元「ベイビーレイズJAPAN」の渡邊璃生さん初の小説集『愛の言い換え』が5月2日に発売となります。発売に先駆けて、選りすぐりの傑作書き下ろし3篇を30日間連続で全文特別公開します。
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◆ ◆ ◆
「カフェ・カナン」は今日も賑わっている。女性同士のグループや、カップル、ノートパソコンで作業をしている男性がパンケーキを頬張る姿は、少しだけ羨ましいものがあった。
「(今日の服、おかしくないかな……。)」
今日の勉強会のため、わたしは昨日、久しぶりに駅前に服を買いに行った。店員さんに勧められるがまま、香織ちゃんの着ていたワンピースに似たものを買ったのだが……。
席に案内され、メニューを手渡される。清水さんが受け取ると、
「俺、こういうところあんまり来ないんですよ! 深川さん、オススメありますー?」
「あ、お店のオススメはパンケーキなんですけど、わたしはフレンチトーストが好きなんです……! ちゃんと中までしっとりしてて、分厚くてトロトロで!」
「へー、じゃ、それにしよ。深川さんもフレンチトーストにします?」
「そうですね!」
「飲み物は?」
「では、ミルクティーを……。」
「わかりました。……すみませんー。」
清水さんが、店員さんにオーダーを伝える。余りにも自然にメニューを確認されたわたしは、「清水さん、慣れているんだなあ。」という印象を受けた。
フレンチトーストが運ばれるまでの間、わたしたちは初めて、ふたりきりの会話をすることになった。
「深川さんは、どういうきっかけで神学サークルに入ったんですか?」
「えっと、中学の英語の先生がクリスチャンだったんです。英語で聖書を学ぶ授業があって、……。なにかを得て、なにかを失ったとき、最後まで残るのは『信仰』と『希望』と『愛』みたいな……。」
「ああ、『コリントの信徒への手紙一』の十三章ですね!」
「そうです、この文章がすごく好きで! すごい、やっぱりわかるんですね。」
「いえいえ、俺も好きだったので、たまたまです。『信仰と、希望と、愛、このみっつは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。』っていう……。」
「それです、それ! わたし、なんかすごいと思うんですよ。だって、キリスト教の聖書に、『信仰より愛が大切』って書かれているんですよね?」
「まあ、そうですね。実は、この章って、もう少し長いんですよ。えっと、どこだったかな……。」
そう呟くと、清水さんはテーブルの下の籠に入れられたリュックサックに手を伸ばし、中からノートを二冊ほど取った。表紙は色褪せ、付箋も劣化していることから、かなり使い込んでいるものだということがわかる。付箋を頼りに緑の表紙をめくると、
「あ、あった、あった。」
わたしにページを見せようと、身をわずかに乗り出した。だがその直後、
「お待たせ致しました。」
─飲み物が運ばれることを残念に思うのは初めてだった。ミルクティーと清水さんのカフェオレはテーブルを無慈悲に占領する。思わずぽかんと口を開けると、清水さんはそんなわたしを見てか「あはは、」と目を細めた。笑いのツボが浅いのか、よっぽどわたしが間抜けな顔をしていたのかはさておき、わたしもつられて笑った。
わたしたちは同じタイミングで、運ばれた飲み物を口にした。だが味わう間もなく、コップをテーブルの端に移動させると、再び同じタイミングで身をわずかに乗り出した。清水さんが、閉じたノートを再び開く。
「えっと、どこまで話しましたっけ……、そうだ、『コリントの信徒への手紙一』だ!」
「はい。」
そのとき、わたしは初めて、「コリントの信徒への手紙一」の十三章を知った。
「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
清水さんのノートには、そう書かれていた。
わたしはその文章に引き込まれた─いや、心を奪われた。
清水さんの丁寧な字で書かれたそれに、信仰以上の力のようなものを感じたのだ。
それは、「魔力」と言っても差し支えないかも知れない。聖書の言葉にそのようなたとえを使うのは適切でないかも知れないが、わたしはそういった印象を受けたのだ。
一文、また一文と視線を走らせる度、文の持つ意味を噛み締めるたび、脳みそに心地よい刺激を感じる。
「本当はもっと長いんだよ。ぜんぶ読みたい?」
「は、はい!」
頬杖をつく清水さんの視線は、とても柔らかくあたたかかった。
(つづく)
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