞作。
イラスト/硝音あや
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322012000505/
amazonページはこちら