2
襖を開けると、母がティッシュを食べていた。
暖房が効いた和室。和風のシーリングライトの下。ベッドの上で、水色のパジャマを着た母――
顔が、トマトのように真っ赤になっている。
「ちょっと……何やってんの!」
奈緒子は畳んでいた洗濯物を放り出すと、郁子の口に指を突っ込んだ。
「だめ! お母さん、やめて!」
このままだと
何とかほとんどのティッシュを取り除いた頃には、指が血まみれになっていた。奈緒子ははぁはぁと息を切らしながら、皮が
その母が今や、自慢の歯でティッシュを食べている。娘の手を血だらけにして。
あの日の母は、もうどこにもいなくなってしまった。
外からにぎやかな声が聞こえてきた。小学生の集団下校だ。唯奈が帰ってくる。
奈緒子は目元を
「……もう食べたらダメだよ、ティッシュ。前にも言ったでしょ」
しばらく経ってから「ああ」と「うう」の中間のような声がした。
脇の下に手を入れてベッドに運ぶ。郁子はずいぶん縮んだが、一人で移動させるのはひと苦労だ。唯奈がもう少し大きくなってくれたら――と考えて、首を横に振る。あの子にはこんな思いはさせたくない。
やっとの思いでベッドに横たわらせる。ベッドとは対角の位置にある小さな液晶テレビを
「お、お」
郁子が
「何?」
「お、おお――」
「何? はっきりしゃべって」
「お、おしっこ」
「オム――紙パンツ
そうすげなく言うと、洗濯物を畳みなおして、
すると、がらがらと玄関扉が開く音がした。ただいまぁ、と幼い声が響く。
おかえり、と廊下に半身を出したとき、ぐじゅ、と何かを踏んだ。
見ると、木の板の上に、薄緑色の介護オムツが転がっていた。
ハッとして、部屋の中を振り返る。郁子が
濃厚なアンモニア臭が漂い始めて、奈緒子は一人、
郁子の認知症が悪化したのは、父が死んでからだ。
父は二年前に死んだ。
近所の人が言うには、それ以来、彼女はみるみるやつれていったという。集会にも来なくなり、家にこもりがちになった。かと思えば、夜中に出歩くようになった。田んぼや道の真ん中で倒れていることが何度もあって、娘である奈緒子に連絡が来た。父が亡くなって約半年後のことだ。
その頃、奈緒子は都会の片隅で、関係の冷え切った夫と暮らしていた。原因は向こうの浮気。唯奈のために離婚までする気はなかったが、母の介護のために田舎に戻らないといけないと伝えると、夫の方から離婚届を持ってきた。そこには「唯奈のこともよろしく」と書かれたポストイットが貼られていた。奈緒子はそこで初めて、夫が娘のことすら愛していなかったのだと知った。
そうして奈緒子は、去年の十一月――四十歳の冬に、
冠村は××県にある、人口千人程度の小さな村だ。何もない。本当に何もない。強いて特徴を挙げるとすれば、四方を山で囲まれていて、その形が冠に見えるから「冠村」、ということくらい。
高校に進学すると同時に村を出て
今なら、父と母の気持ちがよくわかる。
木造建ての3LDK。都会では考えられない広さの庭。反抗期が来るまで身長を測った柱の傷と、線香の匂いが染みついた仏間。
久しぶりの実家に
それらは、東京のマンションでよく見た、扉の外に放置された
郁子にシャワーの湯をかけている間、奈緒子はふと、浴室の鏡を見た。
久しく美容院に行っていないせいで、肩まで中途半端に伸びた黒髪は、砂浜に打ち上げられた海藻のようにへたっていた。垂れ下がってきた頰と、首から鎖骨の筋張ったライン――ここ最近の心労が
郁子が、ひどく
奈緒子は鏡から目を背けると、郁子を脱衣所に移動させた。身体じゅうを
「リカちゃん人形は買ってあげたらいいよ。将来、介護してもらうときの練習になる」
会社員だった頃、同僚がそんな冗談を言っていた。唯奈にリカちゃん人形を買い与えるか悩んでいたときだ。元夫には「誕生日とかクリスマスならいいだろ」と言われたが、結局買わなかった。自分が買ってもらえなかったものを子供に与えるのは、なぜか抵抗があった。
まだ午後の三時なのに、ぐったりと疲れていた。でもまだ休めない。シーツを回収して洗濯機に放り込む。除菌シートで廊下にこぼれた尿を拭き取っていると、ランドセルを下ろした唯奈が近寄ってきた。作業をしながら、横目で彼女の服装を確認する。紺色のロングTシャツとチェック柄のズボンは汚れていないか、朝セットしてあげた三つ編みは乱れていないか――母親の心配をよそに、唯奈は
「ママ、おなかすいた」
彼女の手には、二十センチほどの大きさのプーさんのぬいぐるみがあった。数年前に家族でディズニーランドに行った際に、元夫が気まぐれで買い与えたものだ。もらった直後はまったく気に入った素振りは見せなかったのに、荷ほどきの際に見つけて以来、学校以外では常に持ち歩いている。奈緒子にとっては、見るも忌々しいぬいぐるみだった。見るたびに、唯奈から父親を奪ったことを責められている気がした。
「……ちょっと待って。すぐに作るから」
「チョコ食べていい?」
「ダメ。もうすぐご飯って言ってるでしょ?」
「……でも、だって、ママおそいじゃんって、プーさん言ってるよ」
瞬間、頭がカッと熱くなった。
気がついたら、除菌シートを唯奈の
「そう思うんなら手伝ったら? 全然気が利かない!」
唯奈は目を丸くして奈緒子を見上げた。それからすぐに顔を背けて、居間の方へ行ってしまった。奈緒子の胸がチクリと痛んだ。
晩ご飯は、ぶりの照り焼きと芋の煮っころがし、ほうれん草の
首にエプロンを巻き終わらないうちに、郁子が照り焼きを
「う、うう、う」
タレがぼたぼたとテーブルに落ちる。郁子の膝にも、椅子にも、床にも。やめてと言っても聞く耳を持たない。べたべたの手で奈緒子の身体に触れる。自分の顔にも髪の毛にも。またお
唯奈を見ると、一口も食べていなかった。
「食べたくない……」
「どうしたの? お腹
「おなかいたい」
そう言って、両手でお腹をおさえる。――噓だ。魚を食べたくないから仮病を使っているんだ。以前にも似たようなことがあって、そのときは許したから、味をしめてこんなことを言っているんだ。
ガチャンと音がした。見ると、郁子がお
こぼれた味噌汁をパシャパシャと手で
唯奈が一歳くらいのときもこうだった。一生懸命作ったご飯をこぼされて、投げられて、遊ばれて。でも、あのときは我慢できた。いずれやらなくなる。遊び食べで、手の感覚を育てているんだ。探索行動なんだ。成長している証拠だ。そう思えたから。
だけど、この人はただ正気を失っているだけだ。成長がない。未来もない。
母のこうした行動はいつまでも終わらない。
彼女が死ぬまでは。
「やめてって言ってるでしょ!」
枯れ枝のような郁子の手首を摑む。郁子は獣のような声をあげた。
すると、いつの間にか席を立っていた唯奈が、奈緒子の服の
「もうおばあちゃんをいじめないで」
何で、そんなこと――
気づいたら奈緒子は、唯奈の頰を叩いていた。
唯奈は
その後ろ姿を、奈緒子は、ここに来てから毎日のように見ていることに気づく。
でも、どうしようもない。駆け寄って抱き締めてあげる気力さえ湧かない。
むしろ部屋にこもっていてくれた方が楽だとすら感じている。
郁子を再びお風呂に入れて眠らせた頃には、午後十一時を回っていた。
唯奈もそのまま眠ったのだろう。宿題はしたのかな、友達はできたかな、新しい学校でいじめられてないかな――そんな話をしばらくしていない気がする。この家に来て二か月ちょっと、あの子とまともに会話していない。怒鳴るか「ちょっと待って」を繰り返してばかりだ。
テーブルのご飯はすっかり冷たくなっていた。ひっくり返ったお椀。床にできたお味噌汁の
片付けていると、居間と廊下を隔てる
「ママ……」
彼女は着替えていなかった。やはりそのまま眠っていたらしい。プーさんのぬいぐるみを抱いている。それを見て奈緒子は胸がざわざわした。
「ママ、あのね」
「……開けたら閉めるって、いつも言ってるでしょ」
つい厳しい物言いになってしまう。唯奈は後ろの襖を閉めてから、
「ママ、いっしょにねて」
と言った。
「うん。お片付けしたらいくね。待っててくれる?」
「だめ。こわいんだもん。プーさんもこわいって。ねぇ?」
そう、ぬいぐるみに話しかける。最近、唯奈の中で
「プーさんがいるなら怖くないでしょ? パパからもらった宝物だもんね」
七歳に皮肉は通じるだろうか。
「うん……でも、りゅうじくんが、てんじょうにはね、はりつきじじいがいるって」
はりつきじじい?
「たんすのうらには、ぺらぺらの紙女がかくれてて、おふとんから足出てたら、アシナメがなめてくるって」
紙女? アシナメ?
「それ、りゅうじくんが言ったの?」
こくんと唯奈が
奈緒子は、嘆息した。好きな女の子をいじめる男の子というのは、いつの時代もいるらしい。りゅうじくんは、唯奈を怖がらせて気を引こうとしているのだろう。
「それと、あ――あかずめがくるかも」
「……あかずめ?」
それだけは聞き覚えがあった。
「それって、どんなお化けだっけ?」
「わかんない。けど、こわいんだって。すっごく」
「あ……そう。でも、どんなお化けかわかんないなら、怖くないよ。さ、早く寝て」
「ううーん……じゃあね、ママ、おなかすいた」
「晩ご飯残した子が何言ってるの」
そう言うと、奈緒子は脱衣所に向かった。
服を脱ぎながら、自己嫌悪の念がじわじわと湧いてくる。
また冷たくしてしまった。一緒に寝るくらいしてあげればいいのに、できない。
優しくしたいのに、その余裕がない。
お風呂から出たら、ぎゅっとしてあげよう。そう決めて居間に戻ると、しかし、唯奈はいなくなっていた。
部屋に行くと、唯奈は一人で寝ていた。プーさんのぬいぐるみをぎゅっと抱いている。目の端には、さっきまで泣いていた跡が残っていた。
奈緒子は、指でその跡に触れた。廊下から漏れる光で、指についた母の歯型がやけにくっきりと見えた。
……
この家にいる限り。
母が死なない限り。
息を深く長く吐く。今日初めて呼吸ができたような気さえする。
この家は――息が詰まる。
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