元「ベイビーレイズJAPAN」の渡邊璃生さん初の小説集『愛の言い換え』が5月2日に発売となります。発売に先駆けて、選りすぐりの傑作書き下ろし3篇を30日間連続で全文特別公開します。
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◆ ◆ ◆
清水さんと出会ってから、初めての冬。
わたしは、危機的状況に陥っていた。手は震え、呼吸は上擦り、視界は眩み、罪悪感が胸を満たす。
手には、一枚の下着が握られていた。
黒のボクサーパンツ。
清水さんの、ものだ。
出来心だった。つい、としか言いようがない。
なぜこのような状況に陥ってしまったのか……。
わたしは順を追って思い出すことにした。
それは、紅葉が教会までの道のりを赤く染め上げる季節だった。
清水さんと共に「カフェ・カナン」で勉強し、チャットアプリでやり取りを交わすのにも慣れた頃。ミサが終わり、帰路につく中、彼が言った。
「そういえば、修道院のケーキを買ったんですよ。院内で育てたレモンを使ったケーキなんですが、大きいですし、ひとりで食べきれなくて……。もしよかったら、うちで召し上がって行きません?」
わたしはふたつ返事で了承した。このような状況で、そうする女性は少ないだろう。だが、わたしに清水さんに対しての警戒心などなかった。この素晴らしい、誠実を絵に描いたような人間に、わたしのような下心など存在しないと思ったのだ。
清水さんは、三波沢駅から電車で二十分、徒歩で五分のアパートに暮らしていた。いかにも新築で、セキュリティもしっかりとしたひとり暮らし用の住居。中に招かれ、わたしは促されるままソファーに座った。2LDKの部屋は物が少なく、広々としている。だが生活感がないわけではなく、窓際には花の活けられた花瓶が、テレビの横の棚には小さな祭壇や聖母マリアの像が置かれていた。脱いだ上着を膝に抱えたまま視線を注ぐと、それがただの聖母像でないことがわかった。だが目を凝らしても、白のシルエットから詳細な情報は得られない。もっとよく見ようと席を立つと、上着をハンガーにかけたらしい清水さんが、わたしに言った。
「これ、気になります?」
「あ、はい……。すみません、じろじろ見てしまって。」
「いいんですよ。どうぞ。」
彼は棚から像を取ってわたしに手渡した。そっと受け取ると、ずっしり重いそれは男性を腕に抱く聖母マリアのものだとわかった。
「『ピエタ』というんです。」
「『ピエタ』?」
「はい。聖母子像のひとつなんです。十字架から降ろされたイエスを抱く聖母マリアの像なのですが、一口に『ピエタ』と言っても、同じ題材で造られた彫刻はたくさんあるんですよ。この像は、『サン・ピエトロのピエタ』です。」
像の聖母マリアは、とても美しかった。閉じられた瞼はしわの一本も走らず、頬もつるりとしている。すっと通った鼻筋、ふっくらとした唇はどこか切なさをたたえ、服のしわは豊満なボディラインを想像させた。若々しく麗しいその表情は、同性であるわたしも恋に落ちそうなほど。
心地の良い沈黙の中、像に見とれていると、腕に衣擦れの感覚。視線をやると、清水さんがわたしの上着に手を伸ばしていた。
「あ、すみません。見ていてください、上着をお預かりしますね。」
「ご、ごめんなさい、お気遣い頂きありがとうございます……!」
「いえいえ、お客様ですから。と言っても、あまり手の込んだおもてなしはできませんけどね。どうぞ、座って見てください。」
なんて丁寧な人なのだろうか。お言葉に甘えソファーに座ると、清水さんは「ケーキを用意しますね。」と言って台所のあるらしい仕切りの向こうへと下がった。
手に持った像は埃ひとつ被っておらず、黄ばみなどの劣化は見られない。頻繁に手入れがされているであろう白さに、ますます目を奪われた。「ピエタ」という像を初めて目にし、専門的な知識や美的センスもないわたしには、この像にどのような意味と解釈が存在しているか、まったくわからない。だけれどこの像がとても美しく、聖母マリアの表情に慈愛が宿っていることは、自明の理であるように思えた。
やがて台所から食器の音がし、顔を上げると、テーブルに盆を置く清水さんが目に入った。切り分けられ、それぞれの皿に載ったケーキは、断面からレモンを覗かせている。よく焼かれたケーキは食欲をそそり、隣に置かれた紅茶も相まって、わたしの心を躍らせた。
「わあ、美味しそう!」
「でしょ? あ、紅茶はミルクと砂糖、お好きにどうぞ。」
清水さんがカップの横に、シュガーケースとミルクの入った小さなカップを置いた。一般の家庭にはない、それこそ「カフェ・カナン」のような少しいいカフェでしか見ないような食器。よく観察すると、盆や皿、カップやソーサーも、白を基調としたヨーロピアンなデザインだった。わたしは素直に疑問を口にした。
「こういう食器、お好きなんですか?」
「ああ、はい。好きというか、つい集めちゃうんですよね。十字架や像のような聖品の販売店があるんですが、こういうのも置いてあって……いやあ、収集癖ですね。こればかりは治らない。」
その声色はどこか後悔を孕んでおり、清水さんにもこういった一面があるのかと少しかわいらしく思った。
「どうぞ、召し上がってください。」
「はい、いただきます。」
「いただきます。」
ケーキにフォークを入れると、見た目より生地が柔らかいことがわかった。ふんわりとフォークの上で弾むそれは、しかし密度もあり、口の中でゆっくりと溶けた。スポンジはほんのりと甘いがしつこさはなく、レモンの酸味を引き立てる。絶品だった。
(つづく)
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