元「ベイビーレイズJAPAN」の渡邊璃生さん初の小説集『愛の言い換え』が5月2日に発売となります。発売に先駆けて、選りすぐりの傑作書き下ろし3篇を30日間連続で全文特別公開します。
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ひかりも元夫も不幸だったと、春海は考えたが、我に返り己を恥じた。余計な穿鑿だった。胸がちくりと痛む。ひかりはそれに気づいたのか、「ごめん。」と口にした。
「わたしにとってはね、『蹲踞あ』ってすごく大切なの。ほら、ご飯食べた後の歯磨きとか、外出後の手洗いみたいな? 『絶対やらなきゃ駄目!』だから。」
「う、うん。」
春海がひかりに目をやる。俯いていたはずの彼女は、今はしっかりと前を向いて、その目に太陽の光をたっぷりと吸った。
やがて、自然と視線が交わる。春海は呼吸を忘れた。数秒だろうか、数十秒だろうか、子供たちの笑い声が消え風の音だけがふたりを祝福していた。
「……この後、楽しみにしてるね。誘ってくれてありがとう。」
ひかりがモナリザ以上の笑顔を浮かべ、立ち上がる。夏の日の陽射しが彼女を神秘的に魅せて、小学生姿の彼女が重なり、春海は言葉を飲み込んだ。
笑顔のまま歩き出す彼女の背中を、春海はベンチに座ったまま見詰め続けた。
十六時の鐘が鳴るころ、春海が神社前に行くと、すでにひかりの姿があった。
「ごめん、待ったかな。」
「待ってないよ。ほら、行こ!」
ひかりに手を引かれて、春海は人の波に入った。握られた手首が熱い。はぐれないように、離れないように、春海は歩みを強めた。
「ねえ、春海くん。あれ食べたい!」
列を抜けたひかりが立ち止まったのは、チョコバナナの屋台。お祭りの定番だ。「チョコバナナ 三百円 じゃんけん、買ったら二本、あいこ、負けで一本」と書かれた紙が貼られている。
「春海くんじゃんけん得意だっけ?」
「ふ、普通かな……。」
「そっか。ねえ、代わりにやってよ!」
そう言って、ひかりは財布から三百円払った。
「(しまった! こういうのって、僕が払うべきじゃ……。)」
落ち込む間もなく、屋台の男性が「最初はグー!」と掛け声を発した。
慌ててパーを出す春海。男性はグーだった。
「やったー! ありがとう、春海くん!」
「え⁉ う、うん、やったー!」
春海に手のひらを向けるひかり。ぱちんと合わせると、男性が含み笑いを浮かべて言った。
「よかったな、彼女ちゃん!」
「ち、違いますよ!」
反射的に否定する春海。ちらりとひかりに視線を向けるが、彼女はチョコバナナ選びに夢中だった。
「わたし、『ナマケモノのマーチ』ついてるのにする。春海くんは?」
「え、いいの?」
「もちろん。春海くんが勝ったんだから。」
「あ、ありがとう!」
春海はひかりが手にしたチョコバナナを見て、同じものを選んだ。
「(たしかに勝ったのは僕だけど、なんだか奢られた気分……。)」
「どうしたの?」
「いや、ちょっと考えごと……。」
「せっかく遊んでるのになにそれ! ほら、早く次行こ。射的したい、射的!」
射的を探す彼女に「あっちにあったよ。」と言って、今度は春海が手を引いた。
「ひかりちゃん、相変わらず金魚すくい上手いね。」
「えへへ。まあ、昔に比べたら腕は落ちたけどね。」
ひと通り屋台を回り終え、待ち合わせ場所の神社のベンチに腰を下ろした。ひかりの手には、厳選した金魚の入った袋が下げられている。彼女は小学生時代から金魚すくいの名人だった。ポイに傷ひとつつけず、器を金魚いっぱいにする。オリジナルの技も作っていたようだ。
「あー、楽しかった。小学生のころ思い出すね。」
「中学はばらばらだったから、遊ぶ機会もなくなっちゃったしね。」
「うん。」
「あ、そうだ、もうすぐ二十時だし、」
打ち上げ花火見に行かない。
春海が口にしかけた瞬間、
「えっ、もうそんな時間? ごめん、ありがとう!」
ひかりは視線を腕時計に向け、立ち上がった。
「え?」
「『蹲踞あ』しなきゃ! 教えてくれてありがとね。楽しかったよ! 終わったら連絡するから!」
矢継ぎ早に言われ言葉を失う春海。ひかりは手を振りながら駆け足で人混みの中に消えようとしている。
(つづく)
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