第3回カクヨムWeb小説コンテスト特別賞受賞作が、ついに単行本になりました。
誰もが使うトイレの様々なお話がたくさんつまった、身近で不思議なショートショートです。
恋の話に下品な話、殺人事件だって起こるかも?「真犯人は個室にいる!」なんてね。
トイレだからってクソッタレだなんて馬鹿にしないでください。トイレはすべてを受け止めてくれますから。
読みふけって流し忘れちゃったなんてないように、ご注意を!
証拠隠滅
「帰るわー」
スマートフォンに映し出された夫からのメッセージを見て、彼女は驚いた。
やばい。どうしてこんなに早いんだ。「今日は飲んでくる」と朝言っていたはずだ。だから今日決行したのに。
「飲んでくるんじゃなかったの?」
彼女はメッセージを送信する。
三ヶ月も前から念入りに計画していたのだ。決行するのに必要なもののリストを作成し、資金も調達した。準備から決行、証拠隠滅までに掛るおおよその時間も把握した。
「ああー、飲みはなくなったよ。飯食ってないからよろしく」
夫は夕飯を準備しろと要求している。夕飯を作る時間など果たしてあるだろうか。
何度も頭の中でシミュレーションした。夫には絶対にバレてはいけない。完璧に証拠を隠滅し、普段と変わらぬ生活をする自信もあった。
「分かった。今から急いで作る」
彼女は夫に返信した。今から作ることを強調しておけば、夫が帰ってきた時に、万一夕食の準備が間に合っていなくても言い訳になるだろう。
急いで行うべきことは夕食の準備ではない。とにかくコイツを早くどうにかしなくては。彼女は目の前に広がる光景を見て唖然とした。
夫の会社から自宅までは、電車と徒歩で二十五分だ。夫のメッセージに気がつかず、既に受信から十五分経過していた。
夫の帰宅まで残り十分を切っている。
計画ではバラバラにした後、庭に穴を掘って埋めようと考えていた。臭いがキツいだろうから、深い深い穴を掘って。
そのために鉄製のスコップまで準備したのだ。コイツを始末するのにここまですることが馬鹿げてると思うこともあった。
しかし、こんなことがバレてはいけない。完璧に隠す必要があるのだ。
しかし穴を掘っている時間などない。夫の帰宅まで八分もない。
こんなことなら先に穴を掘っておくべきだった。こんなに準備をしていたのに、目の前にした途端、衝動に負けてしまった。
八分で証拠を隠滅する方法を考えなくては……。
ゴミ収集場所に棄てに行く――いや、そんなことをしてはすぐに見つかってしまう。そもそも今日はゴミの日ではない。
ならば、勝手口にある生ゴミのポリバケツに入れるのはどうだろうか。危険だ。危険すぎる。ゴミ収集場所よりも危ない。これこそすぐに見つかってしまう。
コンビニのゴミ箱はどうだ。だめだ。行って帰ってくる時間的余裕がない。それに夫以外に見られる可能性も出てくる。知人にでも会ったらそれこそアウトだ。
そうだ、ミキサーで粉々に粉砕してしまおう――いや、これも無理だ。こんな大きな胴体、いちいちミキサーになんて入れられないし、八分じゃ粉々にしきれない。しかもミキサーにまでも臭いがついてしまう。
彼女は冷たくなった胴体を見つめた。
どうしよう。
その時、スマートフォンから新着メッセージを受信した音が鳴った。
「駅ついた」
夫はご丁寧にも、今の居場所を連絡してきた。普段、こんなことしないのに。もしやバレているのではないか。
どうする。あと五分。五分しかない。
そうか。彼女は何かを閃き、スマートフォンを手に取った。
「あ、そうだ、たまご買ってきて」
夫にメッセージを送った。
よし。これで時間を稼げる。
さて。コイツの処分をどうしようか。本当に時間がない。
彼女は部屋を見回した。そして閃いた。
そうだ。トイレだ。トイレに流してしまえばいいのだ。バラバラにしたパーツを何回かに分けてトイレに流してしまえば、後はどうなろうと関係ない。
下水まで探すことはないだろう。
彼女は早速、散らばったソレをかき集めた。トイレに流すにはもう少しだけ切り刻んだ方がいい。
急がば回れだ。一気に流して詰まったりしたらそれこそ意味がない。
専用のハサミで一気に切り刻む。堅くて刃が入らない胴体は包丁を思いっきり振りかざし分断する。
手に臭いが染み付く。あとで洗わなければ。
ビニール袋にそれらのパーツを入れ、トイレに持ち込んだ。
ばらばらばら、と便器に入れ、流す。パーツが渦を巻くように消えていく。
いいぞ。その調子だ。
彼女は次々とトイレに流していった。
「ただいまー」
夫が帰ってきた。
「おかえりなさい。いま、ご飯作っていたところよ」
彼女は台所から顔を出した。台所からは味噌汁のいい匂いがする。
「たまご、買ってきたぞ」
夫がコンビニの袋を渡した。
「ありがとう。すぐ出来るから部屋で待ってて」
「ああ」
夫はリビングルームへ向かっていった。
「お、今夜はカニか」
「え……?」
彼女は言葉を失った。何故知っているのだ。
「ほら、これ」
夫はテーブルの上に置かれている「タラバガニ」と書かれた包装紙を指差している。
しまった。完璧に証拠隠滅したと思ったのに。包装紙のことをすっかり忘れていた。
夫に内緒で食べた特選タラバガニ。へそくりを貯めて、専用のカニバサミを買って。今日は一人でカニ三昧だったのだ。
「ん……違うのか?」
夫はもうカニが出てくるものだと思っている。
彼女はカニバサミを握った。
ワイド水流が止まらない
誰か止めてくれ。ワイド水流を止めてくれ。
俺はショッピングモールのトイレにいる。そしてもう三分もこうしてお尻洗浄の水流を浴び続けているのだ。よりにもよって「ワイド」、しかも水流「強」である。尻の周りがびしょびしょだ。
短時間なら気持ち良いが、こうも長い時間浴びているともう不快でしかない。
壁の操作パネルの「止」を押しても止まらないのだ。何度押しても、勢いが弱まることがない。止めて。ワイド水流止めて。
トイレには軽やかなBGMが流れている。時々セールの案内が流れる。
しかし俺の頭の中はパニックだ。何故か80年代に流行った有名な曲が流れている。パニックにふさわしく繰り返しサビの部分をループしている。
操作パネルの電池切れか故障のようだ。
俺は座ったまま辺りを見回した。背面の壁に温水便座の電源コンセントが見える。
届かない。立ち上がると同時に辺り一面がワイド水流の餌食になってしまう。
外にも出られない。助けも呼べない。孤独の中、ワイド水流は無情にも俺の尻を洗い続けている。
もう五分は洗われている。尻が、尻が痛くなる。
俺は決心した。濡れるのを覚悟で立ち上がり、すぐに蓋を閉めようと。今考えられる中で、最小限の被害に抑えられる方法だ。
よし。
一呼吸し、一気に立ち上がった。ワイド水流が的を失い、空中に放出される。
ズボンを降ろしたままの惨めな姿で、勢いよく振り返った。
一瞬、スローモーションのように、ワイド水流から放った無数の水玉が宙を踊っているのを見た気がする。
しかし次の瞬間、顔から上半身に掛けて、ワイド水流が降り注いだ。
「ウワァッッッッ!」
叫びながら、トイレの蓋を閉じた。ワイド水流はトイレの裏蓋めがけて、今も水を放出している。
尻も顔も、上半身もびしょびしょに濡れた俺は、その場に座り込み、ため息をついた。
ふぅ、止まらない。
>>雹月 あさみ / イラスト:ヨシタケ シンスケ『トイレで読む、トイレのためのトイレ小説』