本日 6 月 10 日(月)発売の「文芸カドカワ 2019年7月号」では、真藤順丈さんの連載がスタート!
カドブンではこの新連載の試し読みを公開します。
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新宿のマンションで転落死した、ウズベキスタン国籍の女性。
タクシー運転手のほか“副業”を営む城之内は、同国出身の青年を車に乗せた。
既に大いなる移民国家である現代日本を舞台に、直木賞作家が放つ壮大なミステリー!
Prologue
こんな夜に、こんな縁もない土地で、街の灯も差さない路上になぜ彼女は身を投げたのか。身分証の澄まし顔は、隠しきれない命の精彩と恵み深い知性を伝えているのに。路面に横たわったその顔は、頰も痩け、黒髪や肌は脂気を欠き、目の下には焼き鏝でつけたような濃い隈があった。色褪せたパジャマをまとった亡骸は熱を失い、頭蓋はその縫合線もろとも割れ崩れていた。
通報したのは、新宿区百人町のおなじマンションに住む派遣社員だった。「たぶん飛び降りです」と彼は交換手に告げた。深夜にもかかわらず人が集まってきて、赤色灯のまだらな灯がその横顔を照らしだす。薔薇の飾りがついたサンダルの片方は、マンションの七階の外廊下に転がっていた。建物の周りの植栽に転落したかたちだが、頭だけはアスファルトの舗道にはみ出していた。あともう少し建物寄りに落ちていたなら助かったかもしれないと現場を見た検視官はつぶやいた。
思いつくかぎりで、もっとも悲しい出来事。
戻れない過去の傷を疼かせる歌の一節。誰かの言葉。
あるいは見てもいないのに、網膜から消えない無慈悲な風景の残影。
彼女のふるまいがたどりついた結果は、おなじ境遇の人々にとってそれらと同様のものになっていく。遠い記憶に思いをはせ、瞼の裏にその像を重ねて、わけもない悲憤や飢渇にさいなまれる。その不慮の死は、新世界で降りかかる災難の象徴とされ、すべての兄弟姉妹を待ち受ける終わりの日の標となるのだ。
それは、ただの転落事故や投身自殺ではなかった。
在留カードに記された名前は――
シトラ・ヴァルヴァノワ。
ウズベキスタンの国籍を有する二十六歳。在留資格は〈技能実習〉だった。滞在を許可されているのは四年と三ケ月で、その期限は二ケ月前に切れていた。いわゆるオーバーステイ、非正規滞在に該当する外国人だった。
現場を検めながら、阿仁屋直之は言った。
「シトラ、か」
初見では、自殺か事故の線が強かった。地域課の警官たちが現場を保存し、鑑識課の人員も立ち働いている。聞きこみや関係者への連絡をすませて黒瀬令美が戻ってくる。家賃も決して安くないこのマンションの一室でシトラは起居していたようだ。技能実習が終わっても帰国せずに、誰かと同居していたのだろうか。
「受け入れ先は、半年ほど前に逃げたきり行方が知れなかったって言ってます」
「よくある失踪か。この娘なら男の家に転がりこむのも難しくなかっただろうな。名義人との連絡はついたのか」
「そっちはまだです。痴話喧嘩の線もありますかね」
阿仁屋と黒瀬は、シトラの最後の足取りをさかのぼった。
廊下のどんつきには非常階段があったが、シトラはその階段で下りなかった。
脱げたサンダルの片方は、廊下の柵の内側に転がっていた。そこから七〇六号室までの間に、少量ながら血の跡が見られた。足をひきずり、途中で尻餅をついた形跡もあって、その部分は擦ったように赤いすじが掠れている。塗料だまりが鱗状にささくれた壁面のはしばしには、血の色の指紋もこびりついていた。
「おいおい、こりゃなんの血だ」
施錠されていない七〇六号室に踏みこんだ刑事たちは、雑然と散らかって家具調度も乏しい1LDKで、甘ったるさと酸っぱさの混ざった異臭を嗅いだ。室内のそこかしこが血に染まっている。寝室ではシーツにくるまった繭玉のようなかたまりが、微かに布の表面を波打たせていた。
「こんな子、どこから」
どこから出てきたの、とシーツを捲った黒瀬が咄嗟に口走った。
強行犯捜査係に配属されて三年、捜査員として経験したことのない事態だった。
「バカ、赤んぼうが出てくるところなんてひとつしかねえ」
「産んだんですか、ガイシャが?」
「救急だ、急がせろ」
産まれたばかりとおぼしき、新生児がそこにいた。
乾いていない頭髪。握りこぶしのようなちいさな面立ち。
洗濯ばさみで留められた臍帯。黒く凝った胎便が全身にこびりついている。
瞼を閉じて、眠っている。幻想の乳首にすがりつくように唇をすぼめている。
医師でなくてもおのずと見当はついた。あるいはその口や胃袋は、一度も母乳にありついていない。産まれたての嬰児はおそらく生後一日にも満たない。すぐにシトラのほうにも分娩の跡が確認された。
「これって、どういうことですか」
すぐには刑事たちも事の経緯を摑みきれない。眼前の光景は動かしがたい事実であるのに、誰も実感をともなった言葉を吐けない。
シトラは、出産の直後だった。
臨月を迎えても産院に入らなかったのは、オーバーステイだったからか。
マンションの一室に身をひそめて、ここで分娩までしたのか。
そしてその直後に、転落死?
「黒瀬さぁ、出産したばかりの人間ってすたすた歩けるもんかな」
「個人差はあると思いますけど。二人産んだ私の姉は、二度ともしばらくはトイレに一人で行けなかったって」
「産んだ直後に、身投げするなんてこともなあ」
「望んだ出産じゃなかったのかも、だけどそれにしてもですよね」
「サンダル突っかけて一人で出かけようとしたとは考えづらい。すると誰かに連れだされたってこともあるかな」
「で、揉みあったはずみに転落したとか」
「これは、すぐに畳めそうにねえな」
断片ばかりの情報と腑に落ちない謎がわだかまっていた。情況からして第三者がからんだ事件性を疑われたが、しかしながらシトラが寝起きしていた七〇六号室からは、鑑識がどれだけ血眼になっても他の人物の痕跡は見つけられなかった。指紋も遺留品も組織片も出ない。目撃証言も上がってこない。司法解剖に付された彼女の遺体には、殴られたり揉みあったりした跡も確認できなかった。
後日になって、賃貸契約の名義人は安田義嗣という人物だとわかった。ところがこの男自身は、大阪市の淀川区で炊き出しの列に並んでいた。これはいわゆる名義貸しだ。ローンや賃貸契約を結べない人々のために、他者の身分や戸籍を使って契約代行するブローカーが嚙んでいるようだ。契約者のAではなく実際はBが住んでいる、ということが近年では契約違反の実例として挙がるが、契約時の指定口座から賃料は毎月きちんと引き落とされていたようで、そちらの線からもブローカーや契約者を特定することはできなかった。
このところ急増している失踪者、不法入国者、非正規滞在者――そうした人々にシェルターのように供されていた部屋であったのかもしれない。事件に与した第三者が浮上してこないとなると、事の次第はいよいよ複雑な様相を呈しはじめる。最後の夜をシトラが一人で迎えていたとすると――
「つまりは一人で産んで、出血も止まってないのにサンダル履きで外に出たわけか。外気にふれようとしてうっかり転落したか、身投げだとしたらひとつの命を生んだ喜びよりも、絶望や厭世観のほうが重かったってことになるな。将来を憂えて衝動的に跳んじまったか、どちらにしても寝覚めはよくなりゃしねえがな」
ほどなくして、送り出し機関を通じてウズベキスタンの家族にも訃音が届けられたが、老いて困窮した両親は末の娘の急死に嗚咽を漏らしながらも、遺灰や忘れ形見を引き取るためにすぐに来日するのは難しいと返答してきた。
他殺か自殺か事故か、子の父親は? 真相はなにひとつ解かれないままに捜査の規模は見る見る縮小する。一部のジャーナリストが記事にもしたが、もっとも強い反応を示したのは在留外国人、特に技能実習生や留学生たちだった。FacebookやTwitterで事件は共有され、さまざまな噂や憶測を呼び、その運命が悼まれ、保護された子を支援するべくクラウドファンディングでの寄付金集めも始まっていた。
残された子は。
保護された病院で、開きたての目に驚きの色を浮かべて。
覗きこんだ相手に、問いかえす言葉や思考もまだ持たない。
あなたは誰、とも、お母さんはどこ? とも思えない。
この世界に、お母さん、という存在があることも知らずに独りぼっちになった。親子という枠組みもない世界に放棄され、やがて物心がついたとき、母親が自分を遺して逝ったことに傷つけられるかもしれない。自分を責め、母親を憎むかもしれない。どうしてぼくを置いていったの。記憶に残るキスも、最初の授乳もしてくれずに――
ねえ、どうして?
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※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます(登場人物名の表記を雑誌掲載時から一部変更しました)。
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