6
扉が閉まってから、奈緒子はのろのろと立ち上がった。地の底から響くような
少し前までは、母の涙にオロオロとしたものだが、今ではすっかり慣れてしまった。
奈緒子はダイニングテーブルの椅子に腰かけると、テーブルの上で腕を組んだ。郁子のすすり泣く声だけが聞こえる。この家はいつもそうだ。泣き声と、怒鳴り声と、呻き声。線香と加齢臭と
この家はゆっくりと死んでいる。自分も含めて。
カーテンの隙間――窓の向こうには、雪で覆われた田んぼと、死人のような色の山肌。
いつしか奈緒子はテーブルに顔を伏せて眠っていた。
目覚めたのは、話し声が聞こえたからだ。
うっすらと目を開ける。自分の
しかしよく聞くと、相手は唯奈のようだ。いつの間に帰ったのだろう。
ご飯の準備をしなきゃ。だけど身体が動かない。
二人の会話は、まるで幼い子供が二人いるかのようだった。
「そ……、あか……にと……め……て……? あのおうち……るの?」
「そ……よ。……ずめ……と……ちなの。ずっとあの……ちで……」
何を話しているのだろう。少し気になって、だけどすぐにどうでもよくなる。火照った身体にテーブルの冷たさが気持ちいい。
「プーさん……もつか……ちゃ……」
「……かも……。そし……い……でき……なって……」
「そんなのやだ!」
ひと際大きな声に
夢の中では東京のマンションにいた。春だった。リビングの窓辺でレースのカーテンが揺れ、柔らかな陽射しが射している。唯奈がすぐそばで寝息を立てていた。
けれど、目覚めたとき目の前の現実は違った。ここは古びた木造家屋で、閉じたカーテンの隙間に見えるのは塗りたくったような闇だ。そして、暗がりにいるのは郁子だけ。
唯奈がいない。
奈緒子は寝ぐせのついた髪をかき上げると、電気を
「唯奈?」
呼びかけるが返事はない。家じゅうを捜して居間に戻ると、郁子に詰め寄った。
「ねぇちょっと、唯奈どこ行ったの?」
タイミング悪く、郁子は虚脱状態だった。ぼんやりとした黒目がちな目はどこも見ていない。それでも、
「あし……いたい。てぇも……」
つい
玄関へ走る。唯奈の靴がない。外に出たんだ。
頭が真っ白になった。玄関扉のすりガラスの向こうは暗い。
奈緒子は、その場にうずくまった。
パニックになった頭で必死に考える。唯奈。唯奈。唯奈。口はさっきから娘の名前を呼び続けている。落ち着け。捜すんだ。協力してもらって。村じゅうの人。唯奈。昨日母がいなくなったところなのに。どう思われるか。唯奈。どうでもいい。唯奈が大切。行先に心当たり。そう遠くへは。唯奈。あの人にも連絡。意味ない。唯奈。唯奈。唯奈――
そうだ。あの子は昨夜から、プーさんのぬいぐるみを持っていなかった。
たしか、郁子に貸したと言っていた。その郁子も持っていなかった。ベッドの周辺にもなかったと思う。
……“窒息の家”だ。
ぬいぐるみは、郁子があの家に忘れてきたんだ。
さっきの会話は、郁子がそのことを唯奈に教えていたのかもしれない。それであの子は、一人でプーさんを捜しに行った。
奈緒子は玄関に戻ると、車のキーとコートを取って庭へ向かった。車に乗り込んだところで、郁子の存在を思い出す。一刻を争うが、放っておいたら何をするか。
ハンドルに両手を
道すがらに唯奈の姿を捜す。家に入る前に見つけられれば――そう願ったのも
タイヤが砂利を踏む音、そして、ドアが閉まる音が響いた。
玄関扉に向かおうとしたとき、
「な――奈緒子」
背後から声がかかる。郁子が、車のドアを開けて、外に出ようとしていた。
「唯ちゃん、お、おらんなってしもたんやろ。わ、私も……」
名前を呼ばれた。意識がクリアな状態だ。――それでも。
「お母さんは車で待ってて。危ないから」
「でも……」
「時間がないの! お願いだから、余計なことしないで!」
郁子は泣きそうな表情になった。そのまま身体を引っ込めて、自らドアを閉めた。
奈緒子は家の方を振り返る。玄関扉に駆け寄って開けようとして――あのライターの死に顔が頭をよぎった。
……また入るの? この家に。……あんなに怖かったのに?
もしかしたら、今度は自分が死ぬかもしれないのに?
奈緒子は、頭かぶりを振った。唯奈が今も助けを求めているかもしれないのだ。ためらっている暇なんてない。あの子だけは、何があっても守らなければ。
奈緒子は息を吐くと、思い切って扉を開けた。
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