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試し読み

祝!令和初の芥川賞 今村夏子作品試し読み!『あひる』②

祝!令和初の芥川賞
今村夏子作品試し読み!

今村夏子さんが『むらさきのスカートの女』(朝日新聞出版)で第161回芥川賞を受賞されました。これを記念して、カドブンでは今村さんの代表作『あひる』(角川文庫)の試し読みを3日連続で公開!
読みやすいのに心のざわつきが止まらない今村作品の魅力を、是非体験してみてください。


>>第1回から読む

 のりたまが我が家にやってきて三週間が過ぎようとしていたころだった。配合飼料や野菜くずだけでなく、魚やお米など、出されるものを何でも平らげていたのりたまの食欲が、徐々に落ち始めていた。父は、今ごろホームシックにでもかかったのか、とのんきに構えていた。母は祈り、わたしは図書館に返したばかりの『あひるの飼い方』をまた借りてきて読み返した。
 食欲不振、動きが鈍くなる、口呼吸が速くなる。のりたまの体に現れた症状は本の中の「あひるの病気」という頁の一番最初に載っている、呼吸器の炎症によって引き起こされる症状とそっくりだった。環境の変化やストレスによって免疫力が低下している時にかかりやすいと書いてある。
 来てまだ一カ月とたっていなかった。
 一日でも早く元気になってほしくて、母もわたしも、初めはのんきにしていた父も、それぞれのやり方でお祈りをした。
 遊びにきていた子供たちも、のりたまの様子がおかしいことに気がついた。二階の部屋にいると、外からのりたまを心配する声が聞こえてきた。あひる小屋を囲んで名前を呼びかけたり、お見舞いの花を摘んできて、小屋の前に置いて帰る子もいた。
 母はお祈りに一時間近く費やした。
 それなのに、のりたまは日増しに衰弱していった。
 ある日の夕方、授業を終えて一番乗りでうちへ来た男の子が、
「のりたまっ」
 と叫んだ。わたしはその叫び声に驚いて、思わず勉強の手を止めて二階の窓から顔を出した。
 男の子はギョッとした顔でこっちを見上げたまま動かなくなった。縁側から出てきた母が、どうしたの、と声をかけるとまっすぐにわたしの顔を指差して、
「人がいる」
 と言った。娘よ、と母がこたえた。
 わたしが小さくおじぎをすると、向こうも同じように頭を下げた。
 もう一度、母がどうしたのと聞いた。その子はハッと我に返ったような顔をして、あひる小屋を指差すと言った。
「のりたまがいない、いなくなってる」
 母は落ち着いた調子で言った。のりたまはね、さっきおとうさんが、病院に連れていったのよ。
 そうなのだ。その日、わたしが昼前に起きて下へ降りた時、すでに小屋はからっぽだった。父が市内の動物病院までタクシーで運んでいったと母から聞かされていた。
「元気になったら帰ってくるからね。ごめんね」
 母がそう言うと、男の子は残念そうに帰っていった。
 それからしばらくの間、お客さんはパッタリ途絶えた。あひるのいない我が家には誰も用事がないのだった。家の中は、以前のように静かになった。
 のりたまがいなくなって二週間がたった日のお昼過ぎ、昼食を食べ終えたばかりで眠たいのをガマンしながら午後の勉強を始めようとしている時、のりたまは突然帰ってきた。
 見慣れない一台の黒のワゴン車が我が家の敷地に入ってきて停まると、作業着姿の男が運転席から降りてきて、庭にいた父と母に「コンチワーッ」と挨拶をした。それから後部座席のドアを開けて、中から正方形のケージを降ろした。
 男がカシャンカシャンと手際良く留め金を外して、ケージの扉をスライドさせると、中からのりたまが出てきたのだった。
 のりたまが帰ってきた! わたしは慌てて階段を駆け下りて庭へ出た。
 作業着姿の男はあひるの扱いに慣れているのか、のりたまは男の言うことをよく聞いた。ひとしきり庭をぺたぺた歩いたあとに、病気になる前と変わらない足取りで、男に促されるまま小屋の中へ入っていった。それを見ていた父は、「よし」と満足気にうなずいた。
「おかえりのりたま」
 わたしは小屋の金網に顔を寄せて、声をかけた。病み上がりのせいか、以前と比べて胴回りがほっそりとして、全体的に小さくなっていた。
 こんなに小さかったっけ、と思った。
 体のサイズだけではない。しばらく観察していると、ほかにも気になるところが見つかった。
 たとえば真っ白に光り輝く羽根。わたしの記憶が確かなら、入院する前ののりたまの羽根はもう少し黄ばんだ色をしていたような気がするのだ。愛くるしい黒い瞳にしてもそうだった。のりたまの目は黒より灰色に近い色だったような気がする。
 決定的なのはくちばしだった。黄色いくちばしの向かって右はしに、墨汁を散らしたような黒いしみがついている。これはのりたまにはなかった特徴だ。
 おかしい。
 これはのりたまじゃない。
 わたしは隣りに並んで立っていた父と母の顔を見上げた。
「どうしたの?」
 父と母の声が揃った。二人とも、不安気な目でわたしを見ていた。
 のりたまじゃない、という言葉がのどまで出かかった。本物ののりたまはどこ行った?
 でも、何も聞けなかった。父と母が緊張した様子で、わたしの次の言葉を待っているのがわかったからだ。
「べつにどうもしない」と、わたしは言った。

 のりたまが元気になって帰ってきたという噂はすぐに子供たちの間に広まった。すると、我が家は再びにぎやかになった。子供たちは代わるがわるにやって来て、
「のりたまおかえり」
「元気になってよかったね」
 と、あひる小屋に向かって話しかけた。
 みんながのりたまの復活を喜んでいた。
 父は庭へ出ると、珍しくあひる小屋のカギを開けてやった。再会を喜ぶ子供たちに、自由にのりたまの体をさわらせてあげようというのだ。
 帰ってきたのりたまは元気いっぱいだった。子供たちは逃げ惑うのりたまを追いかけ回した。とうとう庭のすみで挟み撃ちにあい、捕まってしまうと、グエーッと鳴いて大暴れした。それでも無理矢理抱っこしようとする子供の腕と顔を、つややかな羽根で容赦なくバシバシはたいた。
「いてて、やめてくれー」
 と、のりたまに顔を叩かれながらも、子供たちは嬉しそうだった。
 違うあひるだと気づいた子は、なぜかひとりもいなかった。たしかに日ごろから観察していないと気づかない程度の、わずかな違いではあるのだけれど。
 父は一カ月ぶりにのりたまの写真を撮った。病気が治り、すっかり元気になりました、という内容の文章を添えて新井さんに送った。新井さんからはすぐにお礼の手紙とお菓子が届いた。
 あひる小屋がからっぽになっていたあの二週間がよほど寂しく感じられたのか、再び子供たちが我が家の庭先に集まるようになると、父と母は以前にも増して彼らをもてなすようになった。
 母は揚げ物をしている最中でも、庭先に人の気配がすると火を止めて表へ出て行き、「いらっしゃい」と笑顔で子供たちを出迎えた。縁側に呼んで、冷たい麦茶をふるまったり、帰りにはアメやバナナを持たせたりした。
 父はのりたまと遊ぶ子供たちの姿を何枚も写真に撮り、アルバムにおさめたり、本人に配ったりした。また、あひる小屋の金網のところにS字フックを引っかけて、そこに小屋のカギを吊るしておくことにした。そうすれば、いつでもだれでも自由に小屋のカギを開けて、のりたまを水浴びさせたり散歩させたりすることができる。
 おかげで今度ののりたまは運動不足に陥る心配がなかった。わたしが水浴びをさせようとしてあひる小屋の扉を開けても、昨日の遊び疲れがまだとれていないのか、気だるそうに首をわずかに動かすだけで、立ち上がろうともしない日すらあった。
復活してひと月しかたっていなかった。初日の時に見せたような活発さを、のりたまは早くも失くしてしまった。

>>第3回
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ご購入&試し読みはこちら▶今村夏子『あひる』| KADOKAWA

◎解説もお楽しみいただけます。
 ▷今村夏子は何について書いているのか(解説:西崎憲)
※物語の内容に触れております。ご注意ください。


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