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試し読み

先読み不可能! あなたは「究極の動機」を見破れるか――浅倉秋成『六人の噓つきな大学生』試し読み②

 回数にして四回目の打ち合わせとなった、四月十二日の火曜日。
 矢代さんは例のイベンターの知り合いにインタビューをするため、森久保くんはどうしても外せないアルバイトがあるためにそれぞれ集まりを辞退していたので、僕らは四人で打ち合わせを行っていた。決めるべきことがあらかた決まってしまうと、袴田くん、九賀くんの順番に帰途につき、気づくと会議室は僕と嶌さんの二人だけになっていた。レンタル時間が残っていたのでどうせなら他社の選考に向けたエントリーシートもここで仕上げてしまおうと、僕は『居残り勉強』というよりは『残業』気分で紙にペンを走らせていた。
 そして誤字がないことをたっぷり三度確認して顔を上げたとき、嶌さんが机に突っ伏して寝息を立てていることに気づいた。体力の限界が訪れるまで作業に没頭していたのだろう。空っぽになったジャスミンティーのペットボトルが彼女に押し出されるようにして倒れている。横にはスピラリンクスの新卒採用案内が記載されたパンフレットの姿も確認できた。『スピラリンクスが提供するフィールドで、あなたは【成長Grow up】を超え、新たな自分へと【超越Transcend】する』。中身はそらんじられるほどに熟読していた。嶌さんも先ほどまで読み直していたのだろうか。
 なぜだろう、途端にどうしようもなく熱いものが込み上げ、僕は自分でもわけがわからないまま瞳が潤んでしまいそうになる。不安定な情緒が我ながら滑稽だった。感動する代わりに自虐めいた笑みだけをこぼし、床に落ちていた嶌さんのブランケットを拾い上げる。時刻は午後七時を回っており、三階にある会議室の窓からは煌々と照る半月の姿が確認できた。利用時間は午後八時までなのでそれまでは寝かせてあげようと思い、簡単に埃を払ってからブランケットをそっと肩に載せる。
 相当慎重に載せたつもりだったので彼女が目を覚ましてしまう可能性をまったく考慮できていなかった。必要以上に驚いた僕は壁際まで後ずさりしてしまい、
「ごめん、ただブランケットを肩にと思って」
 一度顔をあげた嶌さんは寝起きの顔を隠すようにすぐ俯くと、夢うつつといった様子で、
「……お兄ちゃんかと思った」といささかドメスティックな言葉をこぼす。
「はは……」暴漢だと思われていなかったことに安心しながら「ごめんごめん」
「いやいや、こっちこそ気を遣わせちゃって……今、何時だろう?」
「七時……二十分だね」
「わぁ……だいぶ寝ちゃってたな」
 嶌さんは再び顔をあげると、自身の進捗を確認するように手元をしばらく見つめた。おそらく他社に向けた履歴書やエントリーシートを書いていたのだろう。いくつかの紙を持ち上げては裏面を確認し、また別の紙を持ち上げては確認し、やがてすべてをまとめて机の端に寄せた。
「他社のES?」
「……うん、いくつか自己PRの欄を埋めておこうと思って」
「『洞察力には自信があります』でしょ?」
「茶化してるでしょ?」嶌さんは恥ずかしそうに笑うと、「自己分析は得意だから、書くことには困らないんだけどね。自分がどういうときに、どういうことをしちゃうのか。どういうときにどういうことができないのか。それはよくわかってるんだけど、いざ書こうと思うとなんとなくためらいが生まれちゃって」
 微かに残っていた眠気の残滓を振り払うように思い切り伸びをすると、嶌さんは窓の外に目を向けた。
「月が綺麗だね」
 漱石のエピソードを借用した愛の告白なのかもしれないという浮ついた予感が一瞬たりともよぎらなかったのは、事実として本当に月が綺麗だったからだ。
「すごい綺麗な黄色だよね」と僕も窓の外を見つめながら返す。「まっ黄っ黄」
「なんでだか、昔から月ってなんとなく好きなんだよね」
「へえ。確かに何か惹かれるところはあるよね」
「表側しか見せてないんだよね」
「何が?」
「月――地球からは絶対に裏側が見えないって。それを聞いてから、意味もなく考えちゃうんだよね。月の裏側ってどんなふうなんだろうって」
「確かに興味深いね。どんなんなんだろう」
「どんなんなんだろうね。月に住んでみないとわからないのかも」
 嶌さんはそう口にしてからまるで淡雪が溶けていくように、ゆっくり、ゆっくりと、笑みを薄くしていった。彼女の顔が窓から差す月明かりのせいでうっすらと黄色に輝く。
 そうして無言で月を見つめ続ける嶌さんの顔が故郷を想うかぐや姫のようにあまりに郷愁の色に満ちていたので、ご出身は月のほうなんですかという冷静に考えればさして面白くもない冗談を口にしようかと思ったところで、嶌さんは唐突に涙をこぼした。そしてそのまま涙に飲まれていった。
「ごめん、なんか……違うの。全然、ほんと、波多野くんまったく悪くなくて、なんかこう、わってなっちゃって」
 顔を隠した彼女にハンカチを手渡し、僕は揺れる肩を黙って見つめた。
 もちろん涙の理由はまったくわからない。突然の展開に動揺が微塵もなかったと言えば噓になるが、それでも過度に慌てふためかずに済んだのは僕もまた同様に時折泣いてしまいたくなるような精神状況にあったからだと思う。
 大学三年の後半になれば就職活動が始まる。就職は当然しなければならない。だから頑張らなくちゃいけない。しかし、やるべきことの指針は悲しいほどに曖昧だった。何をしたら内定が近づき、何をしたら内定が遠ざかるのか、何もわからない。
 一方でそういった曖昧さに救われている側面があることも完全に否定はできなかった。小さい頃から突出した何かを持たずに、勉強もスポーツもそこそこ、なんとなく気さくで、それなりに気が利くいい人――通知表を何一つ賑わすことのなかった僕に対する周囲の評価が、初めて採点対象とされる。就活は苦行ではあったが、たぶん不得手ではなかった。学科やバイト先のコンビニ、散歩サークルのメンバーの話を聞く限り、どうやら僕は他の人よりはまずまずうまくやれている様子だった。しかしやっぱり『どうやらうまくやれているらしい』という以上の手応えはなかった。透明な銃で透明な敵を撃ち続けていたら、思いのほか悪くないスコアが手元に表示されていたというような話で、そこに喜びはあっても具体的な根拠や確信は存在しない。そして往々にして理由の提示されない勝利の喜びよりも、無慈悲に突きつけられる敗北の痛みのほうが、ずっと胸に深く残り続ける。
 誰だって全戦全勝とは行かないのが就活だ。スピラリンクスの最終選考に残りながら、同時に僕は多数の企業から不採用の通知をもらっていた。それはおそらく嶌さんだって同じはずだ。
 この会議室の中、六人で語り合っている間は根拠のない自信が細胞膜のように心を優しく守ってくれるが、ひとたび落選の通知――いわゆるところの『お祈りメール』を受け取れば、人間性をまるごと否定されたような心地になる。
 根拠のない自信、根拠のない安心感、そして根拠のない不安。
 何一つ根拠がないふわふわとした精神状態の中、おそらくは自らの人生、向こう数十年に影響を与えようかという一大イベントに直面している。冷静でいられるはずがない。
「不安になるよね、色々」
 僕の言葉に返事はできず、それでも俯きながら何度も頷いてくれる彼女の肩を、そっと優しく抱いてあげることができたなら。それが弱っている女性を前にした刹那の下心ではないと気づいたとき、僕はやっぱり彼女にどうしようもなく惹かれていることを自覚した。
 嶌さんのことを他のメンバーと同様に素晴らしい人材だと認識している。彼女の頑張りに感動し、おそらくは彼女が抱えているであろう苦悩に身勝手に共感もしている。あらゆる部分に対して確かな尊敬の念を抱いている。でもそれだけではない。他の四人に抱いている以上の感情を、僕は嶌さんには抱いてしまっている。
 僕は涙の彼女に断りを入れ外の自動販売機へと向かう。何を買おうかと一瞬だけ迷ったが、ジャスミンティーを見つければ迷う必要はなかった。あれだけいつも飲んでいるのだからお気に入りに違いない。自分用に温かい缶コーヒーを一緒に買って会議室の扉を開けると、彼女は目を赤く腫らしながらも気丈な笑顔を見せてくれた。
「さっきは何だかごめん。ぜひ、ここだけの秘密にしてもらえると……」
 僕は了解と言ってジャスミンティーを差し出した。
 秘密にする代わりに、今度二人だけで遊んでもらえないかな――そんな軟派な台詞は、たぶん彼女がサークル仲間だったら飛び出していたのだと思う。幸か不幸か、就職活動が本格化する昨年十月頃に、僕は恋人との一年三カ月に及ぶ交際期間に終止符を打っていた(いや、打たれていた)。嶌さんに声をかけるのは何ら不誠実な行為ではない。でもそうしなかったのは、彼女が僕の中ですでにビジネスパートナーのような認識になっていたからに違いない。
 これが大人になるということなのかもしれない。そんな的外れなのかそうでないのかもわからない予感を抱きながら、僕は微糖の缶コーヒーに口をつけた。
 初めて甘すぎると感じた。

(つづく)


書影

浅倉秋成『六人の噓つきな大学生』
定価: 1,760円(本体1,600円+税)
※画像タップでAmazonページに移動します。


浅倉秋成『六人の噓つきな大学生』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322005000377/


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