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試し読み

【新連載試し読み 梶よう子「吾妻おもかげ」】浮世絵の祖・菱川師宣に迫る、絵師小説、開幕!

3月12日(火)発売の「小説 野性時代」2019年4月号では、梶よう子「吾妻あづまおもかげ」の連載がスタート!
カドブンでは、この新連載の試し読みを公開します!

江戸に出て十年、吉兵衛はかつての志を失い、吉原に入り浸る日々を送っていた――。
浮世絵の祖・菱川師宣に迫る、絵師小説、開幕!



 第一章 逢夜盃あうよのさかずき


   一

 初冬の雨が、向かいの見世みせの屋根を叩く。
 昼を少し過ぎたばかりだというのに、あたりは色をなくしたように沈み込んでいる。
 軒から流れ落ちる雨滴が錦糸の幕を作り、はり見世の格子の内側はさらに薄暗い。
 昨夜から降り続く雨のせいで客足が落ちている。見世の前を通る男たちもまばらなためか、おんなたちはあきらめ顔で、しどけなく座敷に座っていた。それでも編み笠で顔を隠した供連れの侍が格子の中を覗き込むと、妓たちは我先にと白粉おしろいを塗った指を伸ばし、なまめかしい声や媚びるような姿態で気を引こうとする。
 それが素見すけんとわかると、途端に興味を失い、代わりに格子の内側から聞こえよがしの罵りや、冷ややかな声が上がる。が、それもすぐに止むと、煙管を手にする者、髪を掻き上げ整える者、ため息を吐く者――ただ時が過ぎるのを待つだけの気だるさに戻る。
 日本橋葺屋町ふきやちょうの北。二町(約二二〇メートル)四方に囲まれた町がある。
 四十年余り前の元和げんな四年(一六一八)、葦が生い茂り、あやかしか追い剥ぎでも出そうな湿った地に設けられた遊女町だ。もともと遊女屋を営んでいた庄司しょうじ甚右衛門じんえもんが散在していた遊女屋を一箇所に集めて色街を作りたいと願い出て、幕府に聞き入れられたのである。町の名は吉原よしわらだ。あしの生えた原であったから葭原あしわらと名付けられたが、葭は、あし(悪し)とも通じることから、めでたい吉の字を選んで吉原としたという。
 当時は、遊女を抱える置屋十七軒、遊女と遊ぶための揚屋あげや二十四軒で始まった。
 吉原は四方に堀を巡らし、出入り口は大門おおもんのみ。そこからまっすぐ延びた大通りを仲之町なかのと呼び、左右に江戸町えどちょう京町きょうまちがあり、のちに角町すみちょうが出来た。
 はてさて、どうするかな、と吉兵衛きちべえは揚屋丸川まるかわの窓から、向かいの遊女屋三浦屋みうらやをぼんやりと眺め、ひとりごちた。
 吉原の奥、京町一丁目の三浦屋は、吉原の中でも一番格式のある総籬そうまがきの大見世だ。遊女を並べ置く張見世は格子が嵌められており、客はその格子から妓を選んで指名する。
 その格子を籬と呼んで、見世先全面に格子が嵌まっているのを総籬、一部に格子がなく素通しになっている見世を中籬、格子が下部だけにしかない見世は小見世と呼ばれた。
 遊女にも位がある。容姿端麗、芸事、教養に秀で、客あしらいも上手い遊女を太夫たゆうと呼ぶ。以下は格子、端となる。三浦屋は、特に人気のある高尾たかお太夫だゆうを抱えている見世としても知られていた。
 だが、吉兵衛は太夫には興味はない。むしろ、その日一日、客が来るか来ないか人待ち顔で待っている妓たちに惹かれた。
 中年男がひとり、吉兵衛ににじり寄って来た。満面の笑みを向けてくる。この男とは吉原で幾度も顔を合わせたことがある。今日も揚屋の前でばったり会って、ならば一緒にと宴席を張った。
 薬屋の主人だったか、酒問屋の主人だったか、そもそも互いの生業を教えあったかどうかも定かではない。名はたしか三右衛門さんえもんといった。歳は三十を少し出たくらいだろうか。
「吉兵衛さん、雨など眺めて風流気取っていなさるか。さあさ、こっちで楽しみましょう。小紫こむらさきが拗ねておりますよ。そうだ、酒を頼みましょうかね」
「お好きにしてください」
 吉兵衛が答えると、では早速と三右衛門が手を叩く。幇間ほうかんが「お酒でござんすね」と、先回りして、座敷を飛び出して行った。
「このところ、芝居はいかがです? 若衆わかしゅから野郎になって、ちっとぱかし色気が失せたような気もいたしますが、それはそれでよいもので」
 三右衛門がにやついた。この男は、役者も好みなのかと、吉兵衛は呆れる。
 慶安けいあん五年(一六五二)、おかみは、風紀を乱すとして、若衆歌舞伎を禁じ、役者の前髪をすべて落とさせたが、翌年、野郎歌舞伎として再開を許されている。
「先日は、堺町さかいちょう中村座なかむらざに行きましたよ」
「はあ、猿若さるわか勘三郎かんざぶろうですか? あの役者はいい。私は、市村座いちむらざの市村宇左衛門うざえもんですかねぇ。京の坂田さかた藤十郎とうじゅうろう女形おやまが色っぽいと話に聞きましたが、一度、観てみたいものですなぁ」
 三右衛門が残念そうにいう。そこへ幇間が銚子ちょうしを盆に載せて戻ってきた。
「ああ、ご苦労だったね。さあさあ、吉兵衛さん。呑みましょう」
 ぐいと袖を引かれた吉兵衛は、あぐらに組んでいた脚がほどけて、思わず畳に手をついた。視線を感じて顔を上げると、上座に座る小紫が吉兵衛を冷めた眼で見つめている。笑いかけると、小紫はすっと正面に向き直る。高い鼻梁びりょうと長い睫毛、唇から流れるような曲線を描く顎先。相変わらずいい女だ、と吉兵衛は思う。小紫は太夫の下、格子女郎だ。まだ小紫とは三月ほどで、互いに心身の隅々まで知り合っているとはいい難い。これから徐々にと思っているが、つんと澄ました面そのままで、扱いにくい。たいてい、初めて顔を合わせる初会では、遊女は口も利かなければ、料理にも手をつけないものではあるが、裏を返した二度目でも、四半刻しはんとき(約三十分)もせぬうちに席を立たれてしまった。これは手強そうだとはらを決めた吉兵衛だったが、三度会っても眼すら合わせぬ。しつこくようやく五度目の相対にこぎつけると、小紫が自ら服んだ煙管を渡してくれた。涙が出るほど嬉しかった。
 ああ、おれはこいつに惚れてるんだ、と思ったものだ。
 手間をかけ金をかけ、夜具の中でその吸い付くような肌に触れたときの感慨は何物にも代えがたかった。
 だが、吉原はただ己が見初めた妓と床入りすることだけが目的ではない。それだけならば、堀沿いに並ぶ最下級の切見世で線香一本燃え尽きる間に事を済ませればいい話。あるいは、町場の湯屋に置かれたいま流行りの湯女ゆなを相手にすれば、さらに銭もかからず、面倒な手間もかからない。
 吉原は、出逢いから始まる。男は妓の心に響くよう誠心誠意尽くす。
 金をばら撒けばいいわけではない。いくら金を積もうと、妓がなびかなければ袖にされる。これが太夫ともなれば、なおさらだ。教養、芸事は一流、客はほとんどが大名や大身旗本。下手なお世辞や甘言を並べたところで、恥をかく。思いの丈をどれだけ伝えられるかにかかっている。そうして、ひとりの遊女と心も身体も繋がる。馴染みとして認められるのだ。
 恋の道はさまざまなれど、逢わねば恋の始まりもなし――。
 馴染みとなったとはいえ、吉兵衛はまだまだ客の中のひとりに過ぎない。小紫に惚れられるいろ、、になれるかどうかはわからないのだ。小紫には、間夫まぶもいろもいないと耳にしてはいても、揚屋に上がり、小紫が客を取っていると聞くと、胸底がちりちりする。
 吉兵衛が以前馴染んだ女郎は年季が明けて、吉原を退いてしまった。祝い金を渡してやったが、いまはどこでどうしているかと時折気にはなる。その女郎が可愛がっていたのが小紫だった。
「いい子なんだけど、情が強くてねぇ。だいたいあの子が嬉しそうに笑ったところを見たことがない」
 だからあまり客がつかないといっていた。吉さん、あの子を贔屓にしてやってと、甘い一言を耳許で囁かれたせいで、すっかりその気になったものの、確かにその通りだった。
 小紫は薄く笑うものの心底の笑顔は見せたことがない。
 吉原にいる女たちは、親に売られ、女衒ぜげんに買われ、あるいは自ら身を落とすなど事情はさまざまあろうが、おそらくひとりとして好んで選んだ生業でないことは確かだ。
 まことの笑い顔など、どんな女郎も見せないかもしれない。だが、小紫には笑ってほしくなった。その顔をおれだけに見せてくれと思うのだ。けれど、吉原ではそれも男の身勝手か。 
 吉兵衛は銚子を手に提げ、小紫の前にどかりと腰を下ろした。
「今日は雨降りだ。気が滅入るなぁ」
 小紫は盃を取ろうともせず、頷きもせず、吉兵衛をまなじりの上がった眼で黙って見つめ、
「たまのお湿りはようおざんす」
 さらりといった。


(このつづきは「小説 野性時代」2019年4月号でお楽しみください)
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