3/10(日)より配信中の「文芸カドカワ」2019年4月号では、佐藤亜紀さんの新連載「黄金列車」がスタート!
カドブンではこの新連載の試し読みを公開いたします。
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ハンガリーの大蔵省職員バログは、敵軍迫る首都から国有財産の退避を命じられる。
ユダヤ人から没収した品々から思い出すのは、亡くした妻のことだった――。
Ⅰ 一九四四年十二月十六日――16.XII.1944
バログが妻を亡くしたのは、七月の初めのことだった。
アパートの住人が物干し場に使っている屋根裏の明かり取りから、五階下の路上に転落したのだ。彼女は病院に運ばれ、バログが駆け付けた時には既に遺体安置所に回されていた。
葬儀やら何やらがあり、彼女には僅かながらも財産があった為、デブレツェンにいる義兄と話をして相続を処理する必要もあったが、ドイツ軍が進駐して来た春先に家族共々行方不明になった、と判るのにも一月掛かった。何もかもが混乱していた。義兄は目端の利く男だったので心配はしなかったし、妻が死んだ以上心配する理由もないとバログは考えたが、警察は義兄の件で訊くことがあると言って来た。異動先の外局の委員長が口を利いてくれなければ面倒なことになっていただろう。そのユダヤ資産管理委員会でも、政権が二転三転する度に起こる組織変更――しまいには、委員長は名目上の昇進で姿を消し、代りに内務省から憲兵大佐が送り込まれて来た――と、没収財産処理手順変更の濁流が彼を押し流した。山積みの書類を消化し、更に山積みの物品をショプロンやチルツの保管庫に送り出し、自分でも現地まで行っては戻りを繰り返して殆ど帰れない日々が続いた。
二重のごたごたは秋の終わりまで続いた。
仕事と雑事の洪水からどうにか普通の生活の岸辺に這い上がった日曜日、バログは遺品の整理を思い立ち、妻の洋服簞笥を開けてみた。中には黄色いワンピースが一着だけ下がっていた。妻が最後に仕立てたワンピースだった。彼女がそれを着て見せた時バログは、派手過ぎるんじゃないか、と言った。以来、着ているところを見たことはない。死んだ時も、別のものを着ていた。五十近い女には相応の、もっと地味な、着古した夏服だ。アパートや近所の知り合いだの何だのが現れて棺に納める時に着せたのも他の服だった。彼は殆ど空の簞笥の前で呆気に取られ、それから、泣いた。ひとしきり泣いてから、下の階の住人のところに行った。すぐ扉を開けて現れた女は見覚えのあるブラウスの上に見覚えのあるカーディガンを着込んでいて、妻のものが何も残っていないんだが知らないか、と訊くと、形見分けだから持って行ってくれて構わないって言ったじゃない、と答えた。そうだったか。そんなことを言ったか。彼女は哀れむように微笑んで、彼の鼻先で扉を閉めた。
食卓の上から、バログは室内を照らしていたカンテラを取り、電気の遮断器とガスの元栓を確かめる。大丈夫、どちらも切ってある。ストーヴは何日も消えたままだ。寝る為にしか帰って来なくなったアパートは、没収品保管庫と大差のない場所に成り果てている。ここで暮らし始めた時のことを思い出しかけるが、バログは忘れておくことに決め、片手に当座の着替えと書類を詰めた小さな手提げ鞄を持ち、もう一方の手でカンテラを提げて、顔に張り付いた無表情のまま、暗い冷えた部屋よりなお暗く冷え切った廊下に出る。
住人は殆ど逃げ出した後だ。カンテラを置いて扉を閉め、鍵を掛ける。階段を下りながら考える。管理人を起こすべきだろうか。鍵を預かって貰い、カンテラを渡す。寝惚け面の管理人に。暫く迷ってから火を吹き消し、身を屈めて管理人室の扉の脇に置く。部屋の鍵を添える。中庭の自転車の荷台に鞄を括り、押して外に出る。
夜明け前の通りは廊下よりなお冷えている。十二月の街路の寒さだ。カタリンが自分の身なりを厳しく確かめ、襟巻きを巻き直して送り出したことを思い出す。あの頃、廊下はまだこれほど冷たくはなく、街路も暗くはなかった。朝の六時ともなれば、空が暗くとも街は動き出していた。ごみの収集人がごみ箱の中身を荷車に空け、市電が走り、停留所へと急ぐ人影が街灯の光を過り、ペダルを踏んで橋を渡りながら川上を見ると、橋一つむこうの中央市場の窓に灯が見えた。
今は、街は無人だ。人はいるとしても息を潜め、家並みは暗い空に溶け込んでいる。
ドナウ川を渡る橋の袂で自転車を降り、バログは身分証を示す。矢十字党の制服を着た男の顔は無表情で、眼窩は黒く窪んでいるだけだ。ただ息だけが白い。風が橋のケーブルを鳴らす。川沿いの道には土囊があちこちに積み上げられている。いずれ高射砲か機関銃が据え付けられるだろう。ロシア軍は対岸に広がるペシュトの街路のむこう、二十キロの位置まで来ている、と、昨日、誰かから聞いた。今はまだ砲声も聞こえない。橋が真ん中からへし折れて川に沈んでいるところを、バログは思い描く。後にして来たアパートも町ごと消え去るだろう。他のことを考えよう。バログは痩せた背中を丸め、ペダルを踏む足を速める。例えばこの寒さはどうだ。まだ十二月だというのに。
何度か身分証を検められながら、バログはフェレンツバーロシュの操車場に着く。駅舎を閉ざす柵のところで憲兵に身分証を示そうとするが、かぶりを振られる。顔を覚えられたらしい。トルカイ曹長は、と訊くと、憲兵は無言で奥を示す。
バログは自転車を引いて中に入り、事務所の戸口の脇に立て掛ける。鞄だけ持って入ると、運転指令所のキラチコは既に来ており、事務所の中でストーヴに当たっている。彼とは前の週に、ドイツ軍が接収した列車の合間を縫う計画を立て、機関車を確保する手立てを練った。曹長もいる。バログはストーヴを囲む仲間に入り、手をかざしながらにこやかに、全て予定通りですか、と訊く。作り笑いだ。「九時の発車で問題はありませんね」
その件ですが、とキラチコは切り出す。「九時発車でセケシュフェヘルヴァル経由チルツまでは問題ありません。何度か待避線に入って貰うことになるので多少時間は掛かりますが、確約できます。追加の車輛もむこうに手配してあります。経験の長い機関士を手配しておきましたから、何かあっても彼が対処するでしょう。ですが」
「ですが?」
「機関車の方でちょっとした問題が生じました。チルツから一旦ブダペシュトに戻していただく訳にはいきませんか」
バログは唸る。「いや、それは」そんなことになればチルツで立ち往生だ。
「何日かチルツで停車するんですよね?」
三日、と曹長が口を挟む。
「三日、ということで」とバログは答える。「一応は考えています。実際には積み込みの作業量が不明なので、何とも」
「その間に一旦ブダペシュトまで戻して、ジュールまでやった後、チルツに返しますから」
「どこの列車です」
「国立銀行」
バログは溜息を吐く。国立銀行。知っている職員の顔を思い描く。委員長の名前を出して事情を説明したらどうだろう――だが、殆どの職員はジュールに疎開した後であることに思い至っただけだ。内閣さえショプロンまで逃げた。居残り組の撤収に使われて、その後はどうなる?
「大丈夫、返してくれますよ。ドイツ軍って訳じゃない」
「残念ですが」とバログは言う。曹長は満足そうに含み笑いをする。「国有財産を退避させるのです。ご理解いただきたい」
キラチコは考え込む。「わかりました。別口を当たりましょう」
「ご理解いただけて有難い。上司にも報告しておきますよ」
曹長と並んで、バログは自転車を押しながら操車場の引き込み線に沿って歩く。空は濃紺に明け始めている。雲ひとつなく冷え切った朝だ。貨物積み込みのプラットフォームが見えて来る。
憲兵隊は既に積み込み作業を終えている。曹長は自転車を預かると憲兵の一人に渡して積み込むように言う。バログは鞄から書類挟みを取り出す。
貨車の扉を順に開け、積荷を確かめる。積み上げられた木箱以外は乱雑そのものだ。木箱が足りなくて使った古いトランクが幾つもある。蓋のない木箱には封をした封筒が立てられている。担当の憲兵がチョークで書いた箱番号を読み上げ、バログは書類の一覧に印を付ける。事前に数えられチョークで書き込まれた封筒の数も、合致していれば印を付ける。丸めた絨毯の山にも、積み上げた麻袋にも、荷札で番号が付けられている。これも全て確認する。
確認を終えてプラットフォームに降りると、機関車が入線する。後ろ向きに走って来た機関車は雲のように蒸気を吐いて速度を緩める。ブレーキが一瞬、鳴る。蒸気の名残の中を抜け、連結棒をゆっくりと動かしながら惰行で入って来ると、緩衝器同士が軽く当たって停止する。作業員が機関車を連結する。
バログは時計を見る。八時だ。機関助士が、乗れ、というような合図をする。憲兵たちが、バログが降りたばかりの貨車に乗り込んで引っぱり上げてくれる。奥には木箱や乗客の身の回り品を収めたトランクに交じって、自分の自転車が積み込まれている。扉を開けたまま、列車は操車場の中を走る。二十五輛の貨車の殆どはまだ空だ。
駅舎裏の乗降用プラットフォームに付けると、貨車の大部分は後方にはみ出すことになる。バログが貨車と客車の連結を眺めていると、次長のアヴァル博士が現れる。局の立ち上げの時に省外から入った一人で、前職はヴォイヴォディナのどこかの市長だ。まだ若い。明るい色の髪をきちんと撫で付けて近視用の眼鏡を掛け、綺麗に髭を剃り上げて、双子用の乳母車を軽く揺すっている。慣れた手付きだ。顔色の悪い夫人は失神寸前のような様子でその傍にいる。荷物はまだ外なんだが、と言う。曹長が憲兵を取りにやる。他の憲兵は事務用品を先頭の食堂車へと運んでいくところだ。バログは夫人に、事務所でお待ちになってはいかがですか、ストーヴに火が入っていますよ、と勧める。
「いいえ、大丈夫です」と彼女は青白い強張った顔で答える。
「客車の暖房が効き始めるにはまだ暫く掛かりますが」
アヴァルは事務所に入るよう妻を促して乳母車を押して行く。事務所の扉の脇に乳母車を止め、双子の一人を抱き上げて夫人に預けると扉を押し開けて中に入らせる。もう一人を抱き上げて、お前はパパと一緒に行こうな、男同士だ、と言って、おむつで膨れた尻を軽く叩く。バログは鞄から書類挟みを取り出し、乗車予定者名簿を開く。
「食堂車は」
「連結しました」
「ナプコリは来るんだろう」
「母親連れです」
「高齢か」
バログはファイルに目を落とす。「七十二です。暖かくして来るよう言ってあります。車室も配慮しました。他に、監査課職員の舅夫妻がやはり七十代です」
アヴァルは軽く頷く。「客車は」
「鉄道の方で割振りは済んでいる筈です」
「確認しよう」
アヴァルはいきなり声音を変え、さあ列車だよ、嬉しいねえ、大好きだねえ、と言いながら歩き出す。赤ん坊は何か叫ぶ。確かにご機嫌だ。バログは曹長を呼び、お偉方が来たら事務所に入って貰うよう言い置いて後を追う。簡易寝台車に入ると、三段ずつ並んだ寝棚の脇の通路に立って、アヴァルは赤ん坊に眼鏡を弄られている。
「機関車は」
「国立銀行と取り合いになりましたが、確保しました。運転指令所の厚意です。顔の利く機関士も付けてくれました」
「有難い」と言って、アヴァルは赤ん坊を揺すりながら通路を歩いて行く。大人しいですね、とバログが言うと、見たことのないものがあるうちは大人しい、と答える。バログは書類に従って車室の割振りを説明する。前から三輛目に入ると、寝台車か、とアヴァルは言う。「助かるよ」
「二輛だけ、どうにか確保しました。乳幼児と老人がおりますから」とバログは答える。「三十分もすればだいぶ暖かくなるでしょう」
「いや、もう十分さ。お湯はあるかい」
「食堂車に厨房があります」
アヴァルは溜息を吐く。「双子は兎も角大変だ。倍以上だ」
先頭の食堂車で、アヴァルは足を止め、振り返って言う。「よくやってくれた。完璧だよ。個人的にも君には感謝したい」それから赤ん坊にバログを示す――さあ、おじさんありがとう、って言いなさい。お部屋もミルクも大丈夫だよ。
赤ん坊は、きゃー、というような声を上げて手を伸ばし、バログは僅かに身を引きながら作り笑いをしてみせる。窓を叩く音がする。曹長だ。バログが開けると、委員長が自宅を出ました、と報告する。二人は列車から降りる。
(このつづきは「文芸カドカワ」2019年4月号でお楽しみください)
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