試し読み
【試し読み】深町秋生『地獄の犬たち』
深町秋生さん『地獄の犬たち』が第20回大藪春彦賞の候補作にノミネートされました。これを記念して「カドブン」では本作の冒頭24ページを無料公開いたします。続編熱望の声が止まらない最凶エンターテインメントの世界観をお楽しみください。
兼高昭吾は夜間双眼鏡から目を離した。埃交じりの風が吹きつけてくる。砂が目に入った。
隣の室岡秀喜が手を差し出す。
「大丈夫すか」
室岡に夜間双眼鏡を手渡した。
ミネラルウォーターのペットボトルを摑み、水を直接かぶって目を洗った。着ているワイシャツが濡れたが、気にはしなかった。すでに衣服は汗で濡れている。
「今夜でカタをつける。暑さは苦手だ」
兼高らの眼前には、東シナ海の暗闇が広がっていた。
昼間は、沖縄らしい透明度の高いマリンブルーの海原を見せてくれる。夕方になると、赤々と燃える太陽がゆっくりと沈んでいく。自然が織りなす芸術的な光景だった。
ガイドブックの写真のような、天然の白い砂浜があり、本格的な夏シーズンを迎え、昼間はかなりの賑わいを見せる。マリンスポーツに興じる観光客の姿を目撃していた。
室岡は夜間双眼鏡を覗きながら言った。
「東京よりは涼しいですよ。海風がずっと吹いてますし」
「その風が忌々しいんだ」
兼高はタオルで顔を拭いた。
つねに風が吹きつけてくれるおかげで、陽光は強烈であっても、たしかに熱気が滞留する東京の夏よりは涼しく感じられる。
すでに真夏日を何度か迎えており、街を行き交う米兵や不良じみたガキたちは、タンクトップやハーフパンツを着用し、これみよがしにタトゥーをさらしていた。
兼高らにも彫り物があった。しかし、むやみに披露できる類のものではなく、長袖のワイシャツで隠している。その筋の人間と思われないよう、兼高は来沖する前日にシルバーの頭髪を黒く染め直していた。口ヒゲもきれいに剃り落とした。人畜無害なカタギになりすましている。
弟分の室岡も姿を変えた。無数につけていたピアスを外し、肩まであった長髪をばっさりと切って、ベリーショートに刈りこんでいた。今年で三十歳になるが、就活中の大学生のように見える。
ふたりがいるのは沖縄本島北部の本部町だ。海岸を走る国道449号線沿いにある元リゾートホテルだった。円形に膨らんだロビーが特徴的な凝った建築物だが、すでに営業を停止しており、廃墟となって数年が経つ。解体されずに、放置されていた。
管理しているのは、沖縄の任俠組織である琉神会とつきあいのある建設会社だ。琉神会は、兼高が所属する東鞘会系の友誼団体でもある。元リゾートホテルにお邪魔したいと、琉神会を通じて建設会社に話を通すと、理由も訊かずに快く廃墟の鍵を貸してくれた。
その廃墟は、沖縄北部の名護市と美ら海水族館を結ぶ、片側二車線の広い道路の傍にあった。道路こそ立派ではあったが、付近に街灯はひとつもなく、あたりは濃厚な闇に包まれていた。
本格的なリゾートの恩納村や北谷町と異なり、近くにあるのは、せいぜい沖縄そば屋とコンビニ、それにアメリカンダイナー風の古ぼけた食堂ぐらいだ──八〇年代風のネオンを光らせ、ステーキやAランチのうまさを訴えている。
廃墟の周囲に高層建築物はなく、ターゲットを監視するにはうってつけの場所ではあった。唯一、難点をあげるとすれば空気がよくないことぐらいだろう。海側はいかにも南国の楽園のように映るが、反対側の山側は惨憺たる有様だ。石灰岩を採掘するための巨大な採石場やセメント工場があり、山が大きく削り取られている。砂利を運搬するダンプカーが激しく国道を行き来するため、採石場周辺は風で運ばれた粉塵が飛び交っている。周辺の建物や道路は土色に染まっていた。目に砂が入ったのも、そのせいだ。
兼高は呟いた。
「そろそろ、東京のまずいメシが懐かしい」
「こっちのメシはダメですか」
「うますぎる。おかげで三キロも太った」
「お気に入りじゃないですか」
室岡が小さく笑った。
「仕事で来るのは二度とごめんだ」
兼高らが来沖してから二週間が経った。ターゲットが、故郷の沖縄に逃げたからだ。
ターゲットの故郷は那覇市だったが、今の東鞘会の気質をよく知っている。那覇市内に留まることなく、恩納村や北谷町などひんぱんに住処を変えていた。行方を捜し当てるのに時間がかかった。
室岡が息を吞んだ。
「ドア、開きます」
彼から夜間双眼鏡を奪った。痛む目で覗く。
約三百メートル先に四階建ての建物があった。一見するとマンションに見えるが、長期滞在者用のコンドミニアムだ。沖縄ガラスの工房の傍にある。
夜間双眼鏡で最上階を覗いた。たしかにドアから、まず男がひとり出てきた。アロハシャツに長髪の中年男だった。頰ヒゲを生やしたむさくるしいツラだ。アロハウェアの袖のあたりにタトゥーらしきものがチラチラ見える。太い腕と体格のよさから、まるで中南米出身の大リーガーのように映る。
長く伸びたヒゲのおかげで、気づくのに多少の時間がかかった。しかし、藤原だとわかった。ターゲットの腹心だ。藤原は警戒するような目で周囲を見渡した。その態度だけで充分だった。
「行こう」
兼高は走り出した。
廃墟ホテルの屋上は、雑草やコンクリートのひび割れで足を取られやすい。注意深く進みながら非常階段を下りる。スラックスのヒップポケットから、革手袋を取り出して嵌める。
下にはトヨタのハイエースを停めてあった。運転席に室岡が乗り、助手席に兼高が陣取った。エンジンがうなると同時にハイエースが国道へと出る。ハイエースはヘッドライトをつけずにコンドミニアムへと向かう。
室岡がため息交じりに言った。
「やっぱ、おれたちだけですか」
「びびってんのか?」
室岡は鼻で笑った。
「よしてください」
「よく知らねえチンピラ寄こされてもな。それに琉神会には、あいつの友達や親戚がいるらしい」
フロントガラス越しに夜間双眼鏡を覗く。
四階にいるのは藤原だけではなかった。Tシャツ姿の太った坊主頭もいる。まるで相撲取りのような巨漢だった──見ない顔だが、こいつもボディガードらしい。それに、かりゆしウェアを着た五十男がいた。
思わず笑みがこぼれる。
「見つけた」
ターゲットの喜納修三だった。
アウトローの臭いを漂わせている護衛どもと違って、灰色の頭髪を七三分けにし、細いフレームのメガネをかけている。セカンドバッグを小脇に抱える姿は、地元の商店主のようだ。
車載時計に目をやる。時刻は二十一時を過ぎていた。コンドミニアムには食事のサービスはない。市街地の焼肉店にでも行くのだろう。喜納は無類の肉好きだ。
ひさびさに見る喜納は、逃亡生活に疲れて少しは瘦せたかと思いきや、まるで逆だった。黒々と日に焼けて、むしろウェイトが増したようだった。面長だった顔が満月のように丸くなっている。なにしろ、しこたまカネを貯めこんでいる。
沖縄出身の喜納は、護衛らと異なり、地元に里帰りしたような、のんびりとした顔をしていた。現役の頃は、口よりも手が先に出る気短な男として知られていたが。この地元でも少年時代に、傷害致死事件を起こし、沖縄市の少年院に放りこまれている。
喜納にはかつて湯吞みを投げつけられたことがある。寿司屋で使うようなでかい湯吞みだ。至近距離から投げつけられ、額を七針縫う羽目になった。
護衛の藤原にしても、ベテランのプロボクサーのように瞼が腫れぼったく、鼻がひしゃげている。しょっちゅうボスに木刀やらゴルフクラブでかわいがられているうちに顔が変形していったのだ。
室岡がハンドルを握りながら尋ねる。
「連中、持ってますか」
「わからん」
夜間双眼鏡は、エレベーターを待つ喜納たちをクリアに見せてくれたが、通路の外壁のせいで胸のあたりまでしか確認できなかった。
室岡が訊いたのは、拳銃を所持しているかどうかだ。三人ともアロハやTシャツなど、ゆったりとした恰好をしている。腰や腹に拳銃を隠し持っている可能性はなくはない。
「持ってねえだろう……たぶん」
「たぶんって」
「やることは同じだ」
「せめて黒星や銀ダラじゃないといいんすけど」
室岡は呟いた。
これから命のやり取りをしようというのに、天気の心配でもするような、のどかな口調だった。歌舞伎町あたりにいるホストのような細い腰つきと薄い胸板、男性アイドルのようなガキっぽい甘いマスク。室岡は見た目こそ頼りないが、東鞘会系神津組切ってのキラーだ。今回もとくに緊張した様子は感じられない。ガキのころから血を見るのに慣れている。
兼高はといえば、平静を装いつつも、胃に差しこむような痛みを感じていたが。若頭補佐という立場で、喜納追跡の責任者でもある以上、態度に出すわけにはいかない。心臓の鼓動が速まっているのは、急に走ったからだけではなさそうだった。
黒星も銀ダラも、共産圏の国々で造られたトカレフを指す。一九八〇年あたりから日本に大量に密輸され、ヤクザ御用達の拳銃として有名になった。
たいていは中国製のコピー品で、銀ダラとはクロームメッキを施した銀色のトカレフだ。外見こそ太刀魚のように光り輝くが、海路で運ぶ拳銃の錆びをふせぐためであるとか、拳銃の古さをごまかすためとか言われている。いずれにしろ、弾を発射するだけが精いっぱいの粗悪品だ。
今どきの極道は、拳銃など簡単には持ち歩かない。警察にどうぞ捕まえてくださいと訴えるようなものだ。たとえ、自分自身が拳銃を所持していなかったとしても、護衛が持っていれば、銃の共同所持として、ボスまで銃刀法違反で逮捕される。かりに襲撃者を撃って追い払えたとしても、不法所持と発射罪がプラスされる。三千万円以下の罰金と長期刑が待ち受けている。
いくら表向きには現役を退いたとはいえ、喜納は引退を表明してから一年しか経っていない。つまり暴力団関係者と見なされ、県警のおまわりから職務質問されるだけで、懲役生活と罰金が待っているのだ。東鞘会にも気を配らなければならないが、沖縄県警の目のほうにも注意を払わなければならない立場にある。
コンドミニアムの建物に近づくにつれて、室岡はスピードを落とした。エンジンを吹かさずに、静かにハイエースを走らせる。兼高は荷台に積んだ工具箱を摑んだ。プラスチックの巨大なハードケースだ。
拳銃を持参できないのは、狙う側の兼高らも同じだった。琉神会に頼めば、いくらでも用意はしてくれるだろう。しかし、県警に目をつけられれば、長い懲役刑を喰らうのは同じだ。催涙スプレーやスタンガンといった護身用具も軽犯罪法に引っかかり、警察に発見されれば身動きが取れなくなり、仕事の継続は難しくなる。現在の東鞘会は、そんな愚かな人間を重用しない。
工具箱のフタを開けた。エレベーターを降りる喜納らの姿を肉眼で確認しながら。
「どれにする」
「いつもので」
室岡がハンドルを切った。
コンドミニアムの建物の前にある駐車場を、街灯が冷たく照らしていた。〝わ〟ナンバーのレンタカーがずらっと並ぶなかで、どこで手配したのか、ブラックのレクサスが停車していた。首都圏でも喜納が乗り回していたお気に入りの高級車だった。
兼高は工具箱からマイナスドライバーを取り出した。全長約四十センチにもなる長大なサイズだ。先端の刃先をヤスリで研いで鋭く加工してある。それを隣の相棒に手渡した。
兼高はトルクレンチを握った。ボルトやナットを締める道具であり、約五十五センチの金属棒だった。重量は一・七キロにもなる。ずしりと重く、特殊警棒と重さや長さが似ていた。工具を持ち歩くために、自動車整備工場の名刺も作ってある。
ハイエースは敷地内の砂利道を走った。コンドミニアムの正面玄関から出てきた三人が、近づいてくるハイエースに気づく。室岡がアクセルペダルを踏み、ヘッドライトをすかさずハイビームで照らした。
喜納と護衛ふたりが、まぶしそうに顔を背けた。アロハを着た藤原がシャツをたくしあげる。
「あいつ、持ってますね」
室岡が急ブレーキをかけた。
「クソ!」
ハイエースに慣性の力が加わり、兼高の身体が前のめりになる。同時にドアハンドルを引いて扉を開けた。
兼高は外へと飛び出した。砂利道のうえを前転する。額や頭頂部に砂利がぶつかる。
「お前は!」
喜納が吠える。
地面を一回転した。護衛の藤原が、腕をまっすぐに伸ばそうとしているのが見えた。手に握られているのは銀ダラだ。息を吸う。身体が反射的に反応する。
兼高のトルクレンチが振り下ろされていた。武器と化した金属棒を、藤原の前腕に叩きつける。ドンと肉を打つ音とともに、太い木の枝が折れるような音がした。藤原の前腕がくの字に曲がった。やつの手から銀ダラがこぼれ落ち、砂利道の地面に落ちる。頰が痙攣する。
粗悪なトカレフが問題なのは暴発しやすい点にある。安全装置が簡略化され、手動セーフティがなく、改造が施されてトリガーが軽くなっている場合がある。五メートル先の的にも当たるかどうかあやしい代物だが、あまりに簡単に弾が飛び出てしまう。兼高らが危惧していたのは発砲そのものだ。
兼高の目的は、事件化させることなく、喜納の身柄をすみやかにひっさらうことだった。
藤原の右拳が飛んでくる。やつは腕を破壊されても、口から泡を吹きながら、右フックを繰り出してきた。トライバルタトゥーが入った二の腕は、丸太のように太く、ミドル級の元ボクサーを路上でノックアウトしたこともある。
肩をあげた。ショルダーブロックで右拳をふせぐ。鈍い衝撃とともに、自転車のチェーンが外れるような違和感が広がり、続いて激痛が脳にまで突き刺さった。左肩が脱臼したらしい。
くぐもった悲鳴が聞こえた。室岡が坊主頭の腹をマイナスドライバーでメッタ刺しにしている。左手の親指で喉仏を潰しつつ、錐状の刃物と化したマイナスドライバーを次々に繰り出している。坊主頭の太っちょが、クリーム色のTシャツをまっ赤に染めている。喜納はたじろいでいる。
動きを停めている暇はなかった。ヤクザはただでさえ地声がでかい。発砲音にも勝るとも劣らないボリュームで吠える。発砲をふせいだのに、せっかくの苦労が無駄になる。
左肩の激痛をこらえ、藤原のわき腹に狙いを定めると、トルクレンチを横に振ろうとした。藤原のガードが下がり、攻撃をかわそうと後ずさりする。
手首に力をこめてトルクレンチの動きを止める。胴打ちはフェイントだ。大きく前に踏み出してトルクレンチを振りかぶった。面打ちに切り替え、トルクレンチを頭に振り下ろした。藤原は左腕を上げて、頭を守ろうとする。
兼高は剣道の有段者だった。竹刀や木刀を振った回数は数十万回にも達する。素手では藤原に敵わないが、棒切れを持たせれば無敵だった。
トルクレンチの金属棒が、重力を味方につけて、藤原の左腕ごと脳天を叩いた。再び肉を打つ音がし、ミシリと骨がきしむ手応えが手に伝わる。藤原の目が泳ぎ、左腕がだらりと下がる。大きな身体がよろめく。
三度目のトルクレンチの攻撃を放った。レフェリーがいれば、割って入るタイミングだ。しかし、これはスポーツではない。ノーガードとなった藤原の顎を、袈裟斬りの要領で殴りつけた。石膏像を砕くような感触がした。藤原の口から数本もの歯と血液が噴きだした。藤原は首をひねりながら地面に倒れる。
室岡に刺された丸坊主もまた、穴の空いた腹から血液が漏れ出るのを押さえながら、膝をがくりとついた。信じがたいとでもいうように、目を見開きながら。玄関を出たときは、ふてぶてしいツラをしていたが、小便をお漏らししてしまったガキみたいな、情けない表情に変わった。
「ま、待て! 待ってくれ!」
「でかい声出すな」
「見逃してくれ、頼む」
喜納がしゃがみこんだ。
懇願するような口調で語りかけるが、両手はまったく別の行動を取っていた。銀縁メガネを外すと、左手でレンズを握り潰し、右手で砂利をすくい取る。
兼高が極道になってからは、目を疑うような体験の連続だった。とくに暴力の場面では。連中のバイオレンスにおける創造性の豊かさには、何度も舌を巻かされている。
喜納は降伏するような弱気な表情を見せつつ、握り潰したメガネのレンズの破片を、まず室岡へと投げつけた。喜納の左手は割れたレンズで傷がつき、破片はまっ赤に染まった。破片は室岡の顔面を襲った。室岡は顔をそむける。
間髪を容れずに喜納は、右手で砂利を兼高へ投げつけた。目つぶしのためだ。頭髪を七三分けにして、ヤクザの臭いを消しているが、かつては蛇頭や不良中国人相手に暴れた喧嘩師だ。
兼高は砂利から顔をそむけなかった。トルクレンチを振りかぶって間合いをつめる。小石や砂が目尻や鼻にあたる。
目を開けたままトルクレンチを、喜納の頭へと振り下ろした。ボウリング球をぶつけ合わせたような硬い音がする。頭頂部を狙ったが、喜納が後ろに退いたため、レンチの先端が額に当たった。砂利道に血の飛沫が散る。喜納の顔は、額を割られて血まみれになった。自分の血液で目が開けなくなった喜納を、革靴のつま先で蹴り上げる。
喜納は首をのけ反らせて、仰向けに倒れた。身体を痙攣させたが、白目を剝いたまま動かなくなった。ハイエースで近づいて約一分。拉致が目的だったが、時間がかかりすぎた。あたりを見渡す。
コンドミニアムからは、なんの反応もない。管理人がいるのは夕方までだ。男たちのうめき声や悲鳴よりも、カエルや虫の声のほうが騒々しいくらいだった。コンドミニアムの周りは、ジャングルのように枝の曲がりくねった木々が密生している。
兼高が喜納を失神させると、室岡は次の作業に移った。銀ダラを拾い上げ、弾倉を抜き、薬室に入った弾薬を出す。金属の塊と化した銀ダラを腹にしまった。兼高は左肩の激痛に耐えつつ、ハイエースの荷台から、人数分の寝袋と結束バンドを用意する。
喜納ら三人の両手を結束バンドで封じると、ふたりで寝袋に身体を入れた。人間の身体はただでさえ重いが、太った坊主頭を寝袋に押しこむのにはひときわ苦労した。兼高は腕一本しか使えない。連中を叩きのめすよりも手間がかかった。
室岡にうなずいてみせた。ハイエースに乗りこむと、ハンドルを握ってアクセルを踏んだ。コンドミニアムを離れる。室岡は喜納のレクサスに乗りこみ、ハイエースの後をついてきた。
ハイエースのなかは静かだった。エンジン音だけが響いている。三人のなかには、すでに息絶えた者もいるかもしれなかった。絶命させるのが最終目的でもある。死んでいてくれれば、抵抗されるおそれもない。
ハンドルを握る手が震えた。人を殺したかもしれないのに、もはやなんの感情も湧いてこない。
藤原がか細いうめき声をあげていた。意識があるのかどうかはわからない。顎を砕かれて言葉にならないようだった。バックミラーを後方で横たわる三人に合わせる。助手席にトルクレンチを置き、いつでも叩きのめせるように注意を払う。
ヘッドセットを頭につけ、携帯端末をポケットから取り出した。電話をかける。
〈ど、どうした〉
相手の識名がワンコールで出た。
琉神会系の団体に所属していた元極道で、大手ゼネコンの下請けや人材派遣を手がける実業家だ。姉は三期にわたって市会議員を務め、広大な軍用地を所有している地元の名士でもあったが、ヤクザとの関係を断っているわけではない。沖縄裏社会の顔役のひとりだ。
「荷を持っていきますので、準備を頼みます」
ハンズフリーで会話をした。法定速度もきちんと守る。つまらない交通違反をしでかし、警察の目に留まるわけにはいかない。
〈はーやー! 本当か。そいつは本当か?〉
識名は訝るように言った。ふだんはきれいな標準語を使うが、よほど動向が気になっていたのか、言葉に方言が交じった。
「本当です」
〈たったふたりでか〉
「ええ」
沖縄ではだいぶ世話になったが、自分の若い衆を貸そうと言って聞かなかった。たったふたりでは、喜納を静かに始末するのは無理だと訴え、兼高らと揉めたものだ。
「警察の動きをチェックしてもらえますか。例のコンドミニアムの敷地に、血液と歯がじゃっかん飛んだので、今夜中に清掃のほうも頼みます」
〈まさか……う、噓じゃなかねえ〉
「声を聞かせたいところですが、今は失神中です」
識名はしつこく尋ねてきたが、やがて少女みたいに無邪気に笑いだした。いかにもウチナーンチュらしい顔の濃い男で、脂ぎった禿頭と濃い体毛が特徴的な五十男だ。
同じ極道で同郷の者同士ということもあり、喜納の逃亡を助けるのではないかと、危惧を抱いた時期もあったが、その心配はいらなかった。同郷の者といえど、必ずしも仲がいいわけではない。その反対もありうる。裏社会においては、後者の例のほうが多いかもしれない。
喜納は沖縄の中高年たちの間では、かなり有名な存在だったらしい。大規模な暴走族を作り上げ、恐怖の総長として君臨した。後輩だった識名は、かつて喜納に根性焼きだの鉄拳制裁を毎日のように喰らい、実家が金持ちだったために、カネをむしり取られ、さんざんな青春を送る羽目になった。
怖い物知らずだった喜納少年は、地元の暴力団員を半殺しにし、沖縄にいられなくなった。三十年以上のときを経て、彼は地元に里帰りしたわけだが、それを知った識名は、青春時代の恐怖を思い出したのか、兼高らをなにかとサポートしてくれた。
米軍からアサルトライフルや手榴弾まで手に入れ、拉致に関しても、若い衆を総動員して手伝わせると言って聞かなかった。識名を落ち着かせるのにもだいぶ骨を折ったものだった。手伝いに消極的な怠け者にも手を焼くが、積極的すぎるのも考えものだと、室岡と苦笑し合っていた。
識名は笑い過ぎたのか、肺をぜいぜいと鳴らし、苦しげに咳きこんでいた。その彼に再び尋ねる。
「社長、聞こえていますか?」
〈わかってるさ。これでようやく枕を高くして寝られる。ありがとう〉
「まだ終わっちゃいません。処理の準備もお願いします」
〈任せとけ。おれも行って、あの野郎がくたばるところをこの目で見てえが……〉
「ともかく、よろしくお願いします」
識名の喜びの声を断ちきり、用件を伝えて電話を切った。
バックミラーを見た。積まれた連中の耳にも電話の内容は届いているはずだが、とくにこれといった反応はない。藤原のうめき声が、多少大きくなったぐらいだった。
国道449号線で本部町の市街地へと入り、〝そば街道〟と呼ばれる山道へと入った。曲がりくねった狭い道で、やはり街灯もない寂しい道だった。一日の営業を終えた沖縄そば店やフルーツの直売所の前を通り過ぎる。
山道の途中で左折し、今帰仁村へと通じる公道へと進んだ。コンドミニアムから走って三十分ほどの距離。左肩がじんじんと痛んだ。痛みのあまり、ときおり目がちかちかする。
公道の傍にマグライトを持ったタンクトップの若者がいた。識名建設の社員だ。ハイエースに向かって、灯りのついたマグライトを振ってみせる。公道から外れて金網製のゲートをくぐった。未舗装で雑草だらけの私道を入る。土埃を巻き上げながら、雑草を踏み倒して、目的地の古民家へとたどりついた。
瓦屋根の木造建築物で、屋根には、風雨にさらされて石の塊と化したシーサーがあった。人が長らく住んでいないのは明らかで、いたるところが傷んでおり、屋根の瓦ははがれ落ちていた。敷地は膝まで雑草が伸びている。周りには似たような古民家があったが、同じく廃墟になっているらしく、壁では蔦や木の枝が複雑にからみあっている。識名建設が保有している土地だ。
古民家の敷地には乗用車とトラック、それに黄色のミニショベルがあった。ハイエースが近づくと、乗用車やトラックから男たちが降りてきた。敷地内には、すでにミニショベルで掘ったと思しき正方形の穴があった。その横には、死体の分解を早めるための石灰の袋がいくつも積まれている。
ハイエースを敷地内で停めた。その後ろに室岡がレクサスを停める。ふたりが運転席から降りると、男たちは頭を深々と下げて兼高らを出迎える。
「お疲れさまです!」
うなずいてみせた。
識名建設の社員で、タンクトップやTシャツ姿の若者だった。細眉に口ヒゲ、銀のアクセサリーや、洋風のタトゥーを入れている。東京からやって来た、泣く子も黙る本物の殺し屋たち──社長の識名に吹きこまれたらしく、それぞれワルぶった恰好をしてはいるが、鬼軍曹に睨まれた新兵のように緊張している。
男たちと一緒に羽虫も大量に集まってくる。虫よけスプレーをたっぷり浴びていたが、沖縄の蚊はうんざりするほどしぶとい。肌のいたるところを刺されていた。じいじいという虫の鳴き声に、鳥やカエルの鳴き声が加わる。濃密な生き物の気配に満ちていた。
「手伝え」
ハイエースの後部ドアを開けた。荷台に乗りこむ。
三つの寝袋を見下ろす。坊主頭の男の首筋に指をあてた。身体はまだ温かかったが、脈は停まっていた。指が血で染まる。タオルで血を拭った。
男たちに寝袋を外へと引っ張りださせた。兼高はトルクレンチを握った。喜納と藤原はまだ息があった。
藤原はうめき声をあげていた。思わず耳を傾ける。死にたくない、死にたくない、死にたくない。顎を壊されて言葉は不明瞭だったが、意味は伝わってきた。聞いたのを後悔した。
「穴が小さいな」
室岡が顎に手を当てて、正方形の穴を見下ろしていた。二メートル四方に掘られた墓穴だったが、深さは一・五メートルほどしかない。
「小さいっすか?」
細眉の若者が答えた。
このぐらいで充分だろうと言いたげな口調だった。兼高に敬意と畏怖の念を抱いてはいるが、どちらかといえば室岡に対する接し方は軽かった。百八十センチを超える身長と、分厚い筋肉の鎧で覆われた兼高とは違い、室岡はフェザー級程度の体重しかなく、顔も端整で柔和ではあった。素人目には食の細そうな優男にしか見えないらしい。
持っていたトルクレンチを、地面に置かれた藤原の顔面へ振り下ろした。先端が鼻筋を直撃し、やつの右目がこぼれ出た。口から噴水のように血が噴き、兼高の顔面を濡らした。頭蓋骨が砕けたのがわかった。
血に濡れたトルクレンチを細眉の若者に向けた。彼は凍りついた表情で、赤く染まったトルクレンチを凝視する。
兼高は訊いた。
「大雨だの台風だの、このあたりの天気は荒れるんだってな」
細眉の若者の喉仏がごくりと動いた。
「だろ?」
「すいません」
細眉の若者は頭を下げた。兼高は若者の後頭部をトルクレンチのグリップで小突く。
「どうして謝る」
「とても降ります。すいません」
「わかっていて、浅く掘ったのか。お前ら」
識名建設の社員たちを睨みつけた。彼らは一斉に頭を下げた。ひとりがあわてて言う。
「もっと深く掘ります。すいませんでした」
「話を勝手に終わらせるなよ」
トルクレンチを男たちに向かって振った。
男たちの衣服や顔に、藤原の血が飛び散った。男たちは顔をそむけ、苦しげな表情を見せた。
「殺しに時効はない。根性入った猪や野犬が掘り返すかもしれないし、記録的な大雨が地面を洗い流すかもしれない。万が一でもホトケさんが顔を出したら、てめえらにケジメつけさせるぞ。お前らにも埋まってもらう」
室岡が微笑んだ。手には、血に染まったマイナスドライバーが握られている。
「兄貴、こいつらも殺りますか。どうも信頼に欠ける。いいかげんな仕事をされるくらいだったら、おれたちふたりで済ませたほうがいい。おれ、ショベル扱えるし」
「そうするか」
識名建設の社員たちは顔を強張らせた。
膝がガクガクと揺れている。チンケな脅しだったが、人里離れた山中で夜中、人を殺したばかりの極道に殺意を向けられれば、震え上がるのが当然かもしれなかった。最初からなにかしら難癖をつけては、恐怖心を植えつけるつもりではあった。
とっとと宿に戻りたかった。脱臼は何度か経験しているが、決して慣れるものではない。左肩はマグマのように熱く、痛みが激しく訴えてくる。しかし、ラストまで気を抜いてはならない。
死体が地表に出てしまう可能性は低い。このあたりが〝墓場〟に利用されて、もう五年以上の月日が経つ。すでに三体もの死体が埋められているという。問題は埋める人間だ。一丁前にワルぶっているくせに良心が疼きだすやつもいれば、ワル自慢のためにうっかり喋るアホもいる。
細眉の若者が膝をついた。額を地面にこすりつける。
「勘弁してください!」
タトゥーを入れたガキや、タンクトップの男が後に続いた。三人全員が土下座する。
「どうします?」
室岡が尋ねる。
「どうもこうもない。こいつら次第だ」
土下座の三人を眺めてから、寝袋に入った喜納を見下ろす。
彼の額は出血が止まっていた。しかし、兼高に顎を蹴られたせいで舌を嚙んだのか、口から血をあふれださせている。眉間にシワを寄せ、ギラギラとした視線を向けてきた。もう孫もいる五十男だが、瞳だけは暴走族の頭のような荒々しい光を湛えていた。必死に兼高にメンチを切る。
兼高は笑顔で受け止めた。
「そんなに睨まんでください。小便ちびっちまいそうですよ。叔父貴」
識名建設の三人に近寄った。彼らは殴打されると思ったのか、土下座の姿勢で頭をかばう。
「顔あげろ」
細眉の若者にトルクレンチの柄を向ける。若者はわけがわからないという顔を見せた。トルクレンチを握らせる。
「勘弁してほしけりゃ、あの寝袋のおっさん、ぶん殴ってこい」
「はい?」
室岡が腕を振った。武器であるマイナスドライバーが、三人の手前の地面に突き刺さった。三人が短い悲鳴をあげる。
「なんだったら、そっちを使ってもいい」
三人はなかなか動かなかった。タトゥーを入れたガキがおそるおそる言う。
「でも、おれら……埋めるだけとしか聞いてなくて」
抗弁するガキに後ろから抱きついた。ハーフパンツのうえから尻をなで回す。尻の穴のあたりに指を突っこみ、トライバルタトゥーの入った前腕に口づけをした。ガキの肌が粟立つ。
「あんちゃん、こんな刺青入れておいて、なに芋引いてんだよ。別の穴も掘っちゃうぞ」
「やります、やります!」
細眉の若者がトルクレンチを持ったまま立ち上がった。
「手加減するなよ」
ガキの股間をさすりながら命じた。
細眉の若者は喜納に駆け寄ると、トルクレンチを掲げた。振り下ろすのに時間がかかったものの、予想以上に打撃は力強かった。肉と骨が潰れる音がし、喜納の顔から噴水のように血が飛ぶ。
「次はお前だ」
タンクトップの男に命じた。
彼は真っ青な顔でうなずくと、地面に刺さったマイナスドライバーを摑み、鼓舞するように声をあげて駆けていった。大声をあげて、マイナスドライバーを寝袋越しに突き刺す。先端を尖らせたドライバーは、寝袋の生地を簡単に貫き、豆腐のように喜納の身体に突き刺さった。喜納がびくびくと身体を痙攣させる。
泣き声がした。タトゥーを入れたガキがベソを搔いていた。耳たぶを齧った。
「お前もやってこい。それとも、ここで青姦するか?」
ガキは兼高を振り払った。
勢いよく駆けだすと、仲間からトルクレンチをひったくり、瀕死の喜納に何度も振り下ろした。喜納の頭が潰れたトマトと化し、寝袋の周囲に血の池ができる。
室岡がウィンクをしてきた。兼高は拍手をする。
「これでお前たちも立派な人殺しだ。今起きたことは死んでも話すなよ。何十年もクサいメシを食いたくなかったらな」
三人の顔や衣服は血に濡れていた。悲しみと苦しみが混ざり合ったような複雑な表情を見せる。タトゥーのガキは涙や血を手で必死に拭っている。
兼高は思った。自分が初めて殺人をやったときも、似たような顔をしていた。
喜納の目玉が眼窩からこぼれ、瞳が兼高のほうを向いた。胃液が喉元までこみ上げてくる。それを無理やり飲み下し、あくまで平静を装った。兼高の本名は出月梧郎という。ただし、今は冷酷なキラーの兼高昭吾になり切らなければならなかった。
(このつづきは、本編でお楽しみ下さい)
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