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試し読み

【第九回山田風太郎賞 候補作試し読み】湊かなえ『ブロードキャスト』

過去一年間で最も「面白い」と評価されたエンタテインメント小説に贈られる山田風太郎賞。その第9回の候補作品のうちKADOKAWA刊の3作品、垣根涼介著「信長の原理」、恒川光太郎著「滅びの園」、湊かなえ著「ブロードキャスト」の冒頭約40ページを特別公開!

陸上の夢をあきらめ、まさかの放送部に入部した僕。
全国放送コンテストに出場できるのか――。
夢と友情、嫉妬と後悔。大人への反発。
湊かなえだからこそ書けた、心ふるわす新青春小説。



 序章

 
 中学三年生、最後の全国大会へと繋がる駅伝の県大会で、一位のチームに一八秒差で負けたことが、その時点での僕の、人生において一番悔しい経験となった。
 三区を走った僕は、一位でタスキを受け取り、その順位をキープしたまま、四区の選手に繋いだ。タスキを渡したと同時に、役割を果たせた達成感が込み上げてきたのに、最終走者が二位でゴールした瞬間から、もしも、もしも、の後悔が始まった。
 コースは三キロメートル×六区間。一人があと三秒ずつタイムを縮めていれば、とまず悔やんだ。無謀な「もしも」ではない。全員が自己ベストを更新した地区大会の記録を出せていたら、一八秒の差を縮めるどころか、一分以上の差をつけて優勝できていた。
 僕のタイムは、自己ベストを五秒下回っていた。だけどそれは、自己ベストに次ぐ好記録で、自分としては、走り慣れないコースでなかなかいいタイムを出せたと、満足さえしていたのだ。
 多分、他のメンバーも僕と同じようなものだったはずだ。誰かが特別、不調だったわけではない。言いかえれば、皆がそれぞれあと三秒速く走るということは、決して不可能ではなかった、ということだ。僕を含め、走ったあとに、倒れ込み、自力で起き上れなかったヤツもいない。
 そういうことを、自分の頭の中では、何周も思いめぐらせているのに、顧問やチームのメンバー以外のヤツから言われると、はらわたが煮えくり返るような気分になる。
 帰りのバスの中で、座席から後頭部だけ見えているおっさんが、同様のことを言っているのを聞いたとき、ギュッと胸の中心を掴まれたように息苦しくなり、嫌な味のつばが込み上げてきた。
 応援に来ただけのおっさんがわかったような口を利くな。秒単位の差など、誤差の範囲のようなもので、ゴール手前で死ぬ気でダッシュすれば巻き返せたかもしれないのではないか。などという台詞は、自分が走ったあとの口で言ってみろ。
 そう誰かが言ってくれるといいのに、と周りを見ると、通路を挟んでおっさんの隣に座っていた、山岸良太やまぎしりょうたと目が合った。
 酷いよな、というように、おっさんの方に顎をしゃくってみせると、良太は僕に、ゴメン、というふうに片手を上げて、おっさんの方を向いた。
「父さん、やめてよ」
 良太のお父さん? 息子に注意されたおっさんは、バツが悪そうに咳払いすると、腕を伸ばしてわざとらしく欠伸をしてから、静かになった。寝たふりをしたのだろう。
 良太はもう一度、ゴメン、というふうに僕の方を見たけれど、僕は首を小さく横に二、三回振るしかなかった。
 良太のお父さんなら、先の言葉を口にする権利がある。今日の結果を悔しがる権利が、充分にあるからだ。
 そこで、別の「もしも」が浮かぶ。
 首を伸ばして、最前列の席に座っている陸上部顧問の村岡むらおか先生に目を遣った。だけど、帽子をかぶった後頭部だけでは、どんな表情なのか想像することができなかった。
 先生の頭の中に「もしも」はないのだろうか。後悔していないのだろうか。
 もしも、山岸良太を出していたら、と。

 良太は一年生のときから、陸上部で、長距離部門のエースだった。
 僕と良太は、小学校は別だったけれど、市の陸上大会で何度か一緒になることがあった。三〇〇メートルのトラックを五周する一五〇〇メートル走で、二位の選手に、周回差をつけて優勝するヤツ。
 ハンディビデオを片手に、いつも大会を見に来ていた僕の母さんは、良太のことを「カモシカくん」と呼び、彼が出る種目も、毎回録画していた。息子だけでいいだろ、とあきれながらも、再生動画に引き込まれるのは、僕の方だった。
 良太の走る姿を見ていると、なぜか「サバンナの風」という言葉が浮かんでくる。アフリカに行ったこともないし、どんな風が吹くのかも知らない。ただ、こんなふうに走ることができたら気持ちいいだろうな、と僕は良太のフォームを頭の中に焼き付けていった。
 一〇〇メートル走で調子がよければ三位の賞状をもらえる程度の僕など、良太の視界の端にも入っていないはずだと思っていた。
 市立三崎みさき中学に入学し、先に声をかけてきたのは、良太の方だった。
 ――町田圭祐まちだけいすけくんだよね。陸上やってた。放課後、一緒に部活見学行こうよ。
 驚いた僕は、「ああ」だか、「うん」だか、歯切れの悪い返事をしただけだ。
 いや、僕の足の速さだったら、陸上部でそれほど活躍できそうにないから、テニス部かバスケ部に入ろうと思ってるんだけど……、などと脳と口が直結していないタイプの僕は、突然の出来事に対して、思ったことを口にできたためしがない。
 そのうえ、憧れている相手から声をかけられたのだから、しばらく考えたあとでだって、否定の言葉など返せるはずがない。
 そう、僕は良太に憧れていたんだ。
 だから、誘われるまま陸上部の見学に行き、その日のうちに入部を決めた。普段、学校での出来事を母さんに報告することは、あまりなかったけれど、このことだけは、夕飯時に自分から話した。
 ――そういう出会いは大切にしなきゃね。
 母さんは、まるで僕が芸能人と知り合いになったかのように喜んだ。
 ――でもさ、陸上部って、他の部活に比べて保護者会が多かったり、試合の送迎なんかもしなきゃならないらしいよ。
 我が家は母子家庭だ。父さんは僕が小学校に上がる前に病死した。それ以来、看護師をしながら一人で僕を育ててくれている母さんに、部活のことで負担はかけたくなかった。
 ――大丈夫、そういうところに顔出して、知り合いをたくさん作っておいた方が、受験のときとかに、いろいろ教えてもらえて助かるでしょう。
 それまで、母さんの口から、ママ友やランチ会の話題が出たことはなかった。
 ――じゃあ、入部届を出すよ。まあ、うちの学校が強いのは、駅伝とかの長距離部門らしいから、僕が遠征に行くことはほとんどないだろうし、車は大丈夫なんじゃないかな。
 僕は短距離をするつもりでいたのだ。
 得意、不得意、というのは自分で判断するものではないのだと、僕はこのあとで知る。
 陸上部に入った最初の半月は、専門種目を定めるため、男子一二名、女子一〇名の新入部員は、短距離、長距離、跳躍、投擲とうてき、すべての種目の測定を行った。
 新入部員の中には、自分はこの種目がやりたい、と顧問に自己申告するヤツもいたけれど、僕はしなかった。一〇〇メートル走のタイムが新入生の男子の中では一番よかったため、短距離部門に選ばれることを、信じて疑わなかったのだ。
 だから、顧問の村岡先生が「長距離部門……」と、まず、三〇〇〇メートル走の測定で圧倒的に一位だった良太の名前を挙げ、次に二位だったヤツの名前を、そして、三番目に僕の名前を挙げたときには、同姓同名のヤツでもいただろうか、と左右に首を振り、確認してしまった。
 しかし、町田圭祐は僕一人だけだった。
 長距離部門に選ばれた男子は四人。村岡先生が他の部門を発表しているあいだも、何かの間違いではないかと考え続けていた。僕は三〇〇〇メートルの測定で四位だった。三位だったヤツは、一〇〇メートルのタイムが僕より遅い二位だったのに、短距離部門で名前を呼ばれた。
 そもそも僕は長距離走が苦手だと自分で思っていた。小学校のマラソン大会でも、前半は上位につけていても、後半になると、ガクッと順位を落としていたものだ。
 スタミナ不足、と母さんに言われたことがある。これは、看護師として何か根拠をもって言ったのではなく、単に、牛乳嫌いの僕に、毎日飲ませるための口実にしていただけのはずだ。けれど、確かに、小学校の陸上教室で、僕は誰よりも先にへばっていた。
 測定は二年生の先輩がしてくれていた。記録票に記入ミスがあったのではないか。その結論に達し、部活終了後、村岡先生を追いかけた。自分から教師に話しかけたのは、このときが初めてだったのではないか。
 ――先生、僕、短距離の記録の方がよかったですよね。
 おそるおそる、そう訊ねた。
 ――確かに、今回の記録は短距離の方がよかったけど、町田の走り方は長距離ランナー向きなんだよな。
 村岡先生は一歩下がると、僕の頭の先からつま先までをサッと眺めて、そう言った。記録ミスではなかったようだ。だけど、とすぐに思った。
 僕が長距離向きに見えたのは、三〇〇〇メートル走をする際、僕の走り方が良太を真似たものになっていたからではないか。故意にではない。母さんが撮った良太のビデオを見ながら、こんなふうに走りたい、と頭に焼き付けた姿は、本人の背中を追ううちに、自然と自分の姿と重なり、再現できてしまったのではないだろうか。
 しかし、そんな説明をする前に、村岡先生はこう続けた。
 ――町田がどうしても短距離をやりたいっていうなら、そっちでもいいけど。山岸良太も入部して、うちの部で全国を目指せる団体種目は長距離、駅伝だけだと思うし、おまえなら、その中心メンバーになれると……、俺は信じてる。
 全国なんて大袈裟だな、と白けた気分になった。普通の公立中学なのに、と。
 熱血教師は小学生のころから苦手だった。がんばってお母さんを喜ばせてあげようね、などと、ひとり親だからというだけで、他のヤツらよりもがんばることを強要され続けてきたのだから。
 だけど、心の片隅で、全国大会に出られたら、母さん、ものすごく喜んでくれるだろうな、とも思った。それがひとり親だからということに由来するのか、僕にはわからない。
 結局のところ、「じゃあ」とか、「はい」といった曖昧な返事をして、僕は陸上部の長距離部門の選手となった。
 皆に遅れて自転車置き場に行くと、良太が一人で待っていてくれた。
 ――短距離に変えてもらったの?
 良太には、僕が先生のところに行った理由がわかっていたようだ。僕は首を横に振った。
 ――よかった。村岡先生に選ばれたんだから、間違いないはずなのに、もったいないよって、説得しようと思ってたんだ。
 良太が言うには、村岡先生は三崎中学の陸上部OBで、大学生のときにはあの正月駅伝にも出場したことがある、長距離ランナーだったらしい。体育ではなく、社会科の先生が、そんなにすごい人だったとは思いもしなかった。
 赴任したての昨年の駅伝大会では、それまで地区予選を突破するのもやっとだったチームを、県で一〇位にまで押し上げたという。
 ――全国、行きたいよな。
 良太のそのひと言は、僕の中の全国というイメージを、遠くにふわふわと浮いているものから、しっかりと形を成し、手を伸ばせば届きそうなところにあるものへと変えた。
 中学生活、どこを切り取っても、走らなかった日は一日たりともない。
 そして、僕たちは三年生になり、後輩部員にも恵まれ、全国がいよいよ夢で終わらないところにまで漕ぎつけた矢先に……。
 良太が両膝を故障した。
 夏休みの前半に手術が行われ、個人種目で全国大会の出場が期待されていた、予選大会への出場は、あきらめなければならなくなった。けれど、二学期から復帰できたため、中学最後の全国へ繋がる、秋の駅伝大会には間に合わせることができた。
 三〇〇〇メートルの記録も、自己ベストを出すことはまだできなかったけれど、部員の中で一番速いことに変わりはなかった。
 村岡先生は地区予選大会のメンバーから良太を外した。
 上位三チームが県大会に出場できるため、良太なしでも突破できることを見越して、良太の足に負担をかけさせまいとしたのだ。
 良太がいない。失って初めて気付く、という言葉があるように、良太の欠場はタスキの重さを二倍にも、三倍にも増した。これまでは、全力を出し切ったつもりでいても、良太がどうにかしてくれると頼る気持ちがあったのだ、ということに気付かされた。
 良太と、良太の代わりになったメンバー、二年生の田中たなかとのタイム差を、自分が縮めなければならない。皆がこの思いで走ったのだろう。その結果が、全員が自己ベストを更新して区間賞を取るという、完全優勝だった。
 だから、村岡先生は決めたのだ。
 大会一週間前の練習後、村岡先生はグラウンドに部員全員を整列させた。男子の長距離部門だけでなく、地区大会で予選落ちした女子長距離部門も、三年生が夏の大会で一足先に引退した、男女の短距離部門も。
 部員全員の前で、駅伝メンバーの発表が始まった。
 一区から順に、名前を呼ばれたら「はい」と返事をして挙手をし、前に出て行く。県大会のコースでは、エース区間といわれる二区で、良太の名前が呼ばれるのを僕は待っていた。だけど、聞こえてきたのは、二年生のエースの名前だった。
 えっ、と口に出したヤツはいなかったけれど、明らかに空気が揺れるのを感じた。
 三区で自分の名前を呼ばれたときも、動揺はまだ続いていて、代返のような、間抜けな返事をしながら、僕は前に出て行った。
 先生は良太をアンカーにもっていくつもりか。もしくは、地区大会と同じ並び順になるよう、繰り上がりの田中が走った、五区に指名するつもりか。それは少しもったいないのではないか。
 部員たちと対面するような恰好で立った僕は、チラチラと良太の方に目を遣った。いつもと変わらない、風を切るような走り方と同様の、何を考えているのかいまいち把握できない、ひょうひょうとした表情で、良太は先生の方を見ていた。
 五区で田中の名前が呼ばれた瞬間、今度は、「えっ」という声が至るところから上がった。田中本人でさえ「えっはい」と、とまどったような返事をし、悪いことで呼び出しをくらったように、頭を下げたまま前に出てきた。
 六区のアンカーの名前が呼ばれ、前に並んだのは、地区大会とまったく同じメンバー、走り順となった。
 良太の名前は補欠一で呼ばれた。良太はメンバーに選ばれたときと同じように返事をして、前に出てきた。つい、視線が膝へ行ってしまう。
 ケガがまだ完治していなかったのか。悪化してしまったのか。でも、良太は毎日皆と同じ練習メニューをこなしている。昨日、最終予選のように行われた三〇〇〇メートル走も、良太が一位だった。
 僕は村岡先生の言葉を待った。
 どうしてこのメンバーを選んだのか。先生はそれを伝えるために、部員全員を集合させたはずなのだから。
 ――県大会出場メンバーは以上の通りだ。今年は、各地区大会で強豪校が軒並み予選落ちするという、波乱の事態が起きた。
 これは僕も知っていた。優勝候補の学校の第一走者が脱水症状を起こして倒れ、タスキを繋ぐことができなかった。こういった、メンバーの誰かが走行中にトラブルを起こし、棄権するという事態が、強豪校に続けて生じたのだ。
 他人の、他校の、不幸を喜んではいけないけれど、運は僕たち三崎中の味方をしてくれていると感じた。おまけに、三崎中は今年、奇跡のチームと呼ばれるくらい、選手に恵まれている。多分今年限りだ。今の一年生に期待できる選手はいない。
 全国大会に出場できる、最初で最後のチャンスだと、皆が思っているはずだ。
 なのに、良太が選ばれていない。
 ――良太を控え選手にしたのは、県大会のコースが、どの区間も、激しいアップダウンの続く、膝に負担がかかるコースだからだ。
 確かに、どの県もこんな山奥のコースを走っているんだろうか、と去年走った際に思った。強豪校が山間部の地域に多いことにも納得できた。
 県大会で足を壊して、全国大会で走れないのでは、他のメンバーを全国に行かせるために、犠牲になるようなものだ。
 ――全員が地区大会通りのタイムを出せば、優勝は夢じゃない。いや、良太を全国大会で走らせたい、という気持ちをもって臨めば、県大会でも、全員が自己ベストを更新できると俺は信じている。
 目だけを動かして左右を見ると、皆、先生をじっとみつめながら力強く頷いていた。
 ――選手の思いだけじゃない。控え選手、それにも選ばれなかった長距離部門のメンバー、種目は違えど、共に切磋琢磨してきた陸上部員全員、そして、支えてくれた保護者の方々。すべての思いがこめられたタスキを繋ぐのが、駅伝なんだ。
 村岡先生の言いたいことは理解できた。だけど、最後まで、僕は頷くことができなかった。できない理由もわからなかった。
 しかし、メンバー発表時のどよめきやとまどいが漂った空気は、先生が話し終えたころには、すっかり晴れているように感じた。
 解散後も、良太はもちろん、他の三年生の部員も、駅伝メンバーについて不服を唱えることはなかった。僕にしても、良太が納得してるならまあいっか、くらいにまで気持ちは落ち着いていた。
 帰り道が逆方向なら、良太はあの話を別のところで僕にしただろうか。互いに、スマホは持っていない。
 ――俺のため、じゃない。
 自転車に乗った背中越しに、良太の吐き出すような声が聞こえた。
 ――えっ?
 振り向くと、声の調子とは裏腹に、良太の顔はいつも通りのひょうひょうとした表情だった。だけど、僕は良太の顔は膝に立っていられないほどの激痛が走ったときも、これと同じだったことを思い出し、自転車を停めた。良太も自転車を停め、僕の方をまっすぐ向いた。
 ――昼休みに、村岡先生に呼び出されたんだ。今日、メンバー発表をするって。
 ――やっぱり、先に良太に伝えてたんだ。
 ――だけど、さっき、みんなの前で話したことだけじゃない。もちろん、膝のことも言われたけど、むしろ、そこでやめておいてほしかったよ。まあ、俺が、全国で走れなくなってもいいから県に出たい、って言ったのがまずかったんだろうけど。
 ――良太が走りたいって言ってんのに、外さなきゃなんない理由なんてあんの?
 まったく思いつかなかった。良太は口を開いて、続きを話そうとしたけれど、あっ、と何か思い出したふうに、顔をしかめた。
 ――何? 僕に関係すること?
 ――そうじゃないけど……。気を悪くしたらゴメン。田中のお父さんが、癌か何かの病気なんだってさ。今年いっぱいもつかどうかの。
 良太が言い淀んだ理由がわかった。
 ――田中がお父さんを喜ばせたいから、県大会も走らせてほしいって、村岡先生に頼んだってこと?
 僕が訊ねると、良太は首を横に振った。
 ――多分、田中や田中の家族が頼んだんじゃないと思う。
 確かに、メンバー発表で名前を呼ばれたとき、田中は心底驚き、とまどっているように見えた。
 ――先生は田中の担任だから、お父さんの病気のことを知って、見舞いにでも行ったんじゃないかな。そこで、いつもの調子で熱くなって、息子さんもがんばって全国大会を目指すので、お父さんも負けないでください、みたいなことを言っちゃったんじゃないかと思う。
 良太の想像を、僕も鮮明に思い浮かべることができた。もしかすると、見舞いにも行かず、余命わずかという情報だけで、先生が勝手に暴走しているんじゃないかとも考えた。
 ――まあ、田中は地区大会、本当にがんばったからな。自己ベスト、四〇秒更新だっけ? 正直、あんなに速く走れるとは思わなかった。まだまだ伸びそうな気もするよ。
 良太は田中を憎らしく思ってはいないようだ。
 ――だからって、良太を外すことないじゃん。
 ――じゃあ、誰を外すの?
 僕はすぐに答えることができなかった。学年順でいえば、もう一人の二年生メンバーだけど、彼は良太に次ぐエースだ。三年生メンバーを誰か外す? 田中の記録が上がったとはいえ、僕を含め、田中より遅いヤツはいない。
 ――先生がメンバー全員に田中のお父さんのこと話して、頼む、誰か一人外れてくれ、って頭下げて、引き受けるヤツなんている?
 僕は無理だ。
 ――逆に、そんなことしたら、田中自身が辞退するだろうし。俺の膝を心配するふりをするのが、一番まるくおさまるんだよ。
 体の中心が震え、徐々に全身に広がっていった。そんなのおかしいよ、という叫びが喉元まで込み上げている。それをゆっくり飲み込んで、良太に訊ねた。
 ――あきらめていいの?
 他人である良太のことで、歯を食いしばっていないと震えが止まらないほどの腹立たしさが、全身を覆っているのに、良太本人は、まるで他人事のように、淡々と話している。
 僕は、良太が答える前に、言葉を重ねた。怒りを、体内から放出するように。
 ――このことを三年全員に話して、村岡先生に抗議しに行こうよ。どうせ、先生は一時的な感情に流されているだけなんだから。僕らがこの三年間、どれだけ練習を重ねてきたかは、先生が一番よく知ってるはずだ。全員で訴えれば、先生も間違ってたことに気付くはずだよ。
 ――ありがとう。
 良太は少し照れたように笑った。シュッと消火剤をかけられたような気分になる。
 ――いや、そうじゃなくて……。
 僕に怒りを再燃させるエネルギーは残っていなかった。もやもやとした思いがくすぶっているだけだ。
 ――俺だって悔しかったけど、理由がバカバカしすぎて、逆に、もういいやって思ったんだ。でも、やっぱり、誰かに聞いてほしくて。圭祐が怒ってくれたおかげで、もう本当に、どうでもよくなったよ。
 ――そう……、なんだ。
 言われてみれば、自転車を停めたときよりも、良太の顔は晴れやかに見えた。
 ――それに、決意もできた。
 僕は一瞬、良太が陸上をやめると言い出すのではないかと、ドキリとした。どうか違いますようにと、おそるおそる訊ねた。
 ――何の?
 ――推薦。青海せいかい学院から来ているんだ。
 私立青海学院高等学校は、県内有数のスポーツ強豪校だ。特に駅伝では、ここ二年は出場を逃しているけれど、全国大会の常連校として知られている。
 ――すごいじゃん。まあ、良太なら当然か。
 ――そんなことない。この夏の大会に出場できなかったから、三〇〇〇メートルの記録も、去年の県大会のタイムのままだし。
 四位入賞した好記録だ。
 ――やめとこうかなって、迷ってたんだ。
 ――ええっ、どうして? もったいない。
 もしも、自分に来たら、夢のような話なのに。
 ――県内のライバルたちはみんな、二年生のときより、うんと伸びている。だけど俺は、今の記録が人生のベストタイムになるかもしれない。
 そんなことを言われると、視線は良太の膝に行ってしまう。ジャージの長ズボンの上からでは、何もわからないけれど。無責任に励ますこともできない。
 ――だから、今回の駅伝には、願掛けのような思いもあったんだ。去年のタイムを一秒でも上回ることができたら、まだ終わりじゃない。青海学院に行こうって。
 ――それじゃあ、なおさら……。
 村岡先生に対する怒りがまた込み上げてきた。練習している姿だけではない。先生は良太がケガと戦い、克服する姿だって、間近で見ていたはずじゃないか、と。
 ――いや。自分が勝負をかけるのはこんなところでじゃない、って思うことができた。私立の強豪校なら、絶対に家庭の事情なんかで選ばないはずだから。実力でレギュラーを勝ち取って、全国で走ってやるんだ。
 良太の視線は僕の方を向いているけれど、僕を通り越し、もっと先を見ているように感じた。
 僕は県大会のことで頭がいっぱいで、そのあとのことなどまったく考えていなかった。受験勉強をして、自宅から近い公立高校で、陸上部に入るのかどうなのか……。
 ところが、良太はとんでもないことを言い出した。
 ――圭祐も、青海学院行こうよ。陸上部でまた一緒に走ろう。
 僕はぽかんと口を開けたままの、間抜けな顔で、良太を見返したはずだ。
 ――いや、いや、いや……。僕が青海学院なんてありえないよ。第一、良太みたいに推薦の話だって来るはずないし。
 ――一般入試で入ればいいじゃん。
 ――いや、それだって……。
 青海学院はスポーツに特化しているだけの学校ではない。
 人間科学科という、全員がスポーツ推薦で入るコースの他は、名称こそ文理科という単純なものだけれども、超がつくほど偏差値が高い。県内有数の進学校でもあるのだ。
 ――圭祐の成績なら、この冬からスパートかけたらいけるよ。
 ――そうかな。でも、授業料がな……。
 通学できない距離ではない。しかし、公立の三倍かかるといわれる授業料を、母さんに負担してもらうのは気が引ける。
 ――奨学金制度もあるらしいよ。
 前から、僕のために調べてくれていたような口ぶりだ。それでも、まだ抵抗はある。
 ――あのさ、良太が誘ってくれるのは嬉しいけど、僕じゃなくてもいいんじゃない? 青海入ったら、速いヤツ、いっぱいいるわけだし。
 謙遜けんそんではない。そもそも、僕なんか、青海学院に受かっても、陸上部に入れてもらえるかどうかすらわからない。
 ――全国大会を目指してるチームの選手が何言ってんの?
 ――あっ……。
 県大会に出ない良太にとっては、中学での活動は、長い陸上人生の通過点。そんなふうに勝手に解釈し、県大会で走る自分にとっては、陸上人生のゴールだと、無意識のうちに決めつけていた。
 ここがマックス。人生のベストタイム。
 良太が言っていたことと同じ思いを、僕こそが持っていた。だから、良太は僕に、次の道を示してくれているのか。
 ――圭祐はもっと速くなる。
 ――そう、かな……。とりあえず、県大会でベストを尽くすよ。
 嬉しい! ありがとう! そんな単純な言葉を口にすることができず、僕は確実にできそうなことだけを言って、自転車のハンドルを強く握りしめた。
 良太はそれを、帰ろう、の合図だと勘違いしたのか、「じゃあ」と自転車にまたがった。
 互いに無言のまま自転車を走らせる目の前には、真っ赤な夕焼けが広がっていた。
 ペダルを一漕ぎするごとに、全国大会に行けたら、青海学院に行って、陸上部に入ろう、という思いが強まっていった。

 バスの中にはどんよりとした空気が漂ったままだ。
 あの日のことを思い返しながら、僕はもう一度、村岡先生の方を見て、それから、良太の方を見て、目を伏せた。
 全国大会を逃した悔しさで忘れていたけれど、今日で引退ということになる。明日から何をするのだろう。
 青海学院を目指して勉強に励む、という選択肢も僕の中から消えた。母さんにまだ相談していなくてよかった。
 母さんはバスの一番後ろの席に、他の保護者たちと並んで座っている。行きは、おやつなんかを食べながら、駅伝とは関係ない話で盛り上がっていたけれど、今は、おしゃべりをしている人など誰もいない。
 下手な慰めの言葉をかけられるよりは、静かな方がマシだ。母さんからは、バスに乗る前に「お疲れさま」とひと言、泣き笑いのような顔で声をかけられただけだ。
 学校に着いて、村岡先生の総評を聞き、解散してから、みんな、それぞれ本当の感情を表すのではないかと思う。
 と、後ろの席から、すすり泣きが聞こえてきた。振り返らなくても、二年生の田中の声だとわかる。
 僕自身も悔しい思いでいるのに、どうして泣いているんだろうと、なぜか、冷めた気持ちで受け止めてしまう。
 病気の父親に、全国大会に行く報告ができなくなったことを悲しんでいるのだろうか。それとも、先生が自分ではなく、山岸良太先輩を選んでいれば、全国大会に行くことができたかもしれないのにと、申し訳ない気持ちでいるのだろうか。
 と、今度は別の席からすすり泣きが聞こえてきた。二年生のエース、僕以外の三年生の選手たちへと、連鎖反応のように、泣き声が広がっている。
 それらを聞きながら、僕の中で膨れ上がっていくのは、良太がとか、先生がとかではなく、やはり、あと三秒速く走れていれば、という思いだった。
 結局、自分に一番ムカついているのだ。
 僕の目にも涙が込み上げてきた。
「泣くって、おかしいよ」
 突然、声の響いた方に顔を向けると、良太がバスのシートから立ち上がり、振り返っていた。ゆっくりと皆を見渡す中、僕とも目が合った。
「走ってない俺が言うのもおかしいけど、泣くような結果じゃないよ。こういうのは、学校に着いたら、先生が話してくれることなんだろうけど……」
 良太は言葉を切って、村岡先生を振り返った。先生が良太に小さく頷くと、良太はまた僕たちの方を向いた。
「あと一八秒だったのは悔しいだろうけど、アップダウンが続く坂道だらけの難コースで、みんな、自己ベストに近いタイムを出したじゃないか。それで堂々の県大会二位。過去最高記録だよ。誇りに思おうよ。それでも悔しいなら、明日からまたがんばればいい。もしかすると、俺を全国大会に連れて行ってやれなかった、なんて悔やんでる人もいるかもしれない。……いや、いないか」
 良太はそこで、表情の薄い彼なりに、少しおどけるような顔をして笑ってみせた。だけど、すぐに真顔に戻る。
「仮にいたとして、それは余計なお世話だから。そもそも、先生とか家族を連れて行くって言うならわかるけど、現役の選手に対してそんなことを思うのは、失礼じゃないかな。俺は高校に入っても、長距離を続ける。そして、自分の力で全国大会に出場する」
 一人分の大きな拍手が上がった。確かに、良太の決意表明に対しては、拍手を送りたい気持ちだけど、このタイミングでは、話を中断させてしまうだけだ。
「やめてよ、父さん。途中なんだから」
 良太が小声で、通路を挟んで隣に座っているおじさんをたしなめた。
「うん? そうなのか?」
 おじさんは大きな声でそう返すと、わざとらしい咳払いをしてから、通路越しに振り返り、失礼しましたと言わんばかりに、笑顔で皆に頭を下げた。良太の言葉はもちろんだけど、冷めた良太と暑苦しいお父さん、この対照的な二人の姿がおかしいのか、バスの中のどんよりとした空気は薄くなっていた。
「邪魔が入ってゴメン。……だから二年生、一年生は、来年こそ全国大会に行ってほしい。多分、このあいだの地区大会くらいまで、いや、もしかすると、今日の結果が出るまで、全国大会なんて自分たちには無理だって思ってた人もいるんじゃないかな」
 良太は部員たちを見渡した。僕を含め、図星を指されたとでもいうように肩をすくめた選手がたくさんいるはずだ。
「だけど、今はそんなふうに思っていない。すごいことだよ。強い自信を得ることができたのに、泣いちゃダメだ。自信が敗北感に飲み込まれてしまう」
 良太の言う通りだ。走り終えた直後、僕は達成感に包まれていたはずなのに、その感覚は体の中から消えていた。
「三年生はもう引退だけど、高校行っても陸上やろうな。同じ学校で仲間になるヤツにも、他校でライバルになるヤツにも、三崎中のメンバーがいるって、俺は信じてるから」
 良太は最後、僕の方を向いて頷いたような気がしたけれど、視界がにじんでよくわからなかった。涙は止まっていたはずなのに、悔し涙とは別の涙が込み上げてくる。声を上げて泣き出したのは、やはり田中だった。
「なんか、お疲れのところ、長々とゴメン」
 良太は小さく頭を下げて、シートに座った。
 また一人分の拍手が上がる。良太のお父さんだ。しかし、今度は後部座席からも複数の拍手が起きた。
「お疲れさま」
 母さんの声だ。「よくがんばったぞ」などと、応援に来ていたOBや保護者たちから次々と声が上がる。
 僕はふと、村岡先生の方を見た。良太の言葉をどう捉えたのだろう。帽子をかぶった後ろ姿からでは、やはり、わからない。だけど、先生のことはもうどうでもよかった。
 青海学院高校を目指そう。僕は改めて、そう決意した。
 陸上部の練習と同じくらい、死ぬ気になって勉強しなければ、合格できないかもしれない。母さんに許可してもらえるよう、ちゃんと気持ちを伝えなければならない。
 努力の先に、きっとまた良太と駅伝で全国大会を目指せる日が来る。
 僕はそう強く信じていた。

  第1章 オンエア

 
 桜の花は春休み中に散っていたので、入学式らしいものといえば、正門に立てかけられた「青海学院高等学校 入学式」と書かれたシンプルな看板くらいだった。
 めでたさも華やかさもない。そして、夢も希望もない。僕の高校生活を暗示しているかのようだ。
 高校生にもなるとさすがに母さんも、二人並んで写真を撮ろうとは言い出さなかった。看板横があいた隙に、「速く速く」と僕を急かして立たせ、スマホで数枚写した。
 画像を確認し、満足そうに頷いている。その様子をぼんやり眺めていると、五、六人の男女を交えた上級生がバッと寄ってきて、「よろしくね」などと言いながら、僕の手にザラ紙を押し付けてきた。
 部活動の勧誘チラシだった。サッカー部、バレー部、書道部、吹奏楽部、放送部、陸上部……。僕はそれらを全部まとめてぐしゃぐしゃに丸め、新品の制服のブレザーのポケットに押し込んだ。
「何か食べて帰る?」
 横から、明るい口調で母さんに訊かれた。
「午後から出勤じゃなかった?」
「フルコースさえ食べなきゃ、大丈夫よ」
 明らかに、僕を気遣ってくれているとわかるのがつらい。
「でもな……」
 僕は足元に目を落とした。新品の黒い革靴が、妙に浮いて見える。
「町田くん!」
 突然、背後から声をかけられた。振り返ると、見憶みおぼえのあるヤツが立っていた。名前は思い出せない。入試の会場で、僕の二つ後ろの席に座っていた……。
「三崎中出身の、宮本正也みやもとまさやです」
 そう、宮本! 僕が名前を憶えていないことを悟って、わざわざ母さんに自己紹介してくれたのだろうか。
「あら、お友だちが、他にもいたのね」
 母さんはそう言って、嬉しそうに、宮本に「何組なの?」などと話しかけている。
 友だちじゃない、と訂正はしない。同じ中学出身という広い意味で「友だち」と言っていることはわかっている。
 それより、他にも、の方が気に障る。良太くん以外にも、と言えばいいのに。
 良太は春休み中から陸上部の練習に出ていたのか、今朝、偶然、この門の前で会ったときも、上級生のように慣れた様子で、体育館の場所を教えてくれた。
 お気に入りの「カモシカくん」に会えたというのに、母さんは「入学おめでとう」と笑いかけただけだった。陸上の「り」の字も出していない。
 良太も同じで、「ありがとうございます」と答えただけだ。そして、僕に言った。
 ――また、いろいろと、よろしく。
 いろいろ、とは何だろう。便利な言葉だ。近頃の僕に対する周囲からの声かけは、こんな曖昧な表現ばかりが使われる。
 目指せ全国大会! と周囲も自分も、明確な目的を口にしていたころが何年も前、はるかに遠い日のように感じられた。
 ――こっちも、いろいろと、よろしく。
 僕は良太にそう返した。そして、クルッと背中を向けて軽快に走っていく良太を見つめながら後悔した。どうして「部活、がんばれよ」と言わなかったのか、と。
 僕がこんな調子だから、気を遣われてしまうのだ。良太にも、母さんにも……。
「宮本くん、家の人は?」
 少し辺りを見回して訊ねた。
「俺の親、来ていないんだ」
 宮本は愛想のいい口調で答えたけれど、軽率な質問だったかもと、今になって気付く。
「今日って、妹の、三崎中入学式だから、そっちに行ってるんだよ」
 僕が思ったことを顔に出しやすいのか、宮本の勘がいいのか。とにかく、なんだそうか、と安心した。そして、高校では、学校行事に必ずしも親が参加する必要はない、ということに思い至った。
「そっか。じゃあ、昼飯、一緒に食べない?」
 自分から誰かを誘うのは、もしかすると人生初ではないだろうか。デートではなく昼飯で、おまけに相手は男子だけど。
「いいけど、お母さんは?」
 宮本は遠慮がちに母さんの方を見た。
「いいのよ。友だち同士の方が楽しいに決まってるじゃない。迷惑じゃなかったら、付き合ってやって、ね」
 母さんはそう言うと、両手をひらひらと振りながら、足早に去っていった。
「ホントによかったの?」
 宮本に訊かれる。
「午後から、仕事だから」
 とっさに、宮本を誘ったものの、何を食べて、どんな話をするのか。
 とりあえず、駅に向かうことにした。

 ファストフードのハンバーガーショップで定番のセットメニューを注文した。
 周囲は青海学院の新入生ばかりだ。親と一緒のヤツなんてほとんどいない。芸術の選択科目を何にしたかという会話が聞こえてきて、僕も同様のことを宮本に訊ねた。
 とはいえ、クラスも違うし、同じ科目を選んでいても、一緒だね、と喜ぶ気持ちは湧かない。互いに、へえ、と興味なさそうに返すだけだ。
 友だちらしい会話といえば、宮本から「くんを付けなくてもいいよ」と言われ、「僕もいいよ」と返し、互いにぎこちなく呼び捨てし合うようになったことくらいか。
 時折、僕が話している途中で、宮本が目を閉じるのが気になった。きっと、退屈なのだろう。食べ終わったら速攻で解散だな、などと思いながら、フライドポテトをまとめて数本口に運んだ。
「ところで、町田は部活、もう決めた?」
 耳を疑った。正面からミサイルが飛んできたような衝撃だった。
 母さんも良太も入るのをためらっている領域に、宮本はポテトを片手に、?気な口調で踏み込んできた。
 ポテトをほおばっていたおかげで、すぐに答えずにすんでいるけれど、自分は今どんな表情になっているのか、見当もつかない。
「中学のときは、何部だった?」
 宮本が?気さに輪をかけて訊いてくる。
 しかし、ふと、肩からボトリと何か重い塊が落ちたような気分になった。
 宮本は僕が陸上部だったことを知らない。僕も宮本が何部だったかを知らない。
 互いに、青海学院を受験した理由も知らない。
 スポーツ推薦ではないのだから、青海学院に入学した理由を、一流大学への進学が目的だと思われる方が自然だ。
 宮本から、同情されることはない。
「陸上部、だったけど」
「そうなんだ……。あっ!」
 宮本はハッとしたように、フライドポテトの油で指先がテラテラと光る片手で口を押さえた。
 あのことは知っているのだろう。
「ゴメン。失礼なこと訊いたかも」
「何で?」
 とぼけた調子で訊き返した。
「町田って、卒業式、松葉杖で来てたよな。確か、交通事故に遭ったって」
「そうだけど」
 合格発表の帰り道、自転車で青信号の交差点を直進していると、ものすごい勢いで自動車が右折してきて、僕の意識はぶっとんだ。
 意識が戻った僕の目に、最初に飛び込んできたのは、ギプスで固められた足だった。
「杖なしで歩いてるから忘れてたけど、もう大丈夫なの?」
「まあ、ぼちぼちかな」
「そっか。もし、陸上とか、何かスポーツしたかったのに、ケガのせいで、なんてことになってたらと思ってさ……」
 本当に勘のいいヤツだ。僕の左足にはボルトが入っている。
「いや、いや、いや。事故とか関係なく、運動部なんて最初から考えてなかったから。スポーツ推薦で、どの種目も県内の精鋭が集まってきてるのに、そこに交ざっていける根性なんてないよ」
 入学前から、必死で自分自身に言い聞かせていたことを、他人の前で口にしてみると、事故に遭う前からそう思っていたような気分になれた。
 同時に、自分がどうしようもなくつまらない生き物のように思えてきて、魂が蒸発していくのをぼんやり眺めるように、ガラス越しの空を見上げた。
「根性ね……」
 宮本は僕に同調するようにつぶやいた。コーラの入ったLサイズのカップを取り、ズズッと音を立てて飲み干す。
 互いのトレイの上は紙くずだけになり、そろそろ解散の頃合いだ。
「でもさ!」
 宮本がカップを置いた。手際よく、自分のゴミと僕のゴミをひとまとめにすると、二枚のトレイを重ねて、脇へ寄せる。
「中学のときは、吹奏楽部以外、よほどの理由がない限り、運動部に入らなきゃいけないって空気が流れてたけど、高校って、そういうの感じないよな」
 宮本は声を若干弾ませて言った。
「そうかな……」
 僕だって、交通事故後、高校生活を一度も前向きに考えなかったわけではない。
 部活動は必須ではないけれど、スポーツ以外の何か新しいことを始めてみようと思い、青海学院の入学案内に記載されている、文化部をチェックした。
 音楽が好きだから、軽音楽部はどうだろうと考えてみたものの、歌う自分も、楽器を演奏する自分も想像できなかった。好きな歌と一緒に思い浮かぶのは、それを聞きながら走っている自分の姿だけだ。
「俺はさ、入りたい部活があるんだ。そのために、青海、受けたようなものだし」
 宮本のまっすぐな物言いに、ピキン、と音が聞こえたような気がした。テーブルを挟んだ二人の間にひびが入り、溝が生じた音が。
 希望を持たずに入学した僕と、希望を抱いて入学した宮本。
 選択科目のことを話しているときとは、目の輝きがまったく違う。
「宮本って、中学、何部だった?」
「卓球だけど、それはもういいんだ」
 宮本は新品のブレザーの袖口でテーブルを拭った。たいして汚れていなかったけど、母さんが見たら卒倒しそうだ。
 よほど大切なものを置くのかと思いきや、ブレザーのポケットから、折りたたんだザラ紙を取り出して広げた。僕が読みやすい向きで、テーブルの真ん中に置く。
 部活勧誘のチラシだ。
「放送部?」
 確認するように宮本に訊ねた。もったいぶりながら出したけど、間違えたんじゃないのか、と。
「そう、放送部」
 宮本は大きく頷いた。
 中学のとき、放送委員会というのがあった。給食の時間に好きな音楽を流してくれるので、何度かリクエストしたことがある。あれと同じだろうか。
 チラシに書かれた、活動内容を見てみる。
*学校行事の司会・撮影
*地域行事の司会・撮影等の補助
*作品制作
*アナウンス・朗読
 以上。
 音楽については書かれていないため、こちらが思う内容とは違うみたいだけど、目を輝かせるようなポイントは見当たらない。
 強いていえばアナウンスだろうか。
 宮本はアナウンサーを目指している? 申し訳ないけれど、それほどいい声をしているとは思えない。
 だけど、僕はその道のプロではない。向き不向きや、才能があるかないかなんて、本人にもわからないということは、身を以て知っている。
 他人の夢を否定してはならない、ということも。
「ふうん。おもしろそうだね」
 とりあえず、同調してみた。食事に誘ったり、今日の僕は、宮本相手に慣れないことばかりしている。
「だろ? ってか、町田はどの活動に興味を持った?」
 宮本がテーブル越しに体を乗り出してくる。余計なことを言うんじゃなかったと後悔しても、宮本の荒い鼻息を前にすると、訂正する気力は削がれていく。
 興味と言われても……。
「アナウンス、かな」
 やはり、これが一番無難なのではないか。
「すごいよ、町田! 自覚してんじゃん」
「はあ?」
 僕のこと? 訳がわからない。
「おまえの声って、ホント、いいもんな」
 表情から見て、お世辞ではなさそうだ。
 僕の声がいい? そんなの、生まれてこのかた、一度も言われたことがない。
 陸上部での「ラスト一周」といった声出しのときだって、鼻にかかったような僕の声は、他のヤツらのようにグラウンドの端まで響き渡らず、ほんの数メートル先で空気に混じって消えていくように感じていた。
 自分では、あまり好きじゃない声だ。
「そうかな……」
「自覚してないの? もったいない。まあ、自分の声って頭がい骨に響くとかで、他人に聞こえているようには、聞こえてないもんな。ましてや、マイクを通したらどんな声になるかなんて、想像しないだろうし」
「マイク?」
「そう。町田の声はそのままでもいいけど、マイクを通した方がもっといい」
 宮本は自信たっぷりな様子で断言した。一緒にカラオケに行ったこともないのに。
「根拠でもあるの?」
「俺さ、ラジオが好きなんだ。だから、こうやって生の声を聞いているときも、マイクを通したらこんな声だろうなって、想像しちゃうんだよね」
 だから、時々、目を閉じていたのか。とはいえ、洋服が透けて見えちゃうんだよね、と同じニュアンスに思えて、気持ち悪い。
「そうなんだ……」
 愛想笑いを浮かべながら、椅子から少し腰を浮かせる。ガタンと鳴った。
「ああ、待って。本題はこれからだから」
 本題? 理解できないまま座り直す。
「今まで、町田とあまりしゃべったことなかったから自信なかったけど、今日、話しているうちに、やっぱり、俺の目利き、いや、耳利きは間違いなかったって、確信したよ」
 宮本は胸を反らせて、まっすぐ僕を見た。つられて、こちらも姿勢を正してしまう。愛の告白らしきことなら、直ちに逃げよう。
 たとえ、走れない僕に、宮本がすぐ追いついてくるとしても。
「町田の声は、俺の理想の声なんだ!」
 ガヤガヤと賑わっている店内に、宮本の声が響き渡った。
 周囲の視線を感じ、僕は身を縮めて俯いた。恥ずかしくて、顔を上げることができない。ましてや、声を出すことなんて。
 今、この状況で、僕の声に興味を持った人は少なからずいるはずだ。そして、僕が少しでも声を発したとたん、たいしたことないじゃん、とがっかりされる。
「ゴメン、なんか熱くなって」
 宮本は声のトーンを少し落とした。
「俺は、脚本家を目指しているんだ」
 顔を上げると、宮本の表情はこれまでになく真剣なものになっていた。
 脚本家。ドラマや映画の脚本を書く人だというくらいの認識はある。
 母さんは時々、テレビを見ながら「やっぱり、この人の話はおもしろいわね」などと言っているけれど、僕にはそれが、脚本家のことなのか、原作の小説家のことなのかすらわからない。
「だから、放送部に入る」
 宮本の熱意は感じるけれど、どうにもピンとこない。
「文芸部じゃなくて?」
 確か、文化部一覧に載っていた。本を書くのならこちらではないか。
「いや、放送部なんだ」
 宮本は譲らない。もう一度、放送部のチラシを見たものの、どこが脚本家に通じるところなのかわからない。
「これ」
 宮本が指をさした。「作品制作」の項目だ。
「この、作品というのは、ドラマのことなんだ。ラジオやテレビの」
「なるほど」
 ようやく、脚本家と放送部が繋がった。放送部とはそんなことをするのか、とも。
 チラシにひと言書いておけばいいのに、と思ったものの、それが載っていたとしても、僕のような初めから興味のないヤツは、読みもしないのだから、効果は同じなのだろう。
「俺はラジオドラマを作りたい、だから」
 宮本は再び僕をまっすぐ見つめた。
「町田、一緒に放送部に入ろう!」

(このつづきは本編でお楽しみください)
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