祝!令和初の芥川賞
今村夏子作品試し読み!
今村夏子さんが『むらさきのスカートの女』(朝日新聞出版)で第161回芥川賞を受賞されました。これを記念して、カドブンでは今村さんの代表作『あひる』(角川文庫)の試し読みを3日連続で公開!
読みやすいのに心のざわつきが止まらない今村作品の魅力を、是非体験してみてください。(第1回から読む)
>>第2回へ
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子供たちは、元気のないのりたまを無理に引っぱり出すようなまねはしなかった。のりたまが動こうとしない日は、あひる小屋の前に座り込んでおしゃべりを楽しんでいた。お尻が汚れないようにと母が貸した敷き物は、わたしが小学生のころに遠足へ行く時に使っていたものだった。勉強の合間に、二階の窓から下をのぞくと、黄色い敷き物に描かれた赤い星の模様がくっきり見えた。ふとおしゃべりの声が止んで静かになったなと思い、もう一度のぞいてみると、全員ひざの上にノートをひろげて、敷き物からはみ出ないよう窮屈な姿勢をとりながら、黙々と宿題をしているのだった。
ある日、父が運動靴を履いたまま縁側の廊下に腹這いになって宿題をしていた男の子に注意をした。父はその男の子に、靴を脱いで家の中へ上がりなさいと言った。そして、目が悪くなるといけないから、これから宿題をする時はこの部屋を使うようにと案内した。そこはいわゆる客間で、弟夫婦が来た時に寝泊まりする部屋でもあった。大きくて低いテーブルと座布団と、エアコンと扇風機と、小さなテレビも置いてある。
早速、次の日から子供たちのうちの何人かは、学校帰りに一旦我が家に立ち寄って、客間で宿題を済ませてからそれぞれの自宅へ帰っていくようになった。
家の構造によるものなのか、一階で宿題をしたりおしゃべりをしたりする声は、わたしの部屋にそれほど響いてはこなかった。庭先でのりたまとわいわいがやがややっている時のほうが、はるかににぎやかに感じられた。「おまえふざけんなよ」とか「ヤッター」とか、子供は突然大声をあげることがあるので、そういう時は驚いたけれど。
声の感じからすると、部屋で宿題をする子たちは大体いつも同じ顔ぶれで、割合高学年の子が多いようだった。彼らが帰ったあとは台所の流しに置かれた洗い桶の水の中に、汚れたグラスが六、七個浮いている。わたしはまずそれらをきれいに洗い、そのうち一個を手に取って、麦茶を飲むために冷蔵庫を開けるのだけれど、麦茶の容器の中身はいつも五ミリくらいしか残っていなかった。
母は毎朝せっせと大量の麦茶を沸かした。しかしそれでも間に合わなくて、コーラやオレンジジュースやポカリスエットも買って冷やしておくようになった。
子供たちが帰ったある日の夕方、わたしは残ったポカリスエットをあひる小屋の水入れに注ぎ、のりたまが口をつけてくれるかどうか見守った。ただの水よりスポーツドリンクのほうが体内に吸収されやすいとテレビで言っていたからだった。
「おいしいよ。ひと口だけ飲んでごらん」
だめだった。
ひと口も飲まなかった。
思い起こしてみると、活発で食欲旺盛なのりたまの姿を見ることができたのは、復活してから最初の十数日間だけだった。ある日ぱたりとものを口にしなくなってしまった。遊び疲れているのだろうと思って、そっとしておいたけれど、翌日になっても餌どころか飲み水さえ減っていないのだ。食欲減退、行動が鈍くなる、呼吸が速い……。原因は環境の変化やストレスによって免疫力が低下すると引き起こされやすくなる呼吸器系の炎症であることは、本を読み返さなくても覚えていた。
朝、いつものようにのりたまの様子を見にいくと、小屋の中がからっぽになっていた。
「お父さんが病院連れてったよ」
小屋の前でぼんやり突っ立っていたわたしに、洗濯物かごを抱えた母が縁側から声をかけた。
「昨日の晩にね」
と、わたしと目を合わすこともなくそう付け足すと、部屋の中に入っていった。
うちに来てようやく三カ月がたとうかというころだ。のりたまは再び姿を消したのだった。
そして十日後のお昼すぎに突然帰ってきた。
前回とまったく同じワゴン、同じ運転手だった。
今回は観察するまでもなかった。目にした瞬間、明らかに太りすぎだと思った。
ケージの中がよほど狭くて息苦しかったのだろう、外へ出た途端に、グワグワと抗議でもするかのように、低い声でよく鳴いた。
一枚一枚の羽根が大きく、濡れたような艶があった。くちばしの黄色が濃くて、オレンジに近い色をしていた。なかなか小屋へ入ろうとしないので、父が餌を撒いて誘導しようとしたが、入口の手前まで来た途端に、体の向きを変えてしまった。
結局、作業着姿の男の手によって胴体をがっしりと挟まれて、強制的に小屋の中へ投げ入れられた。狭い小屋の中を落ち着かない様子でしばらくべたべたと歩き回っていたが、母が餌箱に輪切りにしたバナナを投入すると、やがて静かに突っつき始めた。
「食べた食べた」
父と母は声を合わせてそう言うと、家の中に戻っていった。
あひる小屋がからっぽになっていた十日間、我が家は、前回の二週間ほどには、静まり返ることはなかった。
のりたまに会いにくる子はいなくても、学校帰りに宿題をしに立ち寄る子供がいたからだ。家の中には常に人間の気配があった。
長らく菓子類を置かなくなっていたうちの台所に、甘いものを仕舞っておくスペースができた。弟が中学校時代の健康診断で糖尿病予備軍と診断されるまでは、食器棚の一番下の引き出しがお菓子の段と決まっていた。今はそこは未開封の調味料を保存しておく場所になっているので、買ってきたお菓子は電子レンジの上のかごの中に納められた。
父が酒屋で適当に選んでくるお菓子は、大体いつも決まっていて、おまんじゅうかカステラかあられだった。次第に子供たちも飽きてきたらしい。ある日、のりたまの餌箱の中に、セロファンにくるまれたままのおまんじゅうが四つも入れられているのを発見した。慌てて回収したが、興味のないお菓子はのりたまの餌箱行きとなるおそれがあるので、気を付けていなければならなかった。
わたしは品揃えの良いスーパーまで足を延ばし、子供たちの気に入りそうな流行りのお菓子を調達してはレンジの上のかごの中に補充しておくようにした。よかれと思って買ってきた小魚入りのチップスは人気がなかった。新発売の占い付きのチョコレートクッキーは自分用のと合わせて三袋買っていたものが、あっというまになくなった。父と母と三人で、家中のあちらこちらに散らばった大吉や凶と書かれた包み紙を拾い集めた。わたしが一番最初に廊下で見つけて拾った包み紙は「吉」だった。「吉」の横に、キミが困った時にはきっと誰かが助けてくれるヨと書いてあった。
今度ののりたまはなんでもよく食べた。放っておいたら投げ入れられたゴミまで食べてしまいそうだった。元々太っていた体は、日を追う毎にさらに丸くなっていった。
食べすぎもそうだが、運動不足も原因のひとつだった。以前のように子供たちが頻繁に散歩に連れ出したり水浴びさせたりということは、ほとんどなくなっていた。父がテレビゲームを買ってきたのをきっかけに、子供たちの興味の対象は、そっちのほうへと移っていったからだった。
運動をしないのりたまの足の裏にこぶができた。
その日、わたしは正午近くにカレーのにおいで目が覚めた。パジャマ姿のまま、においに誘われて下へ降りると、母がカレー鍋をかきまぜていた。わたしが平皿にご飯をよそい始めると、振り向いた母がカレーはだめよ、と言った。
「これは誕生日会用だからね。ゆうべのおでん食べちゃって」
誕生日会?
「誰の誕生日会?」
よく見ると台所のテーブルの上にはカレーのほかに骨付きのからあげや大量のポテトサラダ、クッキーや果物、すしおけまで出ていた。
冷蔵庫の中には巨大なケーキの箱があり、母の目を盗んでふたを開けてみると、ホワイトチョコレートのプレートに、おたん生日おめでとうとチョコの字で書かれていた。
(このつづきは本編でお楽しみください)
ご購入&試し読みはこちら▶今村夏子『あひる』| KADOKAWA
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◎解説もお楽しみいただけます。
▷今村夏子は何について書いているのか(解説:西崎憲)
※物語の内容に触れております。ご注意ください。
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