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試し読み

【試し読み】この呪い、回避不可能。二度読み必須の体験型ホラー!――滝川さり『あかずめの匣』第一章全文特別公開!



 襖を開けると、母がティッシュを食べていた。
 暖房が効いた和室。和風のシーリングライトの下。ベッドの上で、水色のパジャマを着た母――いくがあぐらをかいていた。あたりにはティッシュが散らばっている。彼女は両手で大量のティッシュを摑んで、口に詰め込んでいる最中だった。
 顔が、トマトのように真っ赤になっている。
「ちょっと……何やってんの!」
 奈緒子は畳んでいた洗濯物を放り出すと、郁子の口に指を突っ込んだ。えきを吸った何十枚ものティッシュが、こうこう内にべったりと張り付いている。指でき出そうとするけど、郁子が抵抗する。その目は正気を失っていた。奈緒子の指にみつき、舌で口から押し出そうとする。錯乱している。いわゆる「不穏」状態だ。
「だめ! お母さん、やめて!」
 このままだとのどに詰まってしまう。怒鳴っても母は落ち着かない。こっちが大声を出したらますます興奮しますから、という医者の言葉を思い出す。「こっち」って何だ、と思ったことも。お前が味方になってくれるのか、と思ったことも。
 何とかほとんどのティッシュを取り除いた頃には、指が血まみれになっていた。奈緒子ははぁはぁと息を切らしながら、皮がめくれた指を見つめた。郁子は七十二歳だが、年齢の割に歯はしっかりしている。「死ぬまでうまいもん食うたるんや」――白い歯を見せて笑う、若かりし頃の母の姿を思い出す。
 その母が今や、自慢の歯でティッシュを食べている。娘の手を血だらけにして。
 あの日の母は、もうどこにもいなくなってしまった。
 
 外からにぎやかな声が聞こえてきた。小学生の集団下校だ。唯奈が帰ってくる。
 奈緒子は目元をぬぐうと、部屋じゅうに散らばったティッシュを片付け始めた。落ち着いたらしい郁子は、部屋の隅で丸くなっている。表情は見えないが、いつものようにうつろな顔をしているのだろう。不穏の後はいつもそうだった。
「……もう食べたらダメだよ、ティッシュ。前にも言ったでしょ」
 しばらく経ってから「ああ」と「うう」の中間のような声がした。
 脇の下に手を入れてベッドに運ぶ。郁子はずいぶん縮んだが、一人で移動させるのはひと苦労だ。唯奈がもう少し大きくなってくれたら――と考えて、首を横に振る。あの子にはこんな思いはさせたくない。
 やっとの思いでベッドに横たわらせる。ベッドとは対角の位置にある小さな液晶テレビをけると、バラエティ番組が始まるところだった。
「お、お」
 郁子がうめき始めた。
「何?」
「お、おお――」
「何? はっきりしゃべって」
「お、おしっこ」
「オム――紙パンツ穿いてるでしょ。……そん中でして。いいから」
 そうすげなく言うと、洗濯物を畳みなおして、たんの中にしまう。
 すると、がらがらと玄関扉が開く音がした。ただいまぁ、と幼い声が響く。
 おかえり、と廊下に半身を出したとき、ぐじゅ、と何かを踏んだ。
 見ると、木の板の上に、薄緑色の介護オムツが転がっていた。
 ハッとして、部屋の中を振り返る。郁子がこうこつとした表情でテレビを眺めている。
 濃厚なアンモニア臭が漂い始めて、奈緒子は一人、こぶしを握り締めた。

 郁子の認知症が悪化したのは、父が死んでからだ。
 父は二年前に死んだ。のうこうそくだった。郁子が畑仕事から戻ると居間で倒れていて、すでに事切れていたらしい。「ちょっと前には、普通に話しとったのに」――亡くなってからしばらくは、郁子は何度もそう繰り返していた。
 近所の人が言うには、それ以来、彼女はみるみるやつれていったという。集会にも来なくなり、家にこもりがちになった。かと思えば、夜中に出歩くようになった。田んぼや道の真ん中で倒れていることが何度もあって、娘である奈緒子に連絡が来た。父が亡くなって約半年後のことだ。
 その頃、奈緒子は都会の片隅で、関係の冷え切った夫と暮らしていた。原因は向こうの浮気。唯奈のために離婚までする気はなかったが、母の介護のために田舎に戻らないといけないと伝えると、夫の方から離婚届を持ってきた。そこには「唯奈のこともよろしく」と書かれたポストイットが貼られていた。奈緒子はそこで初めて、夫が娘のことすら愛していなかったのだと知った。
 そうして奈緒子は、去年の十一月――四十歳の冬に、かんむり村に帰ってきた。

 冠村は××県にある、人口千人程度の小さな村だ。何もない。本当に何もない。強いて特徴を挙げるとすれば、四方を山で囲まれていて、その形が冠に見えるから「冠村」、ということくらい。
 高校に進学すると同時に村を出てしんせきの家に預けられた奈緒子は、それからほとんど村には帰らなかった。両親に会いたいときは、彼らの方から会いに来てくれた。経済的にも体力的にも負担だろうからこっちが行くと申し出ても「ついでに旅行したいんや」と両親は譲らなかった。
 今なら、父と母の気持ちがよくわかる。
 木造建ての3LDK。都会では考えられない広さの庭。反抗期が来るまで身長を測った柱の傷と、線香の匂いが染みついた仏間。
 久しぶりの実家にいやしを感じたのも一週間が限度だった。壁のような山に囲まれた村、よどんだ空気の底で老いてゆく村人たち。茶色く汚れた雪にまみれた風景。
 それらは、東京のマンションでよく見た、扉の外に放置されたこけだらけの水槽を思い出させた。そして若い頃、いつかこの村を出たいと切望していたことも。
 
 郁子にシャワーの湯をかけている間、奈緒子はふと、浴室の鏡を見た。
 久しく美容院に行っていないせいで、肩まで中途半端に伸びた黒髪は、砂浜に打ち上げられた海藻のようにへたっていた。垂れ下がってきた頰と、首から鎖骨の筋張ったライン――ここ最近の心労がたたったせいか、ずいぶん老け込んだような気がする。
 郁子が、ひどくき込んだ。
 奈緒子は鏡から目を背けると、郁子を脱衣所に移動させた。身体じゅうをいて、服を着せて、居間のソファに座らせる。まるで大きな着せ替え人形だ。昔、母にその手のおもちゃを買ってもらえなかったことを思い出す。
「リカちゃん人形は買ってあげたらいいよ。将来、介護してもらうときの練習になる」
 会社員だった頃、同僚がそんな冗談を言っていた。唯奈にリカちゃん人形を買い与えるか悩んでいたときだ。元夫には「誕生日とかクリスマスならいいだろ」と言われたが、結局買わなかった。自分が買ってもらえなかったものを子供に与えるのは、なぜか抵抗があった。
 まだ午後の三時なのに、ぐったりと疲れていた。でもまだ休めない。シーツを回収して洗濯機に放り込む。除菌シートで廊下にこぼれた尿を拭き取っていると、ランドセルを下ろした唯奈が近寄ってきた。作業をしながら、横目で彼女の服装を確認する。紺色のロングTシャツとチェック柄のズボンは汚れていないか、朝セットしてあげた三つ編みは乱れていないか――母親の心配をよそに、唯奈はのんな口調で言った。
「ママ、おなかすいた」
 彼女の手には、二十センチほどの大きさのプーさんのぬいぐるみがあった。数年前に家族でディズニーランドに行った際に、元夫が気まぐれで買い与えたものだ。もらった直後はまったく気に入った素振りは見せなかったのに、荷ほどきの際に見つけて以来、学校以外では常に持ち歩いている。奈緒子にとっては、見るも忌々しいぬいぐるみだった。見るたびに、唯奈から父親を奪ったことを責められている気がした。
「……ちょっと待って。すぐに作るから」
「チョコ食べていい?」
「ダメ。もうすぐご飯って言ってるでしょ?」
「……でも、だって、ママおそいじゃんって、プーさん言ってるよ」
 瞬間、頭がカッと熱くなった。
 気がついたら、除菌シートを唯奈のひざあたりに投げつけていた。
「そう思うんなら手伝ったら? 全然気が利かない!」
 唯奈は目を丸くして奈緒子を見上げた。それからすぐに顔を背けて、居間の方へ行ってしまった。奈緒子の胸がチクリと痛んだ。

 晩ご飯は、ぶりの照り焼きと芋の煮っころがし、ほうれん草のしらえ、それとおしるにした。唯奈に魚を食べてもらいたかったからだ。
 首にエプロンを巻き終わらないうちに、郁子が照り焼きをづかみで食べ始めた。
「う、うう、う」
 タレがぼたぼたとテーブルに落ちる。郁子の膝にも、椅子にも、床にも。やめてと言っても聞く耳を持たない。べたべたの手で奈緒子の身体に触れる。自分の顔にも髪の毛にも。またおだと思うとげんなりする。
 唯奈を見ると、一口も食べていなかった。
「食べたくない……」
「どうしたの? お腹いたんじゃなかったの?」
「おなかいたい」
 そう言って、両手でお腹をおさえる。――噓だ。魚を食べたくないから仮病を使っているんだ。以前にも似たようなことがあって、そのときは許したから、味をしめてこんなことを言っているんだ。
 ガチャンと音がした。見ると、郁子がおわんを倒していた。ちょっと目を離した隙に。
 こぼれた味噌汁をパシャパシャと手でたたいて郁子が遊び始める。「ああ、ああ」まつが飛ぶ。豆腐が砕ける。郁子の指についたワカメがどこかに飛んでいく。
 唯奈が一歳くらいのときもこうだった。一生懸命作ったご飯をこぼされて、投げられて、遊ばれて。でも、あのときは我慢できた。いずれやらなくなる。遊び食べで、手の感覚を育てているんだ。探索行動なんだ。成長している証拠だ。そう思えたから。
 だけど、この人はただ正気を失っているだけだ。成長がない。未来もない。
 母のこうした行動はいつまでも終わらない。
 彼女が死ぬまでは。
「やめてって言ってるでしょ!」
 枯れ枝のような郁子の手首を摑む。郁子は獣のような声をあげた。
 すると、いつの間にか席を立っていた唯奈が、奈緒子の服のすそを引っ張った。
「もうおばあちゃんをいじめないで」
 何で、そんなこと――
 気づいたら奈緒子は、唯奈の頰を叩いていた。
 唯奈はぼうぜんとした表情からくしゃくしゃの泣き顔になったかと思うと、やがて大声でわめき始めた。奈緒子の手は叩いた形のまま固まっていた。プーさんが床で笑っている。唯奈はそれを拾い上げると、泣きながら部屋に戻っていった。
 その後ろ姿を、奈緒子は、ここに来てから毎日のように見ていることに気づく。
 でも、どうしようもない。駆け寄って抱き締めてあげる気力さえ湧かない。
 むしろ部屋にこもっていてくれた方が楽だとすら感じている。
 
 郁子を再びお風呂に入れて眠らせた頃には、午後十一時を回っていた。
 唯奈もそのまま眠ったのだろう。宿題はしたのかな、友達はできたかな、新しい学校でいじめられてないかな――そんな話をしばらくしていない気がする。この家に来て二か月ちょっと、あの子とまともに会話していない。怒鳴るか「ちょっと待って」を繰り返してばかりだ。
 テーブルのご飯はすっかり冷たくなっていた。ひっくり返ったお椀。床にできたお味噌汁のみずまり。散らばった魚の身。全部放り出して寝たくなる。でも、できない。それをしたらこの家はめちゃくちゃになる。この家を支えているのは自分なのだから。
 片付けていると、居間と廊下を隔てるふすまが開いて、唯奈が顔を見せた。
「ママ……」
 彼女は着替えていなかった。やはりそのまま眠っていたらしい。プーさんのぬいぐるみを抱いている。それを見て奈緒子は胸がざわざわした。
「ママ、あのね」
「……開けたら閉めるって、いつも言ってるでしょ」
 つい厳しい物言いになってしまう。唯奈は後ろの襖を閉めてから、
「ママ、いっしょにねて」
 と言った。
「うん。お片付けしたらいくね。待っててくれる?」
「だめ。こわいんだもん。プーさんもこわいって。ねぇ?」
 そう、ぬいぐるみに話しかける。最近、唯奈の中でりの手法だ。プーさんを味方につけてくる。奈緒子はいらいらする。元夫がそこにいるような気分になる。
「プーさんがいるなら怖くないでしょ? パパからもらった宝物だもんね」
 七歳に皮肉は通じるだろうか。
「うん……でも、りゅうじくんが、てんじょうにはね、はりつきじじいがいるって」
 はりつきじじい?
「たんすのうらには、ぺらぺらの紙女がかくれてて、おふとんから足出てたら、アシナメがなめてくるって」
 紙女? アシナメ?
「それ、りゅうじくんが言ったの?」
 こくんと唯奈がうなずく。
 奈緒子は、嘆息した。好きな女の子をいじめる男の子というのは、いつの時代もいるらしい。りゅうじくんは、唯奈を怖がらせて気を引こうとしているのだろう。
「それと、あ――がくるかも」
「……あかずめ?」
 それだけは聞き覚えがあった。
「それって、どんなお化けだっけ?」
「わかんない。けど、こわいんだって。すっごく」
「あ……そう。でも、どんなお化けかわかんないなら、怖くないよ。さ、早く寝て」
「ううーん……じゃあね、ママ、おなかすいた」
「晩ご飯残した子が何言ってるの」
 そう言うと、奈緒子は脱衣所に向かった。
 服を脱ぎながら、自己嫌悪の念がじわじわと湧いてくる。
 また冷たくしてしまった。一緒に寝るくらいしてあげればいいのに、できない。
 優しくしたいのに、その余裕がない。
 お風呂から出たら、ぎゅっとしてあげよう。そう決めて居間に戻ると、しかし、唯奈はいなくなっていた。
 部屋に行くと、唯奈は一人で寝ていた。プーさんのぬいぐるみをぎゅっと抱いている。目の端には、さっきまで泣いていた跡が残っていた。
 奈緒子は、指でその跡に触れた。廊下から漏れる光で、指についた母の歯型がやけにくっきりと見えた。
 ……明日あした明後日あさつても、介護は続く。唯奈に優しくできない日々が続く。
 この家にいる限り。
 母が死なない限り。
 息を深く長く吐く。今日初めて呼吸ができたような気さえする。
 この家は――息が詰まる。


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