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試し読み

【第九回山田風太郎賞 候補作試し読み】恒川光太郎『滅びの園』

過去一年間で最も「面白い」と評価されたエンタテインメント小説に贈られる山田風太郎賞。その第9回の候補作品のうちKADOKAWA刊の3作品、垣根涼介著「信長の原理」、恒川光太郎著「滅びの園」、湊かなえ著「ブロードキャスト」の冒頭約40ページを特別公開!

突如天空に現れた<未知なるもの>。
世界で増殖する不定形生物プーニー。
こんな「世界の終わり」が、かつてあっただろうか?
異才・恒川光太郎による傑作ディストピア長編!

 

第一章 春の夜風の町

 

 小刻みに車両が揺れる。
 窓は車内の蒸気で曇っていた。
 鈴上誠一すずがみせいいち鬱々うつうつとしながら電車のシートに座っていた。
 最近調子が悪い。食べものは喉を通らず、体全体が疲れていて、夜はあまり眠れない。
 仕事のせいだ。
 今日も怒鳴られたし、明日も怒鳴られるのだろう。どうもそういう〈役〉を割り当てられてしまったようだ。ミスも増えた。
 ふと顔をあげると、つり革に掴まった女が目に入った。
 ほんの一瞬、清新な光に心が照らされたような気がした。
 恋をした。
 鈴上誠一は思った。
 いや……いやいや。それはない。だが、素敵な人だ。
 なぜ人は恋をするのか。それはその異性が魅力的だからであるが、魅力的であればあるほど、自分に縁があるとは思えない。
 女はほんの一瞬、鈴上誠一を見た。
 鈴上誠一は恥ずかしさをおぼえて眼を逸らした。
 眠ろう。
 目をつむる。
 尻にシートのぬくみを感じる。今日は出張からの帰り道で、あまり馴染みのない電車に乗っている。
 振動が続き、ふっとその振動が消えた。なぜか一瞬無重力になったような不思議な感覚が訪れた。
 誠一は眼を開いた。
 ちょうど彼女が電車をおりるところだった。
 扉のほうに移動している。
 本当に、ただなんとなく、誠一も立ち上がって、気がついたら駅におりていた。
 誠一の背後で電車の扉が閉まる。
 知らない駅だった。
 一月だった。てつく風が吹いていた。
 自分はどうしてここでおりた?
 女はもうホームにはいなくなっていた。無論、この先の人生で二度と会うことはないだろう。
 馬鹿だ。俺は大馬鹿野郎だ。
 いや、女を追ったわけではない。その……なんというか少し気分を変えたかっただけだ。
 誠一は己に言い訳をする。
 気分が優れないのは、仕事だけではない。家には妻がいるが、どうも反りがあわない。日常の妻の要求や、発する言葉の何もかもが非常識でおかしいと思う。
 階段をおりていく。
 誠一は改札を通り抜けて、風の吹きすさぶ通りにでた。薄い雲の向こうに霞む太陽に二重のかさができている。
 駅前には灰色のビルが並んでいた。枯れ葉が舞っている。遠くに枯れ木立が見えた。
 脳のどこかで警告が発せられた。
 かばんは?
 あっと思った。手にしていない。間違いない。電車に置き忘れた。
 いくつか重要な書類が入っている。今日の六時までに会社に戻って上司に渡さないといけない。鞄を電車に置き忘れたと連絡したら、どんな罵倒ばとうが待っているか。誠一の会社では嫌味や精神的なハラスメントだけでなく、暴力も横行している。
 即座に駅に電話して車両に鞄を忘れたことを問い合わせるべきであった。場合によっては許容範囲内の時間のロスで済む可能性もあったが、頭を殴られたかのように、整理した思考ができなくなっていた。
 呼吸が苦しくなり、目に涙が滲んだ。
 頭の中で、糸が切れた。
 もういいや。
 誠一はとぼとぼと歩き出した。
 面倒臭い。
 別に鞄を置き忘れたことだけではない。積み重なった何もかもが、自分の手に負えない。
 もういい。
 もう、自分には、できない。
 このままどこかに消えてしまいたい。
 階段をおりて、むき出しのコンクリートの細い通路を歩いたような〈気がする〉。ビラがたくさんはられた道を進み、ドアがたくさんある家に入ったような〈気がする〉。なんだかよくわからない非常階段をのぼったような〈気がする〉。
 糸が切れてからのことは、はっきりとおぼえていないのだ。
 あるいはそのとき、空から舞い降りた透明な存在が己の体を運んだのかもしれない。

 薄紅色の桜の花びらが宙を舞い、誠一の膝に落ちる。
 昼の陽光があたりに降り注いでいる。
 誠一は目を開いた。
 桜の花びらをそっと手にとる。
 春である。
 ペンキのはげた木製のベンチに座っていた。
 誠一は周囲を見回した。
 目の前には手入れされた大きな広場がある。それに沿って円形に商店が並んでいる。
 雑貨屋、貴金属店、蕎麦屋、マクドナルド、洋菓子店、時計店。
 誠一はしばらく黙って座っていた。
 ベンチの後ろには駅があった。
〈中央広場駅〉
 と書かれている。
 どこなのだろう。
 まず最初に駅に向かった。改札は一つだけで、珍しくもパスモやスイカに対応した電子式ではない。駅員もいない。壁の路線図は見知らぬ駅ばかり。駅舎はこぢんまりとしており、どこかテーマパークの駅を思わせる。
 誠一は広場に戻った。
 やがて、眼の前にミニチュアダックスフントを連れたおばさんが現れた。
「すみません」
 誠一は声をかけた。
 優しげな表情の身なりのいい中年の婦人が足をとめた。
「道をおたずねしたいのですが」
 いいですよ、というように中年の婦人は頷いた。ダックスフントが靴の匂いを嗅いできた。
「ここは、何県ですか? 地名が知りたいのですが」
 婦人は目を瞬いた。
「ナニケン? ナニケンっておっしゃったの?」
「は、はい」
「ほら、あそこ、中央広場駅よ」
 確かに駅はそこにある。さっき見た。
「あの、私は」
「ええ、なにかしら」中年の婦人はいう。
「あのですね」
「うまくいえないのね、わかるわ。そこに座って、落ち着いてからいったらいいわ。どうなさったの?」
 もう一度周囲を見回す。都会の風景ではない。見える建物は、どれも三階ぐらいまでしかない。知らない町だ。だが幼い頃に、夢の中で訪れたような不思議な郷愁がある。
「ごめんなさい。ちょっと記憶が混乱していて」
「あやまることないわ。悪いことしていないんだもの」婦人はいった。「でも記憶って、名前は思い出せるの?」
「鈴上誠一です」
「いや私に名乗らなくてもいいのよ。電車でどこかよそからやってきて、間違えておりちゃったんじゃないの?」
 そうなのである。
 確かに見知らぬ駅でおりた記憶があり、なんとなく自分がどこにいるかわからぬまま、ずんずん歩いた記憶がある。
 見知らぬ駅でおりたときはまだ冬だったように思う。だが今は桜が咲いているし、春の陽気だ。だとすればその間何をしていたのだろう。わからない。記憶の断片のひとつひとつが曖昧で確信がもてない。
「なにか身元がわかるものはないのかしら」
 誠一は体を探った。財布をもっていた。そのなかに、免許証があった。鈴上誠一。自分の名前がある。住所は東京都の稲城いなぎ市だ。
 婦人がのぞきこんだ。
「もっているじゃない」
「はい。ああ、なんだってこんなところにきちゃったんだろう。稲城市は、ここからけっこう離れていますかね」
「知らないわ」婦人はいった。「そこの電車の駅はね、〈最果ての丘駅〉から〈精霊の森駅〉までだもの。稲城市って駅はないし」
 婦人は通行人を呼び止めた。
「ねえ、すみません。このオニーサン、記憶がないんですって。トウキョウトイナギシへのいきかたわかりますか?」
 数人が集まってくる。
「う~ん、ええ? 記憶がないのかい?」
「すみません」誠一は縮こまった。「いやあるんですよ。記憶はあるんです。名前も住所もわかるんですが、でもなんというかおぼえていないことが多いというか」
 婦人の呼び止めた男たちはみな一様に、東京都稲城市など知らない、といった。
「交番はどこでしょう」
「ない」誰かがいった。
 やがて日が暮れていく。
 その晩は、広場に店をかまえる蕎麦屋の店主が、宿泊場所を提供してくれることになった。蕎麦屋の店主は、白くなりかけた髪を角刈りにした壮年の男だった。壁際に木箱が積まれた二階の空き室に誠一を案内した。
「ゆっくりしてってえやあ」
 店主はどさり、と床に古布団を置くといった。
「困ったときはお互い様よ」
「すみません」
 窓から夜の広場を眺めながら途方にくれた。
 路面電車の駅が見える。
 とりあえず明日はあれに乗ってみるしかない。
 古い木造建築である蕎麦屋の二階は、よその家の匂いとでもいうような、独特な染みついた匂いがあった。それは不快なものではなく、幼い頃友人の家を訪れた記憶をよみがえらせた。
 確認すると財布の所持金は一万五千円であった。

 翌日になって布団をたたんで階下におりると、蕎麦屋の店主が朝食にかけそばを用意してくれた。
「あの、私は」
「お金はいいから。出世払いでな」
 恐縮しつつ蕎麦をすする。
 からからと引き戸を開いて外にでると、よく晴れていた。
 その日はとりあえず、路面電車の片方の終点である〈精霊の森駅〉まで乗ってみることにした。
 切符を買って車両に乗り込む。一両編成で、乗客が数人乗っている。
 それは誠一がかつて乗っていたJRの満員電車とは全く別種の乗り物のようだった。のどかで窓が大きく、レトロな車体だった。
 車窓を流れる景色に見覚えはなかったが、瞬間的にどこかで見たような建築物が流れ去っていくこともあった。
 住宅街の庭先をかすめたり、海沿いのトンネルをくぐったりと飽きなかった。
 稲城市を知らない人間がいてもおかしくない。誠一は思った。二十三区だって知らない人は知らないだろう。
 乗客はみなおりていき、そのうち一人になった。
 一時間ほどで終点についた。
〈精霊の森駅〉は、鬱蒼うっそうと茂る森の中の駅だった。
 盛り上がった土のホームである。
 道は駅前から未舗装だった。駅前に一軒だけサンドイッチ屋がある。文明を示すものは、そのサンドイッチ屋だけで、あまりにも何もないので驚く。
 先に進んでいくべきかわからない。うろうろしていると、サンドイッチ屋の店主らしき色の白い男が店からでてきたのできいてみた。
「ここから先には何があるんですか?」
「ん? 山だあ。鶏山にわとりやま」色の白い男は煙草をだすと火をつけた。「山登りにきたのかい?」
「いえ、そういうわけでは」
「鶏山はね、頂上にいくんでも、四時間はかかる。登りなれていないんならもっとだ。そんな格好で今からはやめたほうがいい」
「山の先はどうなっているんでしょう」
 色の白い男は煙を吐き、首を横に振った。
「知らんね、深い自然がずっと続いている。人は住んでいないね」
 まさか、路面電車の終点のここまでが人間の領域だとでもいうのだろうか。
「なに県ですか?」ここは。あるいは山の向こうは。
「知らん」白い男は首を横に振った。
 誰にきいてもみなそういう。本当に知らないという顔で。

 仕方なく、再び路面電車で、〈中央広場駅〉まで戻った。
 誠一は洋菓子店に入った。
 ケーキを注文する。珈琲コーヒーも頼む。所持金を減らすべきでないのはわかっているが、少しゆっくりと気持ちを落ち着けたかった。
「お、記憶喪失の人だ」洋菓子店の店主がいった。
 洋菓子店の店主は茶髪でそばかすのある若者だった。二十代後半ぐらいに見えたが実際の年齢はわからない。昨日、自分の前に集まった人たちの一人だった。
「記憶は戻りました?」
 誠一は首を横に振った。
「家に帰れない」
「え、本当ですか?」
「だめでした。精霊の森駅ってところまでいってみたんですが、帰る手がかりはなかった」
「そりゃ弱ったね。はやく帰らないといろいろ待っている人もいるんでしょうね?」
「う~ん、そりゃまあ」待っている人、いるのだろうか?
「あちこちできいているんですが、このあたりなんという地名なんですか」
「おおまつり郡おおまつり町」
 きいたことがない。
「地図とか」
「おおまつり郡のものと、おおまつり鉄道の路線図はあるけれど」
 おおまつり鉄道というのは、今日乗った路面電車らしい。
 洋菓子店の店主が四つ折りの細長いパンフレットをもってきて誠一に渡した。そこには地図があるが、簡略化された観光パンフレットの地図であり、日本のどこにここがあるのかということは見当もつかない。
「とにかく、今日もまた蕎麦屋の二階というのも気まずくて」
「だったら、家を紹介します?」
「家っすか」誠一は苦笑した。「財布の中に一万四千円しかないんですけど」一万五千円から本日千円減った。洋菓子店の支払いでもっと減るだろう。
「空き家ですから、お金はいらないですよ」
「家賃も?」
「ないない」

 洋菓子店の店主の名はマロンさんといった。
 どれほどのぼろ家だろうと思いながら、連れられて見にいった。ちょうど中央広場駅から三キロほど離れたところで、最寄り駅は〈緑丘みどりおか駅〉という何もない駅だった。
 樹木がぽつぽつとしか生えていないまばゆい緑の丘がいくつも連なっている。
 丘の道を歩いていくと、やがて丘の中腹に三階建ての大きな家が現れた。
「あれだよ」マロンさんはいった。
 周囲に建物のない一軒家だ。
 屋根やドアなどに曲線が多く、丸っこい印象がある。
 庭にかえでの樹が一本たっている。
 マロンさんはドアを開いた。
 広々とした居間に暖炉。曲線を描く階段。収納スペースがやたらに多い。築年数はそれなりといったかんじだが傷んでいるところも少ない様子だ。
「家主さんは」
「もとは魔女が住んでいたんだよね。で、その魔女はいなくなっちゃったんで、空き家になったんだ。家主さんはいない」
 魔女?
「その魔女はどこにいったんですか?」
「さあ? 西の海の先に飛んでいった。ほうきに乗ってね。魔女は気まぐれだし、不動産の所有権に対する意識がないんで、勝手に住んでいて大丈夫だよ」
「戻ってきません?」
「きたって平気だよ。空き家はたくさんあるし、魔女だって引っ越した後に誰かが住むことは想定しているだろうし。ガーデニングの好きな気立てのいい魔女だったよ。旅立つ前はうちの店で食べていった」
「じゃあ、まあ、とりあえず、ここに」誠一はいった。「ありがとうございます」
 どうも半信半疑だったが、本当に家賃がかからないのなら蕎麦屋の二階にずっと住むより気楽でいいに違いなかった。
 誠一は階段を上ると、がらんとした二階の部屋の床にぽつん、と座りこんだ。
 魔女ってなんだろう。本当にそんなものがいるのか。冗談まじりの比喩ひゆ的な表現なのか。
 ともかく、この家に住んでいいのか。
 良い話だ。ものすごく。

 家が決まると、中央広場駅の、広場を囲む個人商店の店主たちが、次々に、食器や布団などをくれた。そのおかげで、最低限のものは数日のうちにそろった。
 部屋でおおまつり鉄道のパンフレットを見てみた。北東の〈最果ての丘駅〉と、南西の〈精霊の森駅〉を往復する路線であること。
薔薇泉ばらいずみ駅〉は春に薔薇が咲き乱れる巨大公園があり、〈煉瓦れんが迷宮駅〉では春にイチゴ狩りがさかんで、〈釣り桟橋駅〉では海釣りができて、〈鯨海岸駅〉は海産物を売る店が並び、海水浴が可能。〈洞湖とうこ駅〉はますが釣れることがわかった。
 日を置いて〈精霊の森駅〉とは反対側の終点である〈最果ての丘駅〉にもいってみた。
 駅舎をでてしばらくは農地が点在しているが、やがて荒涼とした丘が現れ、その先は灯台のたつ岬になった。
 どこにいっても、東京に帰る手がかりはなかった。

〈精霊の森駅〉で電車をおり、駅前に一軒だけあるサンドイッチ屋に入る。
 壁には二メートル以上あるのではないかと思われる黒い熊の毛皮がかかっていた。
 棚にはイチゴサンドや、エビカツサンドや、照り焼きチキンマヨサンドなどが並んでいる。珍しいところで山雉やまきじサンドや、鹿肉チリソースサンドなども並んでいた。
 店主はいつか少し立ち話をした色の白い男だった。
「エビカツサンドください」
「あいよ」三百八十円。
「森の向こうにある山に登ってみようと思うんですが」
「鶏山ね」
 その先に文明はないと聞いていたが、確認することは大切だと思ったのだ。
「どういけばいいんでしょう」
 店主は地図をだすと、この駅の前の道をずっとまっすぐ、と教えてくれた。そのまま登山道になるようだ。
「山に登るよね、で、いいものあったら、拾って」
 拾ってはいけない、山の物は採取するな、というのかと思ったら違った。
「拾って、町にもっていって売ればいい」
「いいんですか?」
「いいんだよ」白い男は笑みを見せた。
「どんなものがあるんですか?」
「キノコ、山菜、宝石、金塊」
 最後の二つは冗談だろうと思って、誠一は笑ってみせた。店主は笑わなかった。「まあがんばんな」

 店をでて、森を抜け、山道に入った。舗装こそされてはいないが、歩きやすい道であった。しばらく歩くと、ごつごつとした岩肌から金色の輝きがのぞいている場所に出くわした。
 誠一はこう思った。
 これは金を多分に含んだ岩塊に見える。しかし、金がそこまで無造作に登山道にあるはずがない。だからこれは金に見える別の何か、なのだ。これを金だともって帰れば、きっと失笑されるだろう。ああ、それはなんたらという金によく似た無価値な鉱物ですよ、と。
 それでも、拳ほどの大きさのぴかぴかとした金色の塊があったので、ザックにいれた。
 頂上まで登る必要はなかった。山の中腹からでも十分一帯を見渡せた。確かに鶏山の向こう側は地平の果てまで樹海が広がっていた。

 鉱物商は、中央広場駅の貴金属店の裏にあった。店主はスーツを着た白髪の老人だった。
「金ですな」
 鉱物商の老店主は、誠一がもってきた塊をルーペで少し調べていった。
「これはどこから?」老店主はきいた。
「精霊の森の奥にある山、鶏山から」
「なるほど、確かにそこしかない」老人は誠一に珈琲をだした。
「八百万円で買い取りますが、どうですか」
 耳を疑う数字だ。全く期待せず、自分がとってきた鉱物の名を確かめるためだけに店の扉をくぐったのだが。
「え、あ、はい、いいですとも」
「駅前にサンドイッチ屋があったでしょう。五年ほど前まではあそこの店主がうちの店に、いろいろもってきたものです。最近は足が悪いので、あまり山には入らないといっていましたが」
「ものっすごく、無造作に落ちていましたよ」
「あそこはいろいろでるんです。鶏山の由来はね、鶏が毎朝、卵を産むのと同じように、あそこの山は金や宝石を産む。もしまた何か見つけたらもってきてください。買えるものなら、金以外でも買います」
 老人はダイヤモンドの原石の写真を見せた。
「ダイヤとかね。ラピスラズリがでても買う。トパーズもね」
 原石の写真をいくつかもってきて順番に見せる。
「そんなにいろんなものがでるんですか」
「山が産むんです。昔は、私もサンドイッチ屋の主人と一緒に自分で入山し、採取しましたが、最近は年のせいか重いものをもって山を登り下りするのが辛くて」
 老人は金庫から百万円の札束を八つもってくると、誠一に渡した。
 ずしりと重い。誠一は札束をザックにいれると、店をでた。
 ひゃっほう、と飛び上がりたい気もするが、驚異の展開に対する警戒心のほうが強い。たちの悪い冗談ではないのかと思う。
 雑貨屋の隣に、銀行があった。
 扉を開いた。〈森本もりもと銀行〉という名の小さな銀行で、行員は二人しかいなかった。とりあえず通帳を作り、七百五十万円を預けた。
 なんという一日だろう。朝は所持金二千円をきっていたのに。
 それから蕎麦屋に入ると、鴨南蛮そば大盛りを注文した。
 食後に、蕎麦屋の店主に五万円を渡す。
「急遽、現金が入りましたので、このあいだの宿泊費としてお受け取りください。出世はしてませんが」
「そりゃよかったなあ」蕎麦屋の店主は一万円札を受け取るとしげしげと眺める。「出世払いといって送り出して、すさまじい速度で出世したねえ。それじゃあまあ出世祝いってことで」
 蕎麦屋の店主は、五枚の一万円札を返す。
 誠一はため息をついた。
「じゃあ、本日の料金だけでも」千円札を渡すと店主は頷いて「まいどあり」といった。

 蕎麦屋をでると、マロンさんの店にいき、ブルーベリータルトを頼んだ。
「魔女の家の調子はどう?」
「家は調子いい。最高だよ。ありがとう。それよりもね」
 鶏山での金塊発見から、たったいま銀行口座を作るまでの一部始終を話すと、マロンさんは、喜んでくれた。
「最高じゃないの。お祝いお祝い」
 お酒でも飲もう、とワインをだしてくる。
「なんでも頼んじゃいますよ。ばっちり払うから」誠一も笑いながらいった。
「じゃあさ、次いくときには、銃を買ってもっていきなよ」
「なんでよ」
「鶏山だろ? あのへんは大きな熊とかいろいろいるんだからさ」
 サンドイッチ屋のなかに大きな毛皮が飾られていたのを思い出した。
 その晩はマロンさんの店で飲み明かした。

 それから一週間は、山にはいかなかった。
 家具を買いにいったり、家のなかを箒で掃いたり、庭の雑草を抜いたりしてのんびりと過ごした。緑の丘で空を眺めてぼんやりとした。次の採取に備えてのみ金槌かなづちも買った。銃も買った。庭で射撃の練習をした。

 一週間が経つと、今度は銃を背負って、また精霊の森駅におりたった。
 サンドイッチ屋でサンドイッチを買う。
「山はいいよ、なあ」誠一の顔をおぼえていたのであろう。色の白い店主は薄く笑い、前よりも親しげにいった。「銃を背負っていくことにしたってのも正しい。熊や、魔物がでるからな」
「魔物?」
獰猛どうもうで危険だ。しょっちゅうでるわけではないが、命がけだよ。自分の命は自分で守らなくてはならない。だが、そこが面白い。このあいだは何かとれたかい」
「金塊を拾ったんですけど」
「落ちているときには落ちているからな」
 そんなのは山では当然で、驚くようなことでもない、といったふうだった。
 森の中の道を通って山道を登る。
 このあいだ金塊があったところは、不思議なことにもう何もなくなっていた。
 今度は別の場所で蒼く輝く岩を見つけた。ラピスラズリの原石ではないかと思い、鑿で三キロほど削り出した。麻袋にいれると下山する。
 夕方、鉱物商の扉を開くと、店主の老人に蒼い塊を渡した。
 店主はルーペで二分ほど見ていた。それから誠一にいった。
「八十万円でどうですか」
「いいですよ」誠一はいった。相場がどうなのか知らないが、労力からすれば充分な対価だった。一日で八十万稼ぐ仕事など、そうはない。
 お金を受け取るときに、店主はいった。
「鶏山は面白い。でも、危険ではある。銃はもっていってますか」
「はい、最近買いました」
 ふと誠一は思ってきいた。
「このラピスラズリやこのあいだの金塊はここからどこにいくんですか?」
 老人は微笑んだ。
「どこ? この店の前の貴金属店や、塗料店、この周辺で消費されないぶんは、知られざる海の彼方に運ばれていきます。魔女や、魔法力をもつ紳士が岬に飛来し、オークションが開かれ、買っていきます」
「東京とかにも運ばれる?」
「トウキョウ?」そこはどこだというように老店主はききかえした。「あまり考えないほうがいいですよ。我々は何かを知ったようでいて、結局は何も知らないのです。鉱物は、人類の歴史よりも長い時間存在し続けます。どこからどこにいくのか、その悠久の詳細など、把握できるはずもありません。小市民の私たちには、自分の身の回りが結局は全てではないですか」

 郵便ポストに白い封筒が入っていた。
 白い封筒には〈鈴上誠一様〉と名が書かれていた。送り主は〈鈴上香音かのん〉とある。

 元気にしていますか?
 あなたに会えなくて寂しいです。
 この手紙が届くかどうかわかりません。しかし、あなたのことを思わない日はありません。

 手紙はそのようにはじまっていた。
「会いたい」「帰ってきてほしい」「愛している」「いつまでも待っている」などという、同じような意味合いのメッセージが繰り返され、差出人をとりまく状況については「世界は今大変なことになっている」「たくさんの人が助けてくれています。支え合っています」という二文しかなかった。
 しばらく差出人の名を眺めて、思い出した。
 差出人の鈴上香音は妻だった。
 しばし呆然となるほどの衝撃だった。
 自分には妻がいた。薬指に結婚指輪はしていないが、確かにいたのだ。
 妻の顔をかすかに思い出したが、それ以上の情報はすぐに自分の頭からは引き出せなかった。
 帰ってきてほしい、とのことだが、どこにどうやって帰ればいいのかわからなかった。

 その晩誠一は、久しぶりに昔の夢を見た。
 東京都で、朝と夕方、満員電車に乗っていた。
 月の残業時間は労働基準法に違反していたし、以前には過労による自殺者もでていたが、会社の誰もがそれを改めようとはいいださなかった。タイムカードは定時で押し、あとはお金の支払われない労働がずっと続いた。
 残業をしたくないだの、有休をとりたいだのといいだすのは、「やる気のない人間」「いつまでも学生気分で社会に適応できていない半人前の困ったちゃん」なのだという空気が確かにあった。
 給料が良いわけでもなく、転職に役に立つ技術が身につくわけでもなく、使い捨て社員がどんどん入れ替わっていく会社だった。求人誌には常に広告が載っていた。
 夢の中で、妻のことも思い出した。
 妻とはSNSを通じて出会った。
 数ヶ月のつきあいで結婚まで進んだが、結婚直前に百万の借金と離婚歴があることを涙ながらに告げられた。しかしそのまま結婚した。
 借金は三十万を妻の家族が払い、残りの七十万は誠一が払った。
 その後妻は働くでもなく、家事をするでもなく、誠一が帰宅するとアパートにはいないことも多かった。
「ちょっとぐらい友達と遊びにいってもいいじゃない? 私の昔の彼氏はそんなに心が狭くはなかったけど?」
 毎日は、労働で埋められ、妻の顔を見る時間は多くはなかったし、決して気があう夫婦ではなかった。
 怒鳴り声。
 ああ、これは自分の声だ。
 何を怒っているのかはわからない。とにかく怒鳴っている。

 目が覚めると窓の外で秋の雨が降っていた。
 誠一は毛布の中で全身に汗をかいていた。
 広い室内はがらんとしていた。
 暖炉に火をいれる。
 もう一度手紙を読んでみた。封筒にこの家の住所は書かれていない。誠一自身も住所は知らない。人にいうときは緑丘駅近くの元魔女の家で通じる。住所はないのに、この手紙はどうして届いたのか。
 夢の記憶はだんだん曖昧模糊もことしてくる。
 ここにきた最初の頃は、帰らなくてはと、試行錯誤していたが、最近はもう帰る努力はしなくなっていた。慣れてくると居心地は良く、帰りたいか、と自問するとよくわからなくなる。

 夏から秋にかけての鶏山での鉱物採取で、森本銀行の預金通帳残高は二千五百万円を突破した。
 鶏山では数多くの野生動物を見た。鹿や、猪、孔雀くじゃくや、山雉、狐、狸、名前もわからぬ猿。しかし、魔物と思える存在には出会わなかった。
 しん、と静まった冷気漂う山に入り、そして下山後には繁華街である中央広場駅周辺で温かい食事をする。そのギャップも楽しかった。

 雪が降り、その翌日暖かくなって雪が解けた。
 誠一はそのとき、中央広場駅近くにある酒屋で日本酒を選んでいた。「雁木がんぎ」をレジに置き、支払いを済ませたところでサイレンが町に響き渡った。
「あちゃあ、きたきたきた」酒屋の店主は外に飛び出していく。
 何がきたのだろうと誠一も店の外にでた。
 寒風が頬を撫でた。
 うっと異様な光景に息を吞んだ。
 長い手足をもった赤黒い異形の生物が、広場にいた。
 蜘蛛くもを思わせる生き物だった。
 四つん這いだが、もしも全長を計測したら五メートルはあるように見える。目は八つはあった。長い指の先に刃物のような爪がついていた。
 ああ、これがサンドイッチ屋がいっていた魔物というやつかと思う。
 こんな生物ともし山で出くわしたのなら──確かに、猟銃を買っていけ、と勧告されるのは当然だろう。
 あちこちの店から、店主や客たちが、武器をもってでてきた。
 魚屋がもりを、洋服屋がやりを、肉屋が猟銃をもって立った。そのほかの人々も、五人に一人は何かしらの武器をもっていた。
 ふと洋菓子店に視線を向けると、店の前にマロンさんも弓矢をもって立っていた。
「やるっぞおお」誰かが叫んだ。魚屋だった。
「おおう」とみんなが白い息を吐いて武器をふりあげた。
 猟銃を構えた肉屋の主人が威勢のいい大きな声で指示をはじめた。
「おええエイ! 離れろ離れろい! 魚屋ああああ、まわりこめイイイイ」
 怪物は手足を振り回して、通りに逃げたが、すぐに前後から攻撃され、背中に無数の矢を受けた。
 誠一は野次馬の集団にまざり、戦う男たちを見守った。
 みな白い息を吐きながら、怪物を追いかけていく。怪物は建物の塀や屋根を破壊したり、シュウシュウと威嚇の声をだしながら、刃物じみた爪のついた前脚を振り回していたが、角を曲がったところで、横から洋服屋に槍で腹をつかれ、家の屋根に上った肉屋から銃で頭を撃たれて、地面に倒れた。
 すかさず魚屋が腹に銛をつきたてた。
 そこで完全に動きがとまった。
 人々の間に、安堵のため息と、拍手と歓声が起こった。
 死んだ魔物は黄色い炎をあげてぶすぶすと燃え出すと灰になって消えた。
 終わってしまうと、緊張は弛緩し、和んだ空気になった。
 大事にならなくてよかったですねえ、いやあ、お疲れ様です本当に、などとお互いにねぎらいあったりしながら、みなぞろぞろと引き返していく。
 マロンさんがいたので、声をかけた。
「初めて見ましたよ、これが魔物でしょ?」
「まあ年に一、二回はでるかな」困ったものだというふうにマロンさんはいった。
「どこからくるんですか?」
「わからないね。外からさ。鶏山の向こうからくるって説が多い」
 マロンさんは結局矢を放つタイミングがなかったので、野次馬連中と一緒に後方で一部始終を見ていただけだった。
 魔物の出現と、退治に至る住民の団結は、どこか祭りのようでもあった。

 冬の間にまた手紙がポストに入っていた。
 内閣総理大臣からだった。
 宛名は〈鈴上誠一様〉と記されていた。

 あの忌まわしき日以来、かつての平和は消失しました。しかし、我が日本国は今も存続しており、国は総力をあげて、あなたの救出に挑む所存であります。
 これは人類に課せられた試練であります。どれほど困難であっても、今、一丸となり、この災厄に立ち向かい、平和を取り戻しましょう。
 貴殿は一人ではありません。希望を失わず──

 手紙はさらに続き、最後には、〈貴殿が英雄として凱旋なさる日を待ち望んでおります〉と結んであった。
 さすがにこれは悪戯いたずらだろう。誠一は思った。行方不明者のところに内閣総理大臣から手紙がくるはずがない。そして、総理大臣の名前も、おぼえのない名前だった。自分が失踪している間に総理が変わったという可能性も考えたがよくわからなかった。
 封筒を見た。妻の手紙と同じく住所は記されていなかった。しかしこんな悪戯をする友人知人の顔は思い浮かばない。
 暖炉の前で紅茶を飲みながらぼんやりしていると、自分の人生そのものも誰かの悪戯のように思えてきた。

 春になった。
 冬の間は控えていた鶏山に向かう。
 猟銃を背中にぶらさげ、道具をもって注意深く登っていった。
 山頂付近はまだ雪が残っていた。中腹の道を歩く。
 泉が湧き出ており、その近くに輝く石の塊があった。
 五キロほどの塊をもって下山し、鉱物商の老人のところにもっていく。
「ダイヤモンドの原石です。一千万円でどうでしょうか」
 誠一は思わず笑った。
「そんなに」
「妥当な金額ですよ」
「あの山は鉱物だらけですね」
「山が産むのですからなくならないのです。取り尽くしても翌年には地肌から露出しています。キノコみたいに現れるんです」
 鉱物商はいった。
 こんなに簡単に金を稼げるなら、他の住民もすればいいと思うのだが、いつも路面電車を精霊の森駅でおりて、山へと歩いていくのは自分だけだった。
 しかし、考えてみれば、お金というのはこの世界でどれほどの重要さをもっているのだろう?
 誠一の知る町の住人で、生活苦にあえいでいる人間はいなかった。ホームレスも見たことがない。
 きっとここでは仕事というのは、役割なのだ。
 マロンさんがおいしいお菓子を作り続けるように、肉屋が一軒しかないように、自分の役割というものを見つければ、金銭など、特に通帳の残高など、どうでもいいものなのかもしれない。
 マロンさんのお店に寄った。
「いらっしゃい。暖かくなってきたね」
「春だものね」
 バターと蜂蜜のかかったパンケーキを注文する。
「世界って今、ヤバイんですかね」
 いつか怪物の現れた広場はあちこちに花壇が作られ、春の花が咲きはじめていた。
「え、世界? さあ。ヤバイの?」マロンさんはいった。「なんで?」
「わかんないけど」誠一はいった。総理大臣から手紙がきたというのは、どこか荒唐無稽でほら話のようだし、マロンさんに、あまり強く興味をひかれても困るので黙っていた。
「でもさあ。世界って基本的に常にヤバイよね。ヤバイのが世界なんじゃない」
「なるほど」確かに、思い出せば、いつもあちこちで戦争していたし、日本列島にしても、地震や何かの大きな災害がいつもどこかで起こっていた。
 いつだって世界はヤバイのだ。
「ここって平和ですね」
「そう? 魔物くるじゃん。こないだみたいにさ」
「魔物が紛れこんでくること以外にも、なんかあるんですか」
「う~ん」マロンさんは考え込む。「火山、地震はないかな。なんかあるといえば、そういえば、夜会、もうすぐあるよ」
「なにそれ」
「なんだろう。仮面舞踏会? このおおまつり郡一帯のナイトフェスティバル。な~んてほど大げさじゃないけど」
「どこでやるの」
「最果ての丘駅の先にある野原で」
 マロンさんは説明した。
 春の満月の晩、最果ての丘の野原にて、仮面舞踏会が開かれる。時刻は夜の九時から、夜が明けるまで。それは「夜会」と呼ばれている。
 参加者は、仮面をつけていくこと。仮面をつけないと、参加はできない。
 最初のうちはさほどの興味がなかったのだが、聞いているうちに様子を見てみたくなった。春の夜に、仮面をつけて踊る住民の、どこか絵画的であやしい映像が脳裏をよぎった。
「それ、マロンさんもいくの?」
「ふふふ、教えな~い」マロンさんはなぜだか照れたようにいった。「いったら、意味ないじゃ~ん。あとは精霊群の季節かな? そろそろ見られるかも」
「それはなんです?」
「夜に空を見ればわかるよ」
 仮面は、広場の東側にある店で売っていた。腕輪や、ネックレス、あるいは雑貨などを扱う店で、壁には何十種類もの仮面が並んでいた。羊、牛、馬、鳥、お化け、髑髏どくろ、どの仮面も、きらきら、ぴかぴかしていた。
 自分で作る人も多い──とマロンさんがいっていたのを思い出したが、少し夜会とやらの様子を見たいだけなので、そこまで凝ることもあるまい、と思い、ウサギの仮面を購入した。

 夜になると、誠一は自宅の三階のテラスにでた。
 空を見上げる。
 月がでている。と、青白く光るものが空を移動しているのを発見した。飛行機の速度よりは遅い。眺めていると同様の赤や緑の移動する発光体があった。
 なるほど。あれが精霊──精霊群か。
 高度はどのぐらいだろう。雲よりは低いので、せいぜい二千メートルぐらいなのかもしれない。
 マロンさんがいうには、この世界の上空には、天使や精霊、風人など様々な存在が棲んでおり、精霊群はそのなかでも最もありふれていて、容易に観測できるものだという。春になると、数多くの輝きがこの地方の空を横切っていくのだという。
 精霊群は、たいがいは春風と一緒にこの地に到来し、精霊群が現れれば冬の終わりという。
 じっと見ていると、また三十から五十の輝きが飛んでいく。色は赤や緑、オレンジや紫、青や黄色や白があり、どこか花火を思わせる。
 次から次へと現れるので、じっと見ていてもきりがなかった。サラダとミートパイの夕食をとり、仮面とローブをもって、家をでた。

 路面電車に乗ると、もう車中には仮面を被った人たちが乗っていた。どうも老若男女が参加するようで、仮面を片手にもった老人もいれば、若い男女もいた。ドレスの女性もいれば、着物姿の青年もいた。
 最果ての丘駅でおりると、道にずらりとキャンドルが並んでいた。キャンドルに縁取られた道を進んでいけば開催場所にいくようだ。
 家族連れが多い。
 誠一は一人で歩きながら、あるいはこれは誰かと一緒にいくべきイベントなのかもしれないと、微かな気恥ずかしさをおぼえはじめていたが、よく観察すると、一人できている男や女もいるにはいた。
 空を見上げると、皓々こうこうと月が輝き、音もなく数百の精霊たちが海のほうへ飛んでいった。
 誠一はウサギの仮面を被った。
 広場につくとドラムとチェロとマンドリンの楽隊がいた。楽隊も全員仮面をつけている。
 ドレスをまとった女や、タキシードの男たちがもう踊っていた。
 夜風に吹かれぼんやり眺めていると、さっと誰かが誠一の手をとり、踊りの渦に引き込んだ。
 手を握った誰かは、トランプのジョーカーを思わせる仮面をつけており、道化服だった。背格好や、手の小ささからおそらくは十代の少女ではないかと思った。
 こう踊るのよ、とその少女は、仮面の奥からくすくす楽しそうに笑いながら誠一に手ほどきすると、さっと離れていく。
 女の子と踊った、という印象と、トランプのジョーカーと踊った、という印象が同時に混ざり合い、不思議な感興があった。
 少しすると、狐の面をつけた女性が誠一の手をとった。
 絹の手袋をしたほっそりとした手に握られる。女はすっと誠一の胸元に身を寄せたところで「カナイさん?」とささやいた。「違いますよ」誠一は囁きかえした。「あらごめんあそばせ」女は笑いながら離れていく。
 何かおぼえがある。ああ、これはフォークダンスだと誠一は思った。仮面フォークダンスか。
 誠一の手を誰かがとった。猫の面をつけた男だ。
「男同士~」
 声でわかった。マロンさんだった。
「マロンさん?」ときくと、猫の面の男は「さあ、どうかなあ? わからないのが楽しいんじゃん、誠一くん」といって離れていった。
 次から次へといろんな相手と独楽こまのようにまわった。
 緊張がほぐれてくると、次第に恥ずかしさもなくなり、楽しくなってきてふわふわと浮いた気分になってくる。
 時折疲れて中心から離れて、体を休めた。舞踏会場の様子を眺めているのも面白い。最初に相手をしてくれたジョーカーの少女が、友人らしき少女とはしゃいで踊っていたり、あるいは別の仮面女性が、仮面男性と腕を組んで森の中に消えていったりするのが見えた。
 再び踊りの輪に入る。

 夜明け近くだった。
 最果ての丘の、海へ向かう断崖に沿った道を、一人の女性と手を繫いで歩いていた。
 会場の音楽はもう届かなくなっている。
 誠一はそっと女の顔に手をやり、面をはずした。
 黒い髪の女がでてきた。女は少し照れたようにいった。
「夜が明けるまでは、本当は外したらダメなんですよ」
「もう明けたんじゃないかな」
 誠一は自分の面も外した。
 しばらく女の顔を見た。なにかひどく懐かしい気持ちになった。どこか遠い昔にこの女を知っていたような気がした。ああ、そうだ。知っている。かつて電車の中で──ここへ来ることになった日。しかしそれはあまりにも遠く前世のようにすら思えた。
「あなたのことを知っているような気がします」誠一はいった。
 女も誠一の顔をまじまじと見ていった。
「私も、なんだか、そんな気がする」
 誠一と女はしばしの間、夜明けの風に吹かれながらお互いを見つめあった。
「どちらに住んでいる方ですか?」
「最果ての丘のふもとの農家」それから女はいった。「私の名前は、ナリエ、最果ての丘のナリエです。また会えるかしら? あなたのお名前は?」

 初夏、街路のサルスベリが白い花を咲かせる頃、家の前の郵便ポストに手紙が入っていた。
 誠一はごくりとつばを飲むと、郵便物をもって家に入った。
 差出人は「防衛省・異空間事象対策本部」だった。ずいぶん長い手紙で、便箋びんせん三十枚に、資料と名付けられた書類が八枚あった。

鈴上誠一さま

 私は異空間事象対策本部長の田村たむらと申します。
 現在、貴殿は情報の遮断されたとてつもない孤独のなかにおられるのではないかと思います。
 私たちには貴殿がどのぐらい状況を把握しているのか、わかりません。
 総理と奥様からの手紙も同時転送したのですが、次元転換にかかる時間に誤差がでており、先に二つの手紙のほうが届いてしまったかもしれません。
 今回、この手紙では二つの説明をしようと思います。一つは、世界に何が起こったのか。もう一つは貴殿に何が起こったのか、です。

 世界に何が起こったのか?
 最初から説明しましょう。
 二〇XX年、一月十九日の早朝に、地球に〈未知なるもの〉がやってきたのです。
〈未知なるもの〉──それが何なのかは、今も議論の対象ですが、人類が初めて遭遇する存在でした。
 まず一月十九日に、無数の火球が観測されました。
 その後、空に未解明の現象が発生しました。
 それは穴のようにも他の何かにも見える、空間の歪みでした。
 ほどなくして根絶不能のプーニー(別紙1参照)が地上のあちこちに出現しました。まさに湧いてでるという表現がふさわしく、道路の側溝や、下水管、雑草はびこる空き地などから、真っ白ななめくじ状のものがでてきたのです。そしてあらゆるものを侵食しはじめたのです。
 一連のことは、
〈宇宙を浮遊していた、ある特殊なガス体が、地球に飛来し、それが地上の有機物(あるいはバクテリア)と化学反応を起こして、未知なる生物を誕生せしめた〉
 と説明されるようになりました。

 別紙1──
〈プーニー〉
 姿は白いもちそっくりの不定形の生き物で、柔らかく、手足、目鼻はなく、内臓もないが、ゆっくりと動き、有機物をとりこんで己の栄養にする。体長一ミリ以下では死滅する。他の個体とも融合して、どんどん成長する。
 一・一九以降に地上に登場し、知性は低いと推定される。宇宙粘菌とも呼ばれる。熱に弱い。

 プーニーが現れるや、そこら中で火災が発生しはじめました。
 プーニーは熱に弱く、その個体は火炎放射器で殺せるのですが、多くの場合、火のついたプーニーが暴れて走りまわり、あちこちに火をつけてまわるはめになったのです。
 大規模火災により大阪は三分の二が焼失しました。
 一方プーニーのほうは、わずかなかけらでも残っていれば、そこから再成長し、分裂を繰り返し、また下水道やどこかで増殖していくので、どれだけ殺しても根絶には至りませんでした。
 今では町でも、道でも、プーニーを見ないことはありません。
 一月十九日以降、多くの人が、精神に異常をきたしました。壮大な宇宙的悪夢を見るようになり、無気力と希死念慮がとりつき、年間の自殺者数は百万人をこえました。
 出生率は、プーニー出現以前の十分の一にまで落ち込みました。

 やがて開発された新型の観測機により、上空にある謎の現象を観測したところ、地球は巨大なクラゲ的な存在(別紙2参照)にとりつかれていることが判明したのです。
 概念図を説明します。地球を思い描いてください。そこに、北米アメリカ大陸ほどのクラゲが無数の触手を地球に突き刺してへばりついている。これが観測で判明した地球の状況です。
 この巨大クラゲには核があるのですが、生命なのか、非生命なのかという点からして議論があり、なんにせよ、仮に生命だとしても私たち地球人がこれまで定義してきた生命の概念にはあてはまらない全く未知の存在だということで落ち着きました。この存在は、今は〈未知なるもの〉と呼ばれています。


 別紙2──
〈未知なるもの〉
 外宇宙から飛来してきた存在。中心に核をもつ大きなクラゲのような姿をしている。
 地球の大気圏上に、〈想念の異界〉を作りだし、そこにほとんど動かずじっとしている。電波その他のコミュニケーションには一切応じず、次元の違う場所にいるため、物理的な攻撃はできない。核の色の変化は、プーニーの活性化と密接な関係があることを指摘されている。太陽と植物の関係に近く、〈未知なるもの〉の放射するエネルギーを吸収してプーニーは生きている。
 人類全体を無差別に襲う悪夢と、人類衰退の根本の原因ともされる。


〈未知なるもの〉は、異次元を観測する機械でこそ観測できるものの、我々の属する物理的領域とは別の次元、〈想念の異界〉に存在しているため、肉眼で見ることも直接ミサイルを撃ち込むといったようなこともできません。
 ちょうど十九世紀の人間が望遠鏡で月を眺めているような状況だったのですが、すぐにとんでもないものを〈未知なるもの〉に見つけました。
 なんと〈未知なるもの〉の内部、核のすぐ近くに、取り込まれている人間がいたのです。
 その人間が生きて、脳波を発していることもわかりました。
 それが貴殿であります。

 繰り返します。
 鈴上誠一さん。貴殿は現在、この地球外超生物の核付近に浮かんでいます。

 驚かれたでしょうか。それともご自身の状況は全てご存じだったでしょうか。
 想念の異界において、貴殿の主観視点では、おそらく自由に動くことができているのでしょう。観測機が捉えた貴殿の脳波からそのことが推測できます。
 貴殿の周囲には仮想現実を発達させたような〈世界〉が広がっているのではないかと推測しております。
 貴殿に何が見え、何が聞こえ、何を感じているのかはわかりません。
 なんにせよ、そこは宇宙クラゲのなかで貴殿が見ている夢の世界です。
 貴殿がなぜそこで夢を見ているのかは、私たちにはわかりません。
〈偶然〉なのか、〈必然〉なのか。
〈未知なるもの〉の生態システムが、そのような状況を要求したからなのか。
 あるいは、〈未知なるもの〉も望まずして起こった事故なのか。

 現在の我々にできることは、次元転送装置をつかい手紙を送ることだけなのです。そして、〈向こう側のあなた〉である貴殿は我々の手紙に返信はできません。今のところメッセージは一方通行です。
 また続けて、こちらから手紙を送ります。

 専門家によると、想念の異界と、私たちの現実の地球上では流れている時間が違うようで、私たちの世界では、忌まわしき一・一九から五年が経過しています。
 現在急ピッチで、新たな次元転送装置を開発中です。完成すればまた進展があります。
 決して希望を失わないでください。

 誠一はのびをすると、手紙をサイドテーブルに置き、昼寝をすることにした。
 二階の窓を開く。五月の風が舞い込んでくる。
 確かに、妻と総理からの手紙は先に届いている。わけがわからなかったが、とりあえずこれでいくらかの疑問の回答はでたことになる。──本当だとすればだ。果たして本当なのだろうか?

 考えると眠くなる。ゆっくりと己の体に触れる。滑らかな床板に触れる。全ては存在しているのだ。少なくとも自分にとっては。

(このつづきは本編でお楽しみください)
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