元「ベイビーレイズJAPAN」の渡邊璃生さん初の小説集『愛の言い換え』が本日5月2日に発売! その中から選りすぐりの傑作書き下ろし3篇を30日間連続で全文特別公開します。
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金銭的に余裕があるにもかかわらず、コンビニエンスストアでインスタント食品や冷凍食品を買い込むのも(手作りが面倒だという理由もあるが)、このためだった。便器にかぶさって喉奥をくすぐると吐き気が込み上げ、中に胃の中のものをぶちまける。未消化の炒飯と、琥珀色の液体。ふたつが混ざって嫌な臭いが立ち込め、新は嘔吐きながら扉の向こうを指した。
「換気扇、換気扇。」
それを受けて、蒼介が換気扇をつける。だが臭いは簡単に立ち消えない。吐瀉物が逆流したからか、新は鼻声で愚痴をこぼした。
「うぇー、駄目だあ。炒飯とガソリン混ざると最悪。絶対生姜! 生姜が悪さしてる。頭いてえー。」
だらだらと唾液や鼻水を垂らしながら、新は肩で呼吸を続けた。壁に手を這わせて、トイレットペーパーを探すが、見つからない。すると蒼介が、
「水いる?」
いくつか重ねて切ったペーパーを手渡してこう言った。「ンー。」と疲れの見える返事をする新に、蒼介がコップを差し出す。受け取ってひと口飲むと、喉が再び刺激され……。
「んェっ、まだ吐ける……。」
便器に覆いかぶさり、二度目の嘔吐。汗でシャツがじっとりと体にまとわりつく。頭痛が酷いのか、頭を手首で数回叩いた。
やがて気分が落ち着いたのか、手に持ったままだったトイレットペーパーで口周りを整え、吐瀉物と共に流した。
「風呂入る……。お前、もう入った?」
「うん。」
「あーそう。」
翌日も仕事に行かなければならない新は、調子が戻るのを待たず入浴することにした。髪を濡らすが、頭の調子が優れないのか振ったり揺すったりを繰り返す。ぼんやりとシャンプーボトルを手にすると、やけに軽いことに気がつく。浴室の扉を開け、「蒼介ぇ。」とリビングにいるであろう彼の名を呼んだ。
「なにー?」
「シャンプーないわ、明日買っといてー。金置いとくからー。」
「はーい。」
用は済んだと髪を洗うと、背後に気配を感じた。振り返ることなく、「なんだよ、覗くなよー。」と茶化すが、
「あのさ。」
蒼介はやけに真剣な声色で切り出した。
「なに?」
「仕事やめたら? 新ちゃんしんどそうだよ。」
「一円でも家に入れてから言えよ。」
そう、新に成人男性を養う趣味はない。蒼介と同居しているのは成り行きでしかなかった。思えば高校時代からそうだったが、彼の気質は完全に野良猫だ。飯をたかりに来るので気まぐれに与えていた新だったが、最初は謙虚だったのに蒼介はいろいろと注文をつけるようになった。情が湧いて家に住まわせるようになったのも、失敗と言えば失敗だろう。
なんにせよ仕事をやめるなら蒼介に人間になってもらうしかない。人の家に図々しくも転がり込む行動力はあるのだから、その気になれば働けるはずなのだが。
「(そういや、会社の近くで清掃アルバイトの募集見た気がする。今度それとなくつついてみるか……。)」
ふと視線を浴室の扉に移すと、曇りガラスの向こうで蒼介が座り込み、スマートフォンを触っているのがわかる。
「(まだいたのか。……眠いし話し相手になってもらお。)蒼介ぇ。明日シャンプー買えって言ったの覚えてるか?」
「覚えてるー。」
「どうせ暇なんだからちゃんと買えよ。あと部屋の掃除とかな。」
「んー。」
「聞いてるか?」
「聞いてる、聞いてる。掃除でしょ、掃除。」
「そうそう……。」
新の声色が眠気に沈む。蒼介もそれに気づいたのか、浴室の扉をトントンと叩いた。
「新ちゃん、お風呂で寝ちゃ駄目だよ。」
「うん、起きてるー……。」
あくび混じりの声で答えると蒼介が扉を開ける。
「新ちゃーん、起きてー。」
「起きてるってぇ。」
「今半分寝てたよ。」
「起きてたぁ。起きてたよ。」
(つづく)
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