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試し読み

“NHK「逆転人生」に登場した奇跡の名店”をめぐる感動の実話小説『蒲田 初音鮨物語』第1章試し読み

客もまばらな潰れかけた場末の寿司屋で、中治勝は一人奮闘、空回りをしていた。
そんな折、妻がガンに倒れ、余命宣告を受ける。勝がすべての我欲を捨てた時、奇跡が始まった……
NHK総合「逆転人生」での放映を記念して、第1章の特別試し読みを実施する。


客足もまばらで、つぶれかけていた
場末の鮨屋すしや蒲田かまた 初音鮨はつねずし」。
それが突然、“世界中から予約が入る名店”として
名を馳せるようになった背景には何があったのか?

「5年後の生存率は、10%以下」
――当初は「銀座の名店に負けたくない」とばかり、
競争・闘争の世界にいた鮨屋のオヤジが、
妻の余命宣告と闘病をきっかけに、
店を大きくする野望を捨て、

利益もこだわりもすべて捨てて、
ただ妻とお客のためだけに
鮨を握りはじめた時――

これはある鮨屋夫婦に起きた
小さな奇跡の物語。


 第一章 どこか捨て身な市井の鮨屋


「ではみなさま。ご来店ありがとうございます」

 そう親方のかつが挨拶すると、その妻で女将おかみのみえ子が、さらしをしいた上にまだ湯気が見える炊きたての銀シャリ(白飯)を盛ったざるを持って、ツケ場(鮨屋のカウンターの内部)へと入ってくる。

 勝は、待ってましたとばかりに「いま、ちょうど炊きたてのご飯を酢飯にして参りましたので、みなさんにシャリの出来を、まだ赤ん坊の状態から見ていただこうと思っております。お懐石では一文字いちもんじごはん”なんて言ったりしますが、あなたのためにこの炊きたてをご用意いたしました」と語りかける。
 “何よりもシャリが大切”。そう言う鮨屋のオヤジは多いが、本当に羽釜はがまで炊いたばかり、酢を落としたばかりの酢飯を持ってくる鮨屋はまず無い。炊きたての飯に大量の酢を投入した直後は、揮発する酢が鼻を刺激しすぎるからだ。
 しかしこの店の親方は、まったくそんなことを気にする素振りも見せない。
「先ほど、赤ん坊なんて言いましたが、このあと温度が下がるにつれてシャリの粒が立ってしっかりとしてきます。そこからさらに温度が下がり、徐々に枯かれていくさまを楽しんでいただきたいのですが、ちょうどその中間、働き盛りの頃に、中トロを合わせていきます。この時のシャリは、もう少しバラけが良くなって、酢もしっかりとした味わいです。最後の枯れる直前には、鉄火とかんぴょうをパリッとした海苔と合わせて、召し上がっていただきます」
 温かく、酢を振ったばかりのシャリ。生まれたての赤子のように温かく柔らかいその触感が変化していくさまをお客たちの脳裏に浮かばせながら、そこにどんなネタを合わせていくのか、想像をかき立てる。
「では本日、およそ2時間半のおつきあい。精一杯、つとめさせていただきます。よろしくお願いいたします」
 勝が前口上を語り終えると、そこからは師匠が愛弟子に教えるように、おいしさの秘訣,をひとつひとつ、お客にやさしく語りかけながら蒲田初音鮨の舞台の幕が開く。その先は、他のどんな鮨とも似ていない、親方・中治勝だけの鮨劇場、初音ワールドが怒濤のごとく続いていく。
 ある日の最初のネタは、その日に久里浜くりはまで揚がった3・5キロの地ダコの雌。
「しっかりしたアンヨ。茹で上がった足を見るだけで、それが雌だってわかる。なにしろこのライン、“セクスィ~”でしょ。おっ?わかります?お客さん、セクスィ~担当ですね。このタコ、なにより香りを楽しんでください。“タコの香り”。みなさん、あまり意識したことがないでしょう?香りを楽しむには熱すぎてもダメだし、冷たすぎるともっとダメ」
 そう話しながら、あっという間にネタに包丁を入れ、整えていく。
「みなさん、このタコ、夏が旬だってご存じです?砂地でハナジャコとか甲殻類を好んで食べて、初夏になるとワタリガニが渡ってきますから、これを地ダコが食べると、タコが最高にうまくなる。ところが近年は冬でも黒潮が蛇行して、江戸前の水温が上がってくる。ほら、エルニーニョだかラニーニャだか、突破力のあるサッカー選手みたいな名前のヤツのおかげでね、真冬だってのに3・5キロの質の高いタコが揚がってくる」
 整えたネタを並べたお皿を手に持ち、勝は続ける。
「ほら、お皿の底を触ってください。気持ち良くなるぐらいの温かさ。その温もりを、炊いたばかりのシャリの温度と合わせて、召し上がっていただきます」
「しかし、その前に。うちのお店、ちょっと変わったところがありまして、みなさんもうお気付きかと思いますが、まずは“オヤジがよく喋る”。だいたいのお客さん、これ言わなくても、1分30秒ぐらいで気付く。タクシーの運転手さんにもいるでしょう?やたら喋るオヤジ、本当に前見て運転してるのかな?と心配になる人もいるぐらい。そうかと思えば、何を話してもウンともスンとも言いやしない。『聞こえてますか!?』『聞こえてますよ!』と返事するような人もいる。なかなかちょうどいいって塩梅の人には当たらないもんで」
 笑いの沸点が低い客だと、なおさらに勝の舌は回り始めるが、すべては最高の食事でもてなす脚本の中に組み込まれた流れ。その日の客の構成、雰囲気を読み取り、カウンターに並ぶ8人の興味を惹きながら、最後は食の話題へと引き込んで、一体感をもたらす。
 お客たちから笑顔を引き出し、息つく暇もなく新たなる興味を惹くその話術。初めて勝の喋りに接したお客は、その滑らかな舌から生まれる言葉を心地よく感じつつも、その言葉の深さを少しずつ感じ始め、そして圧倒されていく。
「さて、もうひとつ変わったところ。みなさん、手のひらを上に向けて、人差し指と中指を伸ばしていただき、その上にワタクシが鮨を乗せる。それが初音の手乗り鮨。親指を添えてちょこんとかわいく乗ったお鮨を、そのままひっくり返しながら、天井を見上げて“あ~ん”と口に入れ、舌の上にネタが乗るように。すると、まずはタコの温度感がわかりますね。“なるほど、このオヤジはこのぐらいの温度感がいい塩梅だって考えているんだ”と感じることができる。鮨を握るオヤジと、食べる客。そのコンセンサス、意思の疎通が図れるわけでございます」
 そう話しながら一貫目を握り、そこに酢橘すだちを搾って落とす。
「そして、そのまま舌の上で3秒、気の長い人で5秒。すると酢飯と反応して、口の中に“ジュワッ”と唾液が出てきます。みなさん、ここで唾液の酵素、酢飯、そして鮨ネタを噛んで一体にすることで旨味を引き出し、口の中で料理として完成させてもらいます。“半完成品”を手渡しますので、最後の調理はぜひご自分のお口の中で完成させて、楽しんでください」
 そう話し、いつもカウンターにひとりはいる常連さんに、最初の“お手本”を見せてもらうのが、毎晩くり返される初音の恒例行事。ここ蒲田初音鮨は、お客たちにエンターテインメントを提供するとともに、鮨職人としての勝が持つ、あらゆる知識、握る鮨に込められた創意工夫をあからさまに伝える場でもある。それは勝にとって極めて大切な儀式なのだ。

    ※    ※    ※

 曽祖父から続く、この初音鮨。
 勝は幼少期から祖父、父が握る鮨を、(お客さんにそうすることを求めるのと同じように)手に乗せてもらって食べてきた。醤油もつけず、手に渡された鮨を食べていると、子どもながらに素材の味、素材を活かすことの大切さ、温度の違いによる味わいの違い――いろいろなものを感じることができた。
 この手乗り鮨。実は、明治26年から続く初音鮨の伝統である。
 江戸時代からある日本を代表するファーストフード「鮨」。初音の歴史も、立ち食いから始まっている。みんなで立って食べていると、「ちょいと俺にも食わせな」と隙間に人が横入りしてくるような中では、一貫ずつ握ってカウンターに置いてもいられない。舗装もされていない砂利道で、ひとつひとつの鮨を昔はみな手渡しで食べさせていた。
 勝が大人になって幼少の頃の記憶を引っ張り出してみると、あの手渡しが一番うまかった。何も言わずとも、温度、握りの具合、様々な要素がそのまま手から手へと伝わり、口の中で“ほどける”感覚も正確に思い出せる。
 温度と食感を通じて鮨の味を高めたい。そんな想いをお客さんにダイレクトに伝えたい。初音鮨の伝統を受け継ぐだけでなく、客たちにもっと“鮨のおいしさ、奥深さを味わってほしい”――そう願う中で行き着いたのが、「自分が幼い頃から受け継いだやり方を踏襲し、お客さんに伝えていこう」という考え方だった。
 面白おかしく、とめどなく喋り続ける勝のトーク――気をつけていなければ気付かないだろうが、よくよく気をつけて聞いてみると、(時折のぞかせる女将さんへの愛情表現を除く)時間のほとんどを、お客さんに食べてもらう鮨のネタ、握り方、調理方法などの解説に費やしているのがわかる。
 世界一と自信を持って言える素材を届けてくれた漁師たちへの敬意、そして、その素材をいかにして最高の状態で届けようとしているのか――勝は、自分が握る鮨に込めたそうした想いをお客に伝えるだけなく、鮨という料理の「伝統」「独自にあみ出した工夫」を客たちに伝えることで、何度も足を運ぶ客たちを“もっと口うるさい客にしよう”としているのだ。
 そうすることで、曽祖父の時代から続いたこの蒲田 初音鮨の“伝統”と“わざ”を、余すことなく伝えられる――一聴すると冗談ばかりの面白オヤジだが、しかし、その心は、その計算された完璧な鮨の“伝統”と“業”、それに女将とふたりで作り上げてきた自分たちが持つすべてをお客たちに伝えることにある。

    ※    ※    ※

 蒲田 初音鮨があるのは、東京23区の中で最南に位置する大田区。その区内にある「蒲田」は、羽田空港にほど近い、湾岸にある街だ。
 蒲田駅には大きな商業施設が一体化され、その駅前地区を中心に、賑やかな繁華街が広がっている。
 多くの人が集まり、自然に様々な娯楽・風俗が生まれた街――ここ蒲田は、大田区の心臓部である。
 いっぽうで蒲田には、“場末”という言葉がしっくりと来る。独特の、他の東京の街にはあまり感じられない空気を感じさせる街でもある。
 やや暗い街灯の中に居酒屋や風俗店の看板が並ぶ様子。さらに奥に進んでいくと少しばかり寂れた商店街――脳裏に浮かぶ蒲田にはまた、そんな裏ぶれた表情がある。
 その蒲田も、かつては華やかさに包まれた活気のある街であった(今はその名残しかとどめていないが)。
 蒲田と言えば、有名なのは『蒲田行進曲』だろう。
 JR蒲田駅で列車が発車する際に流れるそのメロディー。深作欣二きんじ監督が1982年に大ヒットさせた同名映画における、松坂慶子、風間杜夫もりお、平田満の三人の歌声を脳裏に甦らせ、思わず口ずさみそうになる人もいるはずだ。
 しかし、そのオリジナルは、1929年の松竹映画『親父とその子』で使われた川崎豊と曽我そが直子のデュエット曲である。それは、欧州で上演されていたオペレッタの曲に、堀内敬三が日本語の歌詞を付けたものだった。
 この楽曲『蒲田行進曲』を元に作られたのが、天才的な劇作家“つかこうへい”の戯曲『蒲田行進曲』であり、その脚本を映画向けにアレンジし、深作が監督したのが1982年の映画『蒲田行進曲』だった。
 この地、蒲田をテーマにした楽曲が、戯曲、映画としてリメイクされ、全国的な大ヒットとなっていった理由のひとつは、ここ蒲田が、かつては日本のハリウッドとも言える“映画の街”だったからでもある。
 無声映画時代、歌舞伎興行から派生して映像作品を作って発展した「松竹キネマ」(現・松竹)。その松竹キネマが、現代劇を撮影するスタジオとして1920年(大正9年)に開所したのが、現在の蒲田五丁目にあった「松竹蒲田撮影所」。
 松竹キネマは、ハリウッドから映画技師を招き、専属の男優・女優によるスター・システムを構築し、黎明期だった日本の映画産業を牽引する。蒲田は、比喩などではなく、まさに日本のハリウッドという表現がぴったり当てはまる土地だったのだ。
 大スターの男優と女優、そこに大部屋の貧乏役者が絡む『蒲田行進曲』の脚本は、“つか”が見て、感じていた蒲田という街の日常でもあったのである。
 その松竹蒲田撮影所は、1936年(昭和11年)に閉鎖されることになる。太平洋戦争が終結する9年前のことだ。
 それまでの日本は、欧米列強からの圧力を感じつつも、まだ平和を楽しんでいたが、1936年の1月に日本はロンドン海軍軍縮会議から離脱、さらに翌月には2・26事件が勃発している。そうしてその後、1937年の盧溝橋事件から日中戦争、太平洋戦争へと向かっていくのだが、松竹蒲田撮影所が閉鎖されたのは、そうした時代背景を受けて、蒲田が工業地帯へと変貌していった影響でもあった。
 1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災前のこの街は、(芝、高輪、田町周辺の埋め立てから始まった)東京臨海部に広がった工業地帯に対して、部品などを供給する町工場の拠点としての役割も担っていたが、大震災を契機に、多くの工場が川崎、横浜方面に規模を拡大し始めると、東京湾の工業地帯は、中心地域が西へ西へと移動していく。だが、蒲田の役割は変わっていかなかった。
 そして迎えた太平洋戦争で、この京浜工業地帯はアメリカの空爆により壊滅的な打撃を受け、蒲田も例に漏れず焼け野原となるが、蒲田を救ったのもまたアメリカだった。
 朝鮮戦争の勃発とともに、町工場は再びその稼働率を上げていき、間もなく戦前と同じように栄え始め、またたく間に発展していく。
 そのうち、高度成長期における京浜工業地帯の急激な発展に、用水供給などのインフラが追いつかなくなり、渋滞や地価高騰、人件費高騰といった問題を抱えるようになると、昭和30年代後半からは大きな工場が地方へと移転し始め、工場の街としての蒲田は寂しさを感じさせるようになっていった。
 こうして中小企業の経営者と町工場の労働者を中心に発展してきた蒲田の街は、今や、小さな商店と居酒屋、それに風俗店が入り組んで併存へいぞんする街となり、雑多な空気感を生む場所へと変わったのだ。
 この街が放つ「東京の中心部とは異質」だと強く感じさせる匂いの背景には、こんな歴史があった。

    ※    ※    ※

 さて、そんな蒲田の街。JR蒲田駅西口から続く細い道沿いは、ほんの少し前まで、(駅の真反対にある、再開発が進んだ)京急蒲田駅側よりもずっと古い、昭和の風情を残すエリアだった。
 良い意味でも悪い意味でも“蒲田らしい雰囲気”を色濃く残してきたのが、この「西蒲田」であり、現在も、そこにはその面影がうっすらと残っている。
 西蒲田の雑多なエリア――計画的な街づくりは駅前だけで、あとは身勝手に発展してきたようにしか見えない地域に、それまでの風景が嘘だったかのように、急に広々と見通しが良くなる場所がある。
 それはちょうど、日本工学院専門学校・蒲田キャンパス3号館のあたり。そして、その校舎とは道路を挟んだ反対側に、つたつるが美しく絡みつき、壁におしゃれな「HATSUNE」の文字が施された鉄筋の建物がある。
 その外観には、見事に和を感じさせる風情が盛り込まれ、玄関口とは別の方向には店舗への入り口が配置されている。
「再開発の進行は、街の空気を大きく変えていくものだ」と思いながら通りすぎることなかれ。実はこの建物、周辺の開発とはまったく関係なく、ずっと以前から蒲田という街を見続けてきた店なのである。
 周囲の雰囲気とは異なる外観を持つこの店の存在を、周辺の住民はどう思っているのか?
 夏祭りに集まった蒲田の住人たちをつかまえてみると、「ああ、あのお店ね。そう、私なんか行ったことがないんだけど、なんだか“ものすごく高い、、お寿司屋さん”らしいわよ」とのこと。
 およそ蒲田にあるとは思えない、なぜか和洋折衷の、しかし、破綻することのない雰囲気を放つその建物は、蒲田に住む者も噂にしか知らないという、超人気で予約が取れない謎の鮨屋。
 この鮨屋こそが、冒頭でご紹介したこの本の舞台、「蒲田 初音鮨」なのである。

    ※    ※    ※

「いくら人気の高級鮨店と言ったって、所詮は蒲田だろ?」
 口に出さなくても……いやいや、実際に言葉にして「品川の関所を越えた先に、うまい鮨なんかあるはずがない」と真顔で話す自称グルメは少なくない。
 東海道五十三次。日本橋を出て品川までは“お江戸”だが、同じ武蔵の国とは言え、品川の関所を越えるとその先の宿場は川崎。その間の中途半端なところで、“江戸前”を気取っただけなんてところの鮨なんかロクなもんじゃない。“江戸前”の土地で勝負できない職人が、うまい鮨なんか食わせるわけがないからねぇと、食通のなかには言葉がすぎる者だって出てくる。
 東京には多くの鮨屋がひしめいているが、その多くは銀座、あるいはJR山手線の内側、南部のどこかの駅に近い、、、、場所に店舗を構えている。銀座以外の土地にもおいしい鮨屋は山ほどあるが、隠れ処と言ったところで、本当に隠れているわけではない。大多数は山手線を中心とした大都会・東京のイメージそのままの場所に位置している。やや中心から離れた名店も、決まって、豊かな人たちが集まる地域にあるものだ。
 “伝統”が業の伝承であるとともに、より良い業・味に出会うための確率を高めるものだと考えるならば、たしかに蒲田にうまい鮨、それもグローバルに認められた、海を越えてお客がやってくる鮨屋が生まれる確率なんてほとんど無い、と考えるのも無理からぬことだろう。
 いっぽうで、「銀座だろうと地方だろうと、新鮮で質の高い材料と腕のいい職人がいれば、どんな場所だってうまい鮨はできる。鮨の味が場所で変わるはずもないだろう?」という者もいる。「それが証拠に、全国津々浦々、魚のあるところ、人が集まるところには、食通を惹きつける鮨の名店があるではないか」と。
 しかし、それは海に囲まれた日本という国のいたるところに、良い魚が水揚げされる港や、そうした港から質のいい魚が集まる魚市場が数多く点在するからにほかならない。
 東京ならば築地つきじ(移転した現在ならば豊洲とよす)、横浜ならば本庄。人が集まる都市の近くには大きな魚市場があるが、蒲田という場所は、その間に挟まれた工業地帯で、鮨の名店を成立させるにはやはり困難が伴う。
 すなわち東京から横浜を結ぶ地域において蒲田に店を構えるということは、良い鮨を作り出すために不可欠な素材調達面での不利を“受け入れる”ことにほかならない。
 だからこそ、ここ蒲田において“高級鮨屋”を成立させているところに、まずは蒲田 初音鮨のひとつめの凄さがある。
 そして、蒲田で高級店を成立させるにあたっての困難は、もうひとつある。「うまい店は、どこの土地にあっても、うまいものだろう」と外野は簡単に言いがちだが、多くの人は物事を判断する時、ブランドをよすがとしている。それは、自分が感じる価値観に絶対的な自信が無いから、というのも理由のひとつだろう。また、あらゆるものに対して、(ブランドに基づかず)絶対的な価値を見極めようとすると時間も手間もかなり要する、という理由もあるかもしれない。
 だからこそ多くの人々が、様々な部分でブランドを追い求め、ブランドを選ぶことで手軽に安心感を得ているのだ。話を料理店に置き換えるならば、その料理店のある“土地のブランド力”に価値を感じる者は多い。良い悪いではなく、“そういうもの”なのだ。
 では、なぜ、“場末の街”とすら呼ぶ者もいる蒲田の、さらに駅からも離れた小さな鮨屋に、一人あたり4万、5万という大金を支払う大勢の食通たちが集まり、さらにはそんな客が、どんどん増え続けているのだろうか?

 ひとりの弟子も持たず、仲居も置かず、夫婦ふたりだけで洗濯・掃除・仕入れに仕込みをこなす市井の鮨屋。
 そんな蒲田 初音鮨は、鮨には一切の隙を感じさせないにもかかわらず、客にはゆったりとした心の余裕を感じさせ、緊張する客がいれば解きほぐし、笑顔を引き出してから、味の絶頂感へと導いていく。
 客はにこにこ、ほっこり、温かみを感じるのに、鮨のほうは、ゆるぎなく完璧――名人と讃えられる職人の店は数あれど、ここまで“ゆるい”、リラックスできる空間と、研ぎ澄まされた鮨のコントラストを楽しませる店が、他のどこにあるというのだろうか?

 そこでさらに謎は深まる――そんな名店が、なぜ、あえて様々な困難を伴う蒲田にあるのか?
 実は、このふたりが通ってきたわだちを調べ、「なぜ蒲田にあるのか」といった秘密を探ってみれば、多くの人の人生を大逆転に導き、事業や商売、そして人生を、成功へと導く数多くの知見が詰まっているとおわかりいただけるだろう。
 夫婦ふたりのある決意が、多くの奇跡を呼び、最悪とも言える時期を迎えた市井の鮨屋に、大逆転の幸せな時間が呼び込まれたという必然――人と人とがつながることで生まれる友情、そして夫婦が互いを想いあう気持ちが生み出す大きなエネルギー。
 そのプラスのスパイラルをたぐり寄せる普遍的な成功の方程式が、そこにはあった。
 そしていっぽうで、鮨を味わう者を驚嘆させるこの鮨屋の仕事ぶりの背後には、隠された悲しい真実があった。

    ※    ※    ※

 今やレストラン業界で知らぬ者がいない蒲田 初音鮨。
 1日で8席×2回転、計16人しか楽しめないその舞台へのチケットを入手すべく、何度も、何度も予約の電話を入れた人は数知れず。しかし、つながったと思っても、その先に聞こえてくるのはいつも「予約は翌年末までいっぱいです」というお詫びの留守番メッセージ。
 営業方針は、その年ごとに決めている。よって当初は、“翌年の予約は取らない”と決めていたが、その予約があっという間に埋まってしまい、お店に食べに来た客でさえ、次の予約を取ることができないありさま。それで翌年までの予約を受けることにしたのだが、それもあっという間の完売。
 1年の営業日、1日の回転数、1回転の人数――それぞれに限りがある。幻とも思える蒲田 初音鮨の予約は、美食家たちにとってもあこがれの的だ。
 しかし、この蒲田 初音鮨。まったく同じ場所、同じ親方が握っているにもかかわらず、ほんの数年前まで……正確には2015年の夏ごろまで……は、誰でも簡単に予約が取れる、いやいやそれどころじゃない、赤字続きで火の車、今日を最後に商売をやめてもいいように身辺を整え、それ故にふたりだけで営業する“明日をも知れない”店だった。
 蒲田 初音鮨は、『ミシュランガイド東京2009』――すなわち、都心から外れた大田区蒲田をもその対象エリア内に入れた最初のミシュランガイド(日本発売のミシュランガイドとしては2作目)からずっと、ふたつ星での紹介をされ続けている。2008年11月から、いちの間をあけずに、2018年11月まで毎年、である。
 しかし、その事実をもってしても、また、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの勝の業をもってしても、2015年の夏までは、わざわざ都心から離れた蒲田にまで来て、しかも万円単位の高級な鮨を食べてやろうという物好きは限られていた。
 無論、勝とて、蒲田では厳しい勝負を強いられることはわかっていた。それでも蒲田に客を呼ぶのだと、歯を食いしばってやってきた。“人の流れ”は簡単には変えられない。しかし、蒲田 初音鮨の運命、中治勝・みえ子夫妻の運命は、その努力を神様が見ていたかのように、数年を経過するうちに大きく変化していった。
 今は押しも押されもせぬ名店、人気店。顧客満足度の高さで群を抜き、お店の経営も安定した。あっという間の“大ブレイク”。中治夫妻の運命、その流れが大きく変わった理由は決してひとつだけではない。

 実のところ“今現在”の蒲田 初音鮨の仕事、“流行る理由のひとつ目”は、どんな素人にだってわかる。いや、本当のところ“どのぐらい凄いか”までは想像できないかもしれないが、その凄み、異様さにはすぐに気付くはずだ。
 なにしろ、使っているネタが尋常ではなく豪華なのだ。
 いや、豪華という言葉だけでは表わせない“凄み”のあるネタが、決して一点豪華主義ではなく、最初から最後まで、もう終わりかと思えばまだ続く。あれもこれも、どこまでも続く、まさにオールスター。ただのひとつも“普通のネタ”が出てこない。
 笑顔と幸福の鮨――しかし、その背後にまとう気概、そして命がけとも言える決意が、幸福オーラの先にほんのりと透けて見える人は限られているのかもしれない。

 その季節には他に一本と見られないほどの、脂がたっぷり乗った2キロ以上ある天然の極太
うなぎ
。ゆうに1.2キロを超える巨大なあわび。きめ細かな“細胞”が、シャリシャリと舌の上に広がり、味わおうと噛みしめると、その極小の粒々が弾けるように躍り始める極上の白ウニ。あるいは淡路あわじ房州ぼうしゅう、和歌山、各地に張り巡る名人級の漁師たちが「コイツは凄いのが揚がった!」と、意中の仲買人に携帯電話で緊急の連絡を入れるほどの魚たち。
 そうしたネタが出たと聞くや、港から遠い住宅街に存在する蒲田 初音鮨の親方に、真っ先に連絡を入れてくる、漁師たちから信頼の厚い仲買人がいる。
 豊洲でも一、二を争う大手の仲卸業者・尾坪おつぼ水産で活け物をあつかってきた成川なりかわ貴大たかひろだ。
 彼は、その日一番の素材が見つかり、自らの人差し指と親指が「最高の弾力」を確認し、心の中でガッツポーズを決めると、次の瞬間には満面の笑みで勝に電話を入れる。
 今では尾坪水産の常務取締役にまでなった成川だが、まだ19歳の若造だった1994年冬頃から、これぞ最高の素材と思ったネタを見つけると、最初にぶつけると決めてきたのが蒲田 初音鮨の親方・中治勝なのだ。
 その日、その週、その季節、これこそ一番という魚は、漁師たちと強い信頼関係で結ばれた本物の目利き、漁師と気持ちが通じる数少ない仲買人が情報を得て仕入れる。
 そして、その仲買人が同じように信頼関係を結んだ料理人、「あの人に使ってほしい」と思う職人に連絡を入れる。
 良いネタを仕入れさえすれば、鮨なんてのは、どのように握ってもうまいのではないか。そんなことを考える人もあるかもしれない。しかし、その良いネタは、高い金さえ払えば誰でも仕入れられる、というわけではないのがこの世界の常識だ。
 良い魚を見る目はもちろん、魚に対する知識も、あつかい方も、そして捌いたあとの仕事のやり方も、すべて見通した上で、最高の素材をあつかってほしい。そうした仲買人の気持ちに応えられる職人にしか良いネタは渡らない。誰もが欲しがるすばらしい素材。それをあつかってほしい職人は誰なのか。
 本物の目利きの仲買人に、真っ先に思い浮かべてもらえなければ、本当にすばらしい素材は手に入らない。どんなに名のある店であっても、どんなに多くの札束を積み上げてもかなわない。
 成川は、普通ならばお目にかかることすらかなわぬ“最上級中の最上級”としか表現できない素材を蒲田 初音鮨に長年、集めてきた。
 それは“高価なネタ”を無条件で買ってくれるからではない、、、、。心の底からすばらしいと思う魚を、最高の状態でお客に提供してくれるという信頼があってこそなのだ。

 こうした、成川の貢献もあって、勝のもとには日本でも有数の最高の食材が日々、ばんばん集まってくる。それ故に、“鮨のプロ”が蒲田 初音鮨で食事をすると、誰もが抱くのが『初音さん、こんな最上級のネタを惜しげも無く大盤振る舞いするなんて、長くは(店を)やるつもりはないのかな』という印象だ。口には出さなくとも、脳裏にはきっとそう浮かんでくる。そして、浮かんできた考えは、そのうち噂になっていく。どう考えても利益が出ているとは思えないからだ。
 明日の営業、来月の営業、来年の見通しなどまったく考えていない。そもそも店を続ける気があるのか。蒲田 初音鮨を食べる同業者たちの脳裏には、そんな疑問さえ湧いてくるほどだという。
 そもそも、素材の選び方、調理の手法など、あらゆる部分で「ここから先は危険」な節度を超えている。こんな常識外な商売は、ずっとは続けられるわけがない。
 そして勝の場合、集めてくる豪華なネタは、魚介の類いにとどまらない。
 たとえば、白トリュフ。
 1キロの仕入れ値が最低でも80万円というイタリア・アルバ産の中でも最高級の白トリュフを、勝は旬の季節、11月になると握り鮨で使う。白トリュフだけではない。はも、松茸、鮎。鮨とはあまり縁が深そうではない素材を、その季節ごとの最高の時期に使うのが勝のやり方だ。
「松茸や白トリュフ。『そんなものを使うなんて、鮨屋のくせに……』と思ってる方はきっといるはずですよ。だって俺は銀座で日本料理を学んでから、ここ蒲田で鮨屋をやってる。だから“えっ?コレを鮨で使うの?”って驚く職人の気持ちが手に取るようにわかる」
 しかし、勝が白トリュフを使う理由は、豪華さを競うためではない。
 先達たちが作ってきた鮨屋の定番コース。しかし、そこから外れて、改めて現在という時間軸に置き換えた時、鮨というスタイルの中で、もっとできることがあるんじゃないか?
 勝が白トリュフに合わせるのは、ふっくらトロトロ、甘みを感じる濃厚な真鱈まだらの白子だ。本格的な秋の訪れを象徴する白トリュフ、そして冬の始まりを感じさせる真鱈の白子。このふたつが出会う11月、勝は惜しげも無く、白トリュフと白子を組み合わせた温かい鮨を客に振る舞う。
 鮨屋が白子をあつかう時、多くの場合、ポン酢や紅葉おろしを使ってつまみにするものだ。しかし、もっと良い食べさせ方はないのだろうか?
「白子ってのは、食材としてあつかう時には“たまご”の一種と考える。火が少しだけ入ってる半熟のところ、とろっとしたやつを温かいままで食べると白子の“甘み”がよくわかる!そうすると、甘みや旨味が最高潮に達するんですよ。その一番おいしい瞬間に口の中に放り込んでもらって、半熟“たまご”の甘みと旨味の調和を口の中で完成させてほしいんです」
 鮨の師匠が弟子にそうするように、ほらこんな塩梅だと手渡しされて、口の中でモグモグすると、なるほどと、意図した味の完成形を味わえる。そのためにも、冷たい白子をつまみに、あるいは冷たいままの鮨にするのではなく、一番いい味が出る温かいままを、温かさの残るシャリと一緒に食べてもらうのである。
 白子とシャリの温度を合わせ、そこに載せるのは禁断のイタリア・アルバ産白トリュフ。
 動物性の脂肪と相性のいいこの素材を、ザク、ザク、ザクッと包丁でスライスすれば、半熟のあったかい“たまご”であるところの白子と一体になって、あぁ、なんてすばらしい季節なんだと実感できる。まさに、反則級のうまさである。11月にここ、蒲田までやってきた甲斐が本当にあった。客はそう感じるに違いない。
 白トリュフを使った鮨は、蒲田 初音鮨・中治勝という職人の“ただならなさ”を象徴する一貫なのである。

 料理無しの鮨のコースだけで季節を演出するべく、勝は、季節に合わせた素材を使う。普通は鮨に使わない素材、あるいは鮨の定石からは想像できないような手法を用いた組み合わせ。そこには小さな驚きが、たくさんある。
 料理人としての経験とセンスを活かしたスペシャリテ(特別な看板料理)は、様々なジャンルの料理で生み出されてきた。勝がもし日本料理を作っていたならば、コース料理の中でそれらを表現し、素材を活かすことで季節感を表現したに違いない。
 ところがそれが鮨ともなれば、真ん中の道から外れたところに向かっただけで“変わり鮨”と呼ばれてしまう。しかし、勝の場合は、そうならないのはなぜなのか?

 たとえば、鱧を鮨のコースに組み入れるとしたら、常識的には前菜ものだ。冷えた前菜の中で八寸に盛る、あるいはおしのぎでつないだり、あるいは棒寿司ぼうずしでいただいたり。いずれにしろ、そこに温かさはない。しかし、日本料理として考えた時、自分が板前ならば、冷たくなった鱧を本当に出したいと思うだろうか?
 『鱧のおいしさってなんだろうね?』勝は自分自身に問いかける。
 あっさりした肉のスープと脂のコク。これを温かいうちにいただくのが一番。旬の時期の鱧、それも最高に肉まわりの良い鱧を目の前で捌き、調理して、その身からあふれるうまさが“つゆだく”になったその時、炊き上がった飯に酢を仕込んでから少し時間が経った、ややドライ気味のシャリをからめる。すると、温かい鱧の温度感、ジューシーさとのコントラストを愉しんでいただける。
 冷たい鱧でも疑念を持たないお客さんに、本当のそのおいしさ……淡路の鱧の良さを知っていただく。蒸し焼きにした最高の鱧の味わいをお鮨として愉しんでもらいたい。素材と調理の業がぴったりマッチしてこその最高の味わい。これ以上の良い鱧が無いのだとしたら、ぜひお熱いうちに食べていただきたい。
 勝にとって、一貫の握りは一品のお皿。そこにどんな意図を込めたのか。その素材はどんな出所のネタなのか。面白おかしく笑顔を絶やさず、その味の秘訣までをも語りかけながら、味の旋律がかなでられ、次々と出てくるすばらしい素材がリズムを生み出していく。

 どのような言葉にも表と裏、ふたつの捉え方がある。
 “伝統”という言葉。その中には時代ごとに先達が創意工夫を重ねた、長い時間を経て完成された作法、技術といったニュアンスが含まれる。
 しかしいっぽうで、少し古めかしい、いま現在を直接的に反映したものではない、といったやや後ろ向きな捉え方もできようというものだ。
 “伝統”という少々重苦しい言葉を“あたりまえ”と置き換えてみると、“こうすることがあたりまえ”というカタチを崩すことが、いつの間にかその業界において禁忌タブーとなる。“伝統”という耳あたりの良い言葉のもとに、新しい価値を求めての挑戦が行なわれなくなり、それは文化としての停滞をもたらす。
 これは食文化以外の、ビジネスや技術開発などのジャンルでもよくあることだ。
 長い時間をかけて醸成されてきた“あたりまえ”は、そこさえ踏み外さなければ失敗しないという安心感をもたらす。しかし、長く“あたりまえ”に頼り続けていると周囲の環境の変化に追従できなくなり、いつしか時代とのギャップの大きさが限界を迎えて、新たな挑戦者によるイノベーションが引き起こされる。
 “伝統を破る”ということは失敗を恐れないことであり、新しい価値を求めての挑戦でもあるが、いっぽうで失敗するリスクも高い。それでも挑戦するからには、自分自身の中で絶対的な価値評価を行なえるという自信が無ければ決してできない。
 時代が変われば料理も変わる。技術が進化することで食材の保存法、調理法は変わる。調味料や、そもそもの食材の“捕獲法”という上流の技術も変化していく。そのような中で料理は進化してきた。ならば、技術が世の中を大きく変えている現代では、新しい味を模索することは、すべての現役調理師のつとめなのではないか。
 勝は、自分の中にあるすべての“常識”を捨て去ることに決めた。
「江戸前伝統の手法を守りながらも、すべての常識を疑うことで、よりすばらしい鮨を生み出せるなら、そこに禁じ手なんてあるはずもない。伝統も大切だが、お客さんにおいしい鮨を提供する心こそがその大本にある。その基本に比べたら、鮨の枠組みがどうのといったこだわり、常識は新たなる発見を見失わせるだけのものだ」
 そもそも「江戸前鮨」とは、“魚を新鮮な状態で保存する技術がまだ無かった時代”に確立された手法である(その対極が、現代の冷蔵庫・冷凍庫の存在を前提にした「お刺身み寿司」とも言える)。
 元々は、(冷蔵庫・冷凍庫無しで)魚介類を保存するため、酢や塩を工夫して飯と組み合わせることで料理とする「押し寿司木枠きわく」というのが、鮨の始まりだとする説がある。
 それを発展させ、“前海まえうみ(=江戸湾)”で捕れた魚をよりおいしくいただくため、魚介類・米・塩・酢・醤油の調和を絶妙に取ることで、保存をきかせつつ、まるで“一皿の日本料理”のように完成された一貫として“手で握る”ようになったのが、江戸前鮨だというのだ。
 勝の鮨は、この江戸前鮨の技法を踏襲しながらも、新しさを“一貫の中で”表現する。それはあたかも、他の分野の料理人が、時代の変化を背景に“新しい一皿”を生み出すようなものだ。
 江戸前鮨の技法が成熟する中で完成されてきた手法――勝はその成熟の経緯を遡り、基本から組み立て直し、独自の手法へと昇華させて“新しい一貫ひとさら”へと着地させた鮨を、お客に出す。
 その道のプロ、あるいは江戸前鮨に少々詳しい食通が体験すれば、ひとつひとつの鮨、ひとつひとつの仕事の流れの中に、驚きが隠されていることに気付くはずだ。
 さらに勝は、そうした工夫――どのように考えてその一貫を作り上げているのか――を一切隠そうとはしない。すべて包み隠さず、軽妙な言葉にさらりと乗せて、その秘密をお客に伝えていく。
 長年培ってきた業とノウハウ――どこの漁師に、どんな風に魚を捕って処理をしてもらい、それをどのように調理するのか、そして、その気持ちの本当のところはこんなところにあるんだよ――と、まるで学校の先生が教えるように喋り続ける初音の親方である。そこには多くの同業者もやってくる。
 明治から続く老舗ながら、跡取りを持たない、跡を取らせる弟子も取っていない蒲田 初音鮨は、鮨職人が店を訪ねてくると、面白おかしく話をしつつ、しかし、その中に“俺はこういうやり方で鮨を食わせる”という業と考えを折り込みながら、包み隠すことなくすべてを目の前で披露してみせる。自分が持っているすべてを、新しい世代の若い職人に知ってもらい、それを自分の中で消化し、新しい鮨にしてほしい。そんな願いを持って接する勝の仕事ぶりを勉強しに行きたいという若い鮨職人は少なくない。

 都内のある人気店から、若手の鮨職人が蒲田 初音鮨にやってきた時のことだ。
「親方、今日は本当にありがとう。こんな凄いネタ、初めてです。今日は、僕らのために特別豪華なネタを出していただいてますよね?明日、店でうちの親方にも、紹介のお礼を言わないと」
「今日は特別?いやいや、いつもこんな調子のネタだよ。毎日がお祭り騒ぎだよ。昨日も今日も、明日もまた同じ調子。もうこれで何年もやってるからね」
 そんなやり取りも、決して珍しいことではない。
 鮨職人は、自分が握るネタの原価を常に意識しながら素材をあつかっている。
 素材である魚をいくらで仕入れ、それをどう捌いて、どのように使っていけば、この鮨一貫を、これこれの価格で提供できるだろう――だいたいの原価はこんなものだから、ここをこう使えば……と収支計算をすることを、若いうちから身体に染み込ませて成長する。
 原価を肌で感じながら、無駄を出さぬよう、損を出さぬよう、体内にあるコンピュータで数字を瞬時に“パン!”と弾き出す。だからこそ、ギリギリに攻めた仕入れで、お客さんから預かるお金から、最高の鮨を出せるのだ。
 そんな修業を積んだ鮨職人なればこそ、蒲田 初音鮨で最初の数貫が出てくると、「これはちょっとオカシイぞ?」と思い始める。
 どこにも仕入れられないような最上級の素材だけで「オカシイ」と思うわけではない。勝は、きっとそのまま使えばそれだけで最高であろう素材に、さまざまな“調理”を施す。鮨職人が施す工夫を“仕事”と表現するが、勝はまさに日本料理を作り上げるかのような“調理”の領域にまで踏み込んだ仕事ぶりで鮨を握る。
 まな板の上で跳ね上がりながら最期を迎える特大の伊勢エビを捌くと、勝はその半透明の身を適度な食感を得られるよう刻み、人数分に整えながら山を作っていく。その間にも、みえ子へとバトンタッチされた“残りの部分”は蒸し上げられ、ちょうど良い頃合いに勝の手元へと返り、強い甘みと旨味でとろけるような伊勢エビの“ミソ”と、新鮮な半透明の身とが一体となって、他店では体験したことが無いような“料理”が口の中で噛むことにより完成される。
 これが蒸し上げた毛蟹だというのなら、多くの店が、きっと足の身をほぐしてまとめた上で、ほどよく火の通った極上の蟹ミソを和えて提供するだろう。しかし伊勢エビのミソも、これまたうまいものだ。ピンピンと跳ねる極上の伊勢エビの、しっかりと引き締まった半透明の身。これに良い塩梅で海老ミソを、と実に発想を飛ばしたのが勝の一貫だ。
 勝のコースが中盤になる頃には、さらに並外れた大きさ、並外れた質のまぐろが目の前に登場し、ダメを押された気分になってくる。
 目の前でざっくりと入る鮪専用の長包丁。赤身、中トロ、大トロとサクッと切り分ける、そのサクの大きさは常識はずれ。そして、そのサクすべてを、その回で使い切る。
「あぁ……今日も大きく切りすぎてしまった……。鮪屋さんがこの包丁、タダでくれるわけです。なぜかってぇと、この包丁で切ると切り身が大きくなりすぎちゃうから。うちの女将さん、この包丁が大嫌いなんですよ」
 そんな軽口とともにサクを切り身にしていくが、実は赤身はもちろんのこと、その中トロと大トロも、そのままで食べさせるわけじゃない。一番、脂の乗った大トロは、一度湯通ししてから、その後、蒲田 初音鮨が長年継ぎ足してきた醤油へ浸され、ヅケの炙りとして提供される。つまりは、“炙りヅケ”となるのだ。
「昔、保存技術が発達していない頃には、腐りやすい大トロは最初に捨てられる部位でしてね……」なんて話も、「ヅケの技術ってのは、実は防腐の技術でして……」というセリフに続く爆笑ネタも、その頃には、驚きのあまり頭に入ってこない。
 あんな立派な大トロを、ヅケにした上で炙ってしまう。その香ばしいうまさは、脂ばかりが目立ってしまう本来の大トロを、実にバランスの良い完成されたメイン料理へと昇華させる。
 藁の炎が脂をほど良い温度で溶かし、タレとネタに香ばしい風味をもたらす。その頃にはすっかり枯れ、奥ゆかしくなったシャリが、溶けた脂をほんの少し軽くすることで、完璧なおいしさが生まれるのだ。
 これで終わりかと思いきや、思い切り大きく切り分け、たっぷりの厚みに切って余らせてあった赤身と中トロも、大トロの炙りヅケと一緒に太巻きにされて、最高のハーモニーを醸し出す。
 こうして、初音のコースは、これでもかとばかりに、あふれんばかりの鮪づくしで終演へと向かうのだ。
 クライマックスの先に待ち構える、さらなるクライマックス。その間、一度たりとて飽きさせないのが蒲田 初音鮨だから、他店の鮨職人の口からは、「これは商売として成り立たない」「今日は特別なんですね」なんていう言葉が出てくる。
 “いつもとは違う”、“ちょっとした配慮”で、いつもよりいい素材、いつもより大きめ、いつもより……そんな贔屓を、同業者にだけそっとしてくれているのだ――そう思ってしまうのは、鮨を知る職人だからこその「リミッター」が、頭の中で働いているからにほかならない。
 ところが勝は、毎日すべてのお客に同じように、こうしたリミッターを外した“お祭り騒ぎ”を長らく振る舞ってきた。

 そんな蒲田 初音鮨だからこそ、玄人衆の間で噂になる。様々な鮨のプロ、あるいはよく物事を知っている美食家が訪問するようになればなるほど“蒲田 初音鮨閉店説”が定期的に噂されるようになった。
 来年末まで取れない予約は、その翌年以降の予約を受け付けていないことを想起させ、原価を無視した、儲けを出せるようには思えないネタ選びは、“最後の記念”を思わせたからだ。
 店を続けるつもりならば、こんな馬鹿げた鮨など出せるはずがない――その道に詳しい者であればあるほど、そう感じるのだろう。
「『来年、お店を閉めるんですって?本当ですか?』と予約の時に尋ねられることがよくあるんですよ」とみえ子。
「誰がそんな噂を?と思っていたんですが、とても商売を続けられるような原価率だとは思えなかったんでしょうね」
 しかしこの玄人の直感、実はまったく間違いというわけではなかった。“続ける気が無い”わけではないが、実は“なぜ蒲田 初音鮨がお客たちを驚かせることができるのか”という秘密の核心を突いているからだ。
 実際、蒲田 初音鮨は長年、事業として成立するギリギリどころか、商売を無視した“お祭り騒ぎ”がその基本にあったからだ。

    ※    ※    ※

 蒲田 初音鮨の仕入れは鮪代だけでも年間3千万円以上。それ以外の素材も4千万~5千万円で、そこに酒代が乗ってくる。さらに諸々の経費を加えれば、年間の仕入れは1億円を払っても、ほとんどお釣りは無い。
 対して1日の客数は、わずか8席×2回転のみなのだから、週休1日で働きに働いても、儲けはほとんど残らない。
 その原価率は6割を超える……という噂がまことしやかに囁かれているが、実はそんな数字も控えめ。白トリュフなどの高級食材を使う時、あるいは珍しい食材が入手できた時などには、原価率が8割近くになることもあった。
「この人(勝)が、原価のことを考えないだけなんですよ。だって、仕入れの時に、値段を尋ねたところを聞いたことなんてないんだから」
 そんな、経営なんてまったく、これっぽっちも考えていないようなやり方なのだから、「毎日、人生最後の記念に営業をしている」「店を続けるつもりはないんだろうね」と噂されるのは、ある意味当然だったのだ。
 しかし、もちろん蒲田 初音鮨を閉めてしまう考えなどは、中治夫妻の頭の片隅にも存在していない。夫妻は一日でも長くこの幸せな空間を維持し続け、より多くの人に“おいしい”を届けたいと考えている。

 では、なぜふたりはこれほどまでの、捨て身とも言える鮨屋の経営をしているのだろうか。

 彼らの成功と幸福とを導く“魔法のレシピ”の秘密を知るには、少しばかり店の歴史、そして中治夫妻の過去について語る必要がある。
 彼らのやり方は、実は、決して特別ではない。経営者の心得としてあたりまえのこと、しかし、誰もが簡単にはできないことをやり続けた結果、11年連続して『ミシュランガイド東京』でふたつ星で紹介されるなどといった今があるのである。
 覚悟を決め、“顧客価値とは何か”に真剣に取り組み、本当の満足を顧客に与えるために何ができるのか、正面から取り組んだからこその成功だった。
 そこには、本書巻末で記すように、あの世界のAmazonアマゾンAppleアップルにも通じる成功法則が内包されている。
 この蒲田 初音鮨が通ってきた轍には、人が、企業が、夫婦が、親子が、様々なカタチで成功を収めていくための普遍的なノウハウが数多く秘められているのだ。
 現在、絶頂にある蒲田 初音鮨。その琥珀色の記憶を辿っていくと、そこにはその幸せな空間からは決して想像もできないような、ジェットコースターのように激しく変わりゆく、先の見えない運命の紆余曲折があった。
 1893年(明治26年)から126年続くこの店の歴史の中でも、一番後のつらく悲しい出来事こそが、現在の蒲田 初音鮨を生み、人々に“品川の関の向こう側”へと通いたいと思わせる力を生み出したのである。
 その理由、蒲田 初音鮨を現在の幸せな鮨屋へと導くつらく悲しい出来事とは、2005年9月に、勝の妻であり四代目・蒲田 初音鮨の女将である、みえ子が突然の癌と余命を宣告されたことだった。

つづきはこちら▷▷本田 雅一『蒲田 初音鮨物語』
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