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試し読み

【新連載試し読み 長野まゆみ「その花の名を知らず」】幻想奇譚「左近の桜」シリーズ、待望の新作。

本日2月27日(水)発売の「本の旅人」2019年3月号では、長野まゆみ「その花の名を知らず」の連載がスタート!

カドブンでは、この新連載の試し読みを公開します!

 1.もう森へなんか

 だれともなく、そこを森と呼んでいた。地図に記載もされず、境界もはっきりしない。ただ、木立が鬱蒼うっそうと茂ったあたりをさしていた。
 周辺には、おなじような緑地がいくつも点在する。古いほこらをかかえこんだ神域や、製材所が所有する林野も森と呼ばれるのにふさわしい条件をそなえていた。事実、ヤシロの森だとか、S屋の森といった通称を持っていた。
 けれども、なんの冠詞も注釈もなしに森と呼ばれるのは「そこ」だけだった。これといった目印もなければ、所有者の表示もない。にもかかわらず、森といえばひとつしかなく、だれもが了解している。あいまいにして限定的な森だった。
 森へは、町のどこからも道が通じていた。そのくせ、車の通りぬけには向かなかった。舗装も、地ならしもされていない。往来する人が長いあいだに踏みかためたところが、いつしか道になってゆく。
 しかし、もともと丘陵地の一部である森は、たいらになるのを拒み、たえず動いた。雨あがりに道が少しでもぬかるめば、すぐに小さな子どもの胴ほどもある木の根が地中から這いだしてうねり、蛇よりも盛んに蔓草つるくさがはびこるというふうだった。
 とはいえ、森があったのはもう五十年もむかしのことだ、と男は語る。わずかな沼地をのこして、いまではほとんどが宅地になった。もう、森の話をする者もいない。
 霊園行きのバスのなかである。彼岸を過ぎ、車内の混雑はさほどでもない。それでも、座席の半分が埋まるくらいに乗客がいるのは、この路線の昼間の運行本数がすくないためだった。
 乗客たちは昼下がりの眠気のせいか、まどろみがちだ。乗り降りも少なく、家並の影とひだまりがバスの通路をゆるゆると通りぬけてゆく。男はひとりだけ饒舌だった。

 桜蔵さくらは墓参りをするつもりで出かけてきて、駅まえで発車寸前のバスに飛びのった。あわただしくなったのは、直前の寄り道のせいである。路上で鍵をひろった。呪わしいことに、なぜかまぶしく光を放って桜蔵の注意をひいたのだ。気づいてしまった以上は素通りもできず、ひろって駅前交番に立ちよった。
 ちょうど道を訊ねている人がいて、たったひとりの巡査が地図をひろげて応対中だ。桜蔵は時計を気にかけながら、巡査の手がすくのを待った。使いこまれた地図は町名や番地よりもテープによる修繕や折れジワのほうが目立つ。その上を漂う拡大鏡は目的地を見失っているようで、動きが定まらない。時間ばかりが過ぎてゆく。
 ロータリーの待機所で時間調整をしていたバスがついに動きだし、乗り場へ向かう。
 巡査の道案内は、しばらく終わりそうもない。なぜなら、依頼人の婦人は行きさきについてのじゅうぶんな情報を持ちあわせていないのだ。番地も大家の名もわからない借家住まいの友人を訪問したいと云っている。
 犬の門標もんぴょうが九枚貼ってある。
 ——あれは、一年ごとに更新するでしょう。そこの家のマルタは九歳になるの。だから九枚。老犬だけど番犬としてはまだまだ優秀だって。
 犬の門標。あたかもそれが、番地よりも確実な目印だと云いたげな口ぶりだった。
 ——裏山で採れた木の芽を持ってきたから、いっしょに食べようと思って。さっと湯がいて、酢醤油でも、ごま和えでも。
 起きぬけの散歩でみつけて、摘みとった。せっかくだから友人と旬のめぐみを分かちあいたくなり、かっぽう着に長靴のまま新聞でくるんだ木の芽を手提げかばんにいれ、電車に飛び乗ったのだ。もう三べんも、婦人はおなじことをくりかえしている。そのたびに巡査は律義にあいづちをうった。
 霊園行きのバスは三十分間隔で運行する。桜蔵としては、つぎのバスを待つのは避けたい。いっぽうで、厄介を招きやすい性分を自覚する身でもある。持ち主不明の鍵をあずかるなどもってのほかだ。思案のすえ、届けを後まわしにしようときめた。やむを得ない。霊園の正門まえにも交番はある。桜蔵はきびすをかえし、出発しそうなバスに駆けこんだ。
 銀紙がひらり、と漂い、桜蔵の胸もとへ貼りついた。はらい落そうとして蝶だと気づいた。はねを閉じている。そのままにして空いている席にすわった。蝶はふたたび舞いあがり、車内のどこかへ消えた。
 駅ロータリーを出たバスは、対向車のすくない昼間の通りをゆっくり走る。窓ごしに、さきほど交番にいた婦人が横断歩道を渡る姿がみえた。ようやく訪問先の番地を確認できたようだ。犬の門標が九枚ならべてある家をめざして、バスの進行方向とは逆に歩いてゆく。
 墓参りのたび、おなじ路線バスに乗る桜蔵にとって、子どものころから見慣れた景色だ。しばらくは、通りに面して門がまえの大きな旧家がつづく。密に茂る垣根が目かくしとなり、庭のようすはうかがえない。屋根だけのぞく建屋も古めかしい。
 だが、駅から遠ざかるにつれて、さま変わりが目立ってくる。訪れるたびに、畑や雑木林が消えうせ、そのあとには外見のよく似た新築住宅が建ちならぶ。おなじ方向を向いて羽をやすめる水鳥のように、屋根の角度がそろっている。
 なじみの風景も、消えてしまえばそこになにがあったのかを思いだすのはむずかしい。むろん、思いだす必要もない。だが、消えゆく途中であれば在りし日の姿が目に浮かぶ。そこではまだ伝記が終わっていない。

このつづきは、「本の旅人」2019年3月号でお楽しみください。
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