元「ベイビーレイズJAPAN」の渡邊璃生さん初の小説集『愛の言い換え』が5月2日に発売になりました! その中から選りすぐりの傑作書き下ろし3篇を30日間連続で全文特別公開します。
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問答は五分ほど続いた。風呂上りということもあって、体はとても温かい。リビングで濡れた髪を乾かしていると、ソファーに寝転がる蒼介がドライヤーに負けない声量でこう言った。
「ねえ、明日こそ猫杏仁買って来てよー。」
「だから『セゾン』遠いって。自分で買え。シャンプーのおつりで……。」
「やったあー。」
よほど嬉しいのか、体を起こし新の濡れた髪をわしゃわしゃと撫でる蒼介。水分を含んだ栗色の髪が風に揺れる。中まで風が入るのか、新はぼんやりと笑みを浮かべた。
「あー、それいいわ。これからお前に乾かしてもらおっかなあー。」
「んはは。」
「もっと中まで手突っ込めよ。」
「あー、びちょびちょ。ちゃんと拭きなよー。」
「お前に『ちゃんと』とか言われてもなあ。」
新がくすりと笑って返すと、蒼介は一拍置き、夢でも語るように浮ついた声色で言った。
「ねえ、新ちゃん。もし自分が正義のヒーローになったらどうする?」
「なんだよ、それ。スーパージャンプとかできんの?」
「スーパージャンプはできないけど……、だれよりも速く走れる。傷もすぐ治るんだ。」
「へえ。ヒーローならさあ、困ってる人を助ける以外なくない?」
その言葉を受けて、蒼介は「似合わないなあ。」と笑った。
翌日、C・エレメント社。新は今日もガソリンを飲む。味覚は消え、ただただ痛みが喉を襲う。やがて耐え切れなくなり、バルブを慌てて捻った。頬に溜めたガソリンをゆっくりと飲み下し、大きく咳き込む。
近頃、このようなことが増えている。引っ越しと共にこの仕事に就いて三年、体力の限界が近いのだろうか。だがその脳裏には蒼介の顔が浮かんでいるのだろう。拾ってしまった以上、世話をしなくてはならない。それが責任というものだと新は感じた。
鋭い頭痛の中、再び蛇口を咥えガソリンを飲み始めた。鼻をつく臭い。昨夜の問いを思い出し、気を紛らわせることにした。
もし自分が正義のヒーローになったら。だれよりも速く走れるとしたら。傷がすぐに治るとしたら。
流行りのアメリカンコミックスの主人公のように、防護スーツを身に纏い戦う自分。
今期の「仮面ダイバー」の主人公のように、「変身!」とベルトを腰に巻く自分。
老若男女から支持を集めるドラマの主人公のように、三分間限定で巨大化できる自分。
どれもしっくりこない。
代わりに蒼介の顔をはめ込んでみる。
似合わない。思わず破顔する。口からガソリンがこぼれかけ、彼は慌ててすすった。
終業時間を迎え、新は更衣室へ入った。ロッカーを開けつなぎを脱ぐと、早速隣りの社員が好奇心の滲む笑顔を新に向けた。
「二階堂。『レインコート男』見たか?」
「ああ……、見てないです。昨日『気をつけろ』とか言ってたのに、興味津々じゃないですか。」
ガソリンの臭いが染みついたつなぎをハンガーにかけて、新は目を伏せながら答えた。すると、
「俺見ましたよ、『レインコート男』! 西区で!」
別の社員が話に割り込んだ。
「なんか探してる感じで……、きょろきょろしてましたよ。俺は見てないけど刃物持ってたらしいし、痴情のもつれとかですかね。」
「飛躍し過ぎ。」
痴情のもつれで刃物を持ち出すなんて、今どき昼ドラマでも見ない設定だ。新は着替えを終え、「お疲れ様したー。」と更衣室を後にした。
(つづく)
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