辻村深月さんが『かがみの孤城』で2018年本屋大賞を受賞されました。
それを記念しまして、カドブンでは辻村深月さんのKADOKAWA作品の試し読みを3日連続で公開いたします。
本日4月11日(水)は『ふちなしのかがみ』を公開いたします。
この機会に「辻村深月が描く、懐かしくって怖い現代の怪談」をぜひお楽しみください。
>>【「かつくら」presents】辻村深月『かがみの孤城』インタビュー
踊り場の花子
幽霊を見る人は、それを見るだけの理由をもつ。
目の前にあるのは、あなたを映す鏡である。
――これを裏切りと思うかどうかは、あなた次第だ。
プロローグ
みんなが下校した後の校舎は、昼間の騒々しさがまるで噓のように静まり返っていた。床に目を落とすと、茶色く濡れたような上履きの足跡がいくつかついている。
その上にモップを掛ける途中で、ふと思い出した。この学校の「花子さん」は階段に出る。一年生の頃からみんながよく話している学校の七不思議だ。
上から順番に拭いて下りてきた、三階から二階にかけての階段。踊り場で振り返ると、西向きの窓から差し込む夕焼けの光が目にしみて、何だか泣きそうになる。
心の表面を、影のように暗い不安が襲う。モップを動かして足跡の汚れを消した。顔を上げ、両腕で自分の肩を抱く。
――お前、「花子さん」と友達になればいいじゃん。お化け同士で気が合いそうだし。
去年の夏休み、自由研究の宿題でさゆりは『若草南小学校の花子さん』の研究をした。まだたくさん友達がいた一年生の頃、放課後ずっと話していたあの話。
勉強は苦手だし、みんながやってきた理科や社会の研究とはちょっと違うから心配だったけど、先生が褒めてくれた。それが嬉しかったことを、よく覚えている。
本やテレビで目にする「学校の花子さん」は、よくトイレに出るけど、うちの学校では、昔から階段に出る。学校の怖い話には、よく「七不思議」というのがあるが、うちの花子さんにも七つの「不思議」がある。
そういう怖い話のことを「都市伝説」と呼ぶのだということも、図書室でいろいろ本を読むうちに知った。
全国各地の学校に散らばる幽霊の「花子さん」。校舎何階の何番目のトイレに住んでいて、何をすると呼び出すことができて、何をしないと呪われる。修学旅行の最中に事故で死んでしまった子どもの霊だと言われている学校もあるし、トイレで首を吊った女の子だというところもある。
そして、うちの学校の花子さんは、昔、音楽室の窓から飛び降り自殺をした少女の霊だ。その時にできた傷が顔にある。六年生の子たちがまだ一年生だった頃から、ずっと伝わっている話。
みんな知ってることだけど、改めて特徴を書いていくのは楽しかった。だけど、発表している最中、後ろの席の女子たちがこそこそ話すのが聞こえた。
あんなの、わざわざ調べなくてもいいのにね。さゆりちゃんの研究、ズルじゃない?
ちらりと、あの子たちが自分を見た。それからクスクス笑う。
だけど、お化けがお化けの研究って、超笑える。お似合い。
学校の怖い話。
俯いてしまう。
あの子たちがみんな、自分のことを「お化け」と呼んでいることは知っている。一年生の頃あんなに仲が良かった子たちは、みんなさゆりから離れていってしまった。たいていの悪口にはもう馴れた。話を聞いてくれる先生だっている。だけど。
顔を思い出すと、腕がじくじくと疼く。階段の掃除。しっかりやらなきゃ、だって……。腕に押し当てられた熱い痛み。あの場所が、まだ痛い気がする。
花子さんなんて、本当は何にも怖くない。学校で本当に怖いもの、それは──。
踊り場に置いたバケツの水にモップを沈める。じゃぶじゃぶと音を立て、毛先をゆすいで残りの階段掃除に戻ろうとした時だった。
──どうして掃除してるの。
背後から、いきなり声がした。反射的に声の方向を振り返る。そして──、驚いた。
いつ、やってきたのか。
たくさんの掲示物が貼られた壁の前に寄りかかるようにして、女の子が一人きり、ぽつんと立っていた。
あまり見かけない、見事なほどに切り揃えられたおかっぱ頭。真っ白いブラウスと赤いスカート。どこかで見たような恰好だ。すぐにテレビアニメのちびまる子ちゃんを思い出した。映画やドラマで「昔の子ども」という役柄を与えられた子が、その衣装と鬘のまま、画面から抜け出てきたみたいだ。
目が、お祭りで売られてるお面の狐みたいに細い。
「どうして、掃除してるの」
その子がまた聞いた。瞬き一つせず、じっとさゆりの顔を見上げている。
「……だれ」
ようやく声が出た。さっき、振り返った時には確かにいなかった。下から登ってくる足音も聞いた覚えがない。
「何年生?」
尋ねながら、顔を確認する。上目遣いに見上げる目が細く歪んで半月形に笑って見える。
知らない顔だった。ここに通ってる子たちの顔が全部わかるわけではないけれど、少なくとも今まで見たことはない。
「いつからいたの? 全然、気付かなかった」
「ずっといる」
掃除をするさゆりの手元、彼女の目がモップの柄を見つめる。
「どうして、掃除してるの。みんな、もう帰ったのに。ここ、二組さんの掃除場所でしょ?」
背丈や体つきから考えて、四年生より上ということはなさそうだった。
二階から三階にかけてのこの階段は、確かにさゆりのクラス、三年二組の掃除場所だ。学年を言わずに二組さん、と呼ぶということは同じ三年生なのか──、考えて、あっと思い当たった。
隣のクラス、一組に、入学してからずっと不登校を続けている女子がいる。さゆりは一度も会ったことがないけど、保育園が一緒だった子たちが話してた。学校には来ないけど、たまに放課後、一緒に遊ぶって。
「──藪内さん?」
おそるおそる尋ねる。
だとしたら、彼女はさゆりの憧れだった。学校に来ないなんて、羨ましくて、羨ましくて、たまらなかった。さゆりもそうなりたかった。女の子はどうだっていいというように首を傾げるだけだ。ねぇ、とまた続ける。
「どうして一人で掃除してるの」
「みんな、帰っちゃったから」
みんながやらないとしても、それでもきちんとやらないと怒られるのだ。考えると、足が竦んだようになる。緊張したようにまた、おなかが痛くなる。
「先生も、怒るし」
「ふうん」
女の子が細い目をさらに細めた。スカートの後ろで手を組み、さゆりの顔をじろじろと見つめ回す。すっと一歩、こっちに近付いた。
色が白い子だった。踊り場の隅で壁の陰になると、顔だけがぼうっと浮かび上がって見える。触れたら火傷をしてしまう、アイス屋さんのドライアイスのような冷たさを感じて、それ以上は近付きたくなかった。真っ白い、すべすべの顔。
「だけど、毎日だよね」
びっくりして、「え」と呟く。黙ったまま顔を見ると、女の子が続けた。
「青井さゆりちゃん、毎日、一生懸命お掃除してる」
「私の名前、知ってるの……?」
掃除のこと、なぜ、知っているのだろう。見ていたように。
「大変じゃない?」
細い目の間に、表情らしいものはほとんど浮かばない。
「一人だけで、上から下まできれいにするの」
「大変だけど、でも前に読んだ本の中に書いてあったの」
ゆっくりと階段を下りていく。前に立つと、女の子はさゆりとほとんど背丈が同じくらいだった。近くで見ると、ますます色の白さとそれと対照的な真っ黒い髪の色にたじろいでしまう。
「『一度に全部のことは考えない。次の一歩のこと、次の一呼吸のこと、次の一掃きのことだけ考える。そうすると、掃除が楽しくなってきて、楽しければ仕事がはかどって、いつの間にか、全部が終わってる』」
女の子が不思議なものを見るようにさゆりを見た。彼女が瞬きする時に下を向いた睫がとても長い。さゆりはゆっくり話した。
「『モモ』っていう本。主人公のモモの友達で、道路掃除をしてるベッポっていうおじいさんが言ってた。大変なことをする時は、次のことだけ考えて、終わるのを待つんだ」
「それ」
唇の先から出た言葉が空気の上を滑るのが見えるような、透明な声だった。葉っぱの上で丸くなった雨粒が弾かれたような。そうか。この子の声はエレクトーンか何かで出したような、電子音と似ている。
「どんな話?」
「モモっていう名前の女の子が主人公で、時間を──」
説明しようとして、思い出した。
「読んでみたい?」
問いかけると、女の子は迷うように黙った後で、躊躇うように、けれどこくりと頷いた。目はさゆりを見つめたまま、顎の先だけが首に沈む。
「ちょっと待ってて」
さゆりは今日、その本を持ってきている。返そうと思って、いつも鞄の中に入れっぱなしにしている。
「貸してあげる」
駆け出した時、彼女が首をまた傾け、額の前髪が揺れた。その下に、はっとするような赤紫色の傷を見たような気がしたけど、すぐにまた前髪がさらりとおでこを隠した。見てはいけないものを見たような気になって、そのまま彼女から目を逸らす。教室に急いだ。
本を返すのはいつでもいい、と言われていた。ただし、短くてもいいから感想を書いてね、と言われた。
二階の自分の教室に戻り、鞄から本を出す。中には感想を書いたお礼の手紙が挟まっている。抜き取ろうとしたけど、もしかしたら藪内さんもさゆりを真似して手紙を書いてくれるかもしれない。そしたら、先生はきっと喜ぶ。本を貸したことを、いいことをしたって、褒めてくれるかもしれない。
本を取って戻るまで、五分もかからなかったと思う。だけど、踊り場に行った時、そこにはもうさっきの子の姿はなかった。
「藪内さん?」
三階に続く階段を登り、左右の廊下を見回して呼ぶが返事はない。帰ってしまったのか。それとも、どこかに隠れているのか。
「藪内さん? いるの?」
まだ校舎内のどこかにいるのなら、持っていくかもしれない。──友達になれるかもしれない、という気がしていた。
彼女が立っていた壁の隅に本を置く。主人公モモと、亀のカシオペイアの後ろ姿が描かれた黄色い表紙。明日の朝、早く来てまだこれが残されているようなら、持って帰ればいいし。
「藪内さん」
もう一度、さっきよりもいくらか声を張り上げる。
「またね!」
──花子さんの『七不思議』、その一。
この学校の花子さんは、階段にすんでいます。
踊り場に反響した自分の声にひきずられるようにして、自由研究のことを思い出した。
ふと、床に目を落とすと、さっきまではなかった、水気を含んだ茶色い足跡がついていた。小さな上履きの足。ちょっとだけ、おかしくなって笑った。
幽霊は、足があるのかな。
壁に立て掛けた本をちらりと眺めてから、その場に残ったモップを手に取る。
さっきまでの楽しかった気持ちがしぼんで、指先が微かに強張り始める。掃除、また汚いって言われるかもしれない。怒られるかもしれない。
首を振り、次の一拭きのことだけ考えて、青井さゆりはまた階段に戻る。
(このつづきは、本編でお楽しみ下さい)
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