現在配信中の「文芸カドカワ」2018年2月号では、小林泰三さんの新連載『人外サーカス』がスタート!
カドブンではこの新連載の試し読みを公開いたします。
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休演中のサーカステント内で、妖しいかけ引きをくり広げる一組の男女。
しかし彼らには秘密があって――。
予測不能のアクション×スプラッタ×ミステリ、開幕!
「サーカスのテントの中って、結構寒いのね」薄着でスタイルの良い金髪の女はきょろきょろと大テントの中を見回した。「風が入ってきてるわ」
まだ夏は始まったばかりで、湿り気を含んだ風はやや肌寒く感じられた。
「まあ、布で覆ってるだけだからな」サーカス団員にしては、ややほっそりとした体格の男はテントを支える鉄柱に触れた。「あんまり密閉し過ぎると、強風を受けたとき倒れてしまう危険があるんだ」
サーカスの煌びやかな衣装は身体の線をはっきりと見せる。
テントの布がばたばたとはためいた。
「誰もいないのね?」女はてくてくと中央のステージ──丸盆の方に向かっていった。
大テントの中の照明は殆どが消されていて、防災上必要な最小限の照明が内部を薄ぼんやりと照らしていた。
「夜だからな」男は後を追う。
「夜でも練習してるんじゃないの? わたしはそう思ってたわ」
「そういうときもあるけど、夜中まで練習することは滅多にないな」
「そういうものなの? サーカスって命懸けなんだって思ってたわ」
「命懸けだよ」
「命懸けだったら、それこそ必死で練習するんじゃないの?」
「う~ん」男は腕組みをした。「つまりだ。消防士とか、警官とかを考えてみて欲しい。医者でもいい」
「わたし、サーカス団員の話をしているのよ」
「そのうちサーカスの話になるから、ちょっと我慢してくれよ。消防士も警官も命懸けの職業だろ?」
「医者はそうでもないかも」
「でも、他人の命を預かっている。違うかい?」
「まあ、そうね」
「消防士とか警官とか医者は自分や他人の命を危険にさらす重要な仕事だ。訓練を怠ることは許されない」
女は頷いた。そして、欠伸をした。そろそろ退屈してきたようだ。
「だからと言って、彼らは四六時中、訓練ばかりしている訳じゃない。休息や家族との時間も必要だ」
「つまり、どういうこと?」
「彼らも、俺たちも人間だってことさ。そして、人間は恋だってする」男は女を引き寄せようとした。
「えっ? ここで?」
「ここでいいだろ? せっかくサーカスに来たんだから。こういうところでした方が記念になる」
「だって、ここ、外と一緒じゃない」
「外とは全然違うさ」
「テントの中じゃなくて、あなたの部屋に行ったら駄目なの? まさか、奥さんがいるとか?」
「俺の部屋だって、テントだよ」男は笑いながら言った。「そして、隣のテントまでは五十センチしか離れていない。まあ、みんな慣れっこで、物音は気にしないけど、君は気になるだろ?」
「じゃあ、あなた、いつも女の子をここに誘っているの?」女は呆れたような顔をした。
「いつも?」男はどう返事しようか迷っているようだった。「俺、そんなに遊び人に見えるかな?」
「ここを使うのはあなただけ? それとも、他の人も一緒なの?」
「他のやつら?」男は少し考え、そして唇の前に指を立て、耳たぶの後ろに掌を添えた。「がたがた言ってるか?」
「いいえ」
「ぎしぎしと座席が軋む音は?」
「しないわ」
「だったら、今日は俺たちだけだ」
「あらそうなの?」女はにたりと笑った。
「何かおかしかったかい?」
「いいえ。ただ、いつもは他の人たちもいるのかと思って」
「まあ他のやつらがいても気にしないけどね」
「まさか」
「互いに見えないし、聞こえないんだ。そういうルールだから」
「でも、実際には見えたり聞こえたりするんでしょ?」
「あんまり見えたりはしないな。暗いし、たいてい物陰にいるから。聞こえる方は……あれだよ。BGMだと思えばいい」
「こっちの声も向こうにはBGMって訳ね」女は男の首に腕を絡めた。「ねえ。サーカス団員ってもてるの?」
「さあな。遊ぶやつは遊んでいるけど、真面目なやつも多い。それは別にサーカスに限ったことじゃないだろう。そうだな。危険と隣り合わせの仕事だという理由で、好奇心が旺盛な君みたいな子にはもてるかもしれないな」
「あなた、何してる人だっけ? 空中ブランコ? 綱渡り? それとも、玉乗りするピエロ?」女は耳元で囁いた。
「知らないでついてきたのか?」男は呆れたように目を丸くした。「芸を見て惚れたんじゃなかったのか?」
「あなたがサーカス団員だと言ったからついてきたのよ」
「サーカス、大好きって言ってたから。てっきり、サーカスを見に来た客だと思ったんだ」
「サーカスは好きよ。だけど、テレビで見るだけ」
「生で見たことはないのか?」
「さあ」女は考え込んだ。「たぶんないと思う。ひょっとしたら子供の頃に見たことがあるかもしれないけど、覚えてないわ」
「覚えてないのなら、たぶん見てないだろう。サーカスを見た記憶が消えるはずはない」
「どうして、そんなことが言えるの?」
「本物のサーカスの記憶は強烈だからさ」男は天井の布を見上げた。「あれは十歳のときだった。俺は親父に連れられてサーカスに来たんだ。このサーカスじゃなかったけどな」
「わたし、てっきりサーカスの人たちって世襲なんだと思ってたわ」
「もちろん、代々のサーカス芸人はいる。だけど、俺みたいに外からサーカスに入ってくる人間もいる」
「子供のときに攫われたりとか?」
「そんな訳ないだろ。もしそんなことが本当に行われてたら、サーカスは常に警察にマークされているはずだ。あれは、子供を脅し付けるための方便だ。サンタクロースの逆だな。……だいたい今時そんな言い伝えは滅多に聞かないぞ」
「うちの親は古風なのよ」
「実は結構齢くってるとか?」
「そうよ。わたし若く見えるの。本当はあなたのお祖母さんぐらいかもよ」女は笑った。
「君が俺の祖母さんだったら、俺はまだ生殖細胞にすらなってないよ」男も笑った。「どこにする? ステージは広過ぎて落ち着かないから座席の方にするか?」
「硬いのは嫌。ソファとかないの?」
「ええと、クッションならどこかに纏めて置いてあったはずだけど……」
「じゃあ、トランポリンでいいわ」
「トランポリンは倉庫用テントの方だ。あそこは今真っ暗だよ」
「電気を点ければいいじゃない?」
「点けてもいいけど、電気を点けたことは外からわかるから、あとでいろいろ聞かれそうだ」
「意外と気が小さいのね。じゃあここに持ってきたら?」
「一人でなんか運べないよ。それにトランポリンはベッドじゃない。寝心地はあまりよくない」
「じゃあ、綱渡りとかのときに下に張るネットでいいわ」
「あれも一人で張るのは大変だ。それにあれこそ、手足が引っ掛かって、身動きが取れなくなるぞ」
「さっき、あなたも『せっかくサーカスに来たんだから。こういうところでした方が記念になる』って言ったじゃない。サーカスに来てるのに、サーカスっぽいものが駄目って、なんだかつまらない」
「サーカスっぽいものって……」男は途方に暮れたような顔をした。
「そもそも、あなたの出し物って何? さっきははぐらかされたけど。ひょっとして切符売り場の人か何か?」
「ああ。俺は……マジシャンなんだ」
「マジシャンって手品師のこと?」
「そうだな」
「サーカスに手品師っているんだ。種も仕掛けもないものしかやらないと思ってた。インチキもやるんだ」
「いや。インチキって言い方はないだろ」男は少し気に障ったようだった。
「でも、他の人たちは命懸けなのに」
「俺だって、命懸けさ」
「裏返したトランプの数字を当てるのが?」
「サーカスでトランプ手品なんかしないさ。もっと大掛かりなものだ」
「大掛かりって?」
「早変わりとか、脱出マジックとか……」
「今、やって見せて」
「今?」男はぽりぽりと頭を搔いた。「今はちょっとな……」
「できないの?」
「マジックには、準備が必要なんだよ」
「じゃあ、今から準備して」
「ちょっと待ってくれよ。俺たち……」
「手品を見せてくれるまでお預けよ」女はウィンクした。
「……わかったよ。ちょっとだけだぞ。助手が必要なものはできないから、多少地味なのしかできないけど、我慢してくれよ」
「いいわよ」
「ちょっと待ってくれ。道具を探してくる」男は小走りで通路を進み、丸盆の下辺りを覗き込んだ。「暗くてよく見えないな」
「わたしも探すの手伝おうか?」女は男の後をゆっくりと歩いてついていった。
歩く女の容姿が少しずつ変化を始める。その真っ赤な唇はまるで蛞蝓のようにぬめぬめと動き出し、横に広がり、耳元まで裂けた。その歯は全てが犬歯のように尖り、がたがたと配置を変え始め、特にそのうち二本が長くなった。爪は長く伸び、その腕には焦げ茶色の剛毛が一瞬で生え揃う。
女が大きく口を開けると、粘性の高い唾液が塊となって、ぼたぼたと床に落ちた。女は長大な赤黒い舌で顎に垂れた涎を嘗めとった。
女は男の背後から近付き、距離を詰める。あと二メートル。
「ああ。ここじゃなかったみたいだ」男は立ち上がった。
女は慌てて口を手で覆い隠した。
「道具は向こう側だった」男は女の横を通り過ぎた。
道具を探すのに夢中な上、暗かったせいもあり、男は女の変化に気付いていないようだった。
男は別の場所に頭から潜り込んだ。「あった、あった。これを探してたんだ」
「やっと見付かったようね」女はだらだらと唾液を垂らしながら、男に近付いた。セクシーな服はべとべとになり、全身が透けて見えていた。
大きく口を開き、男の首筋に向かって飛び掛かる。
「これだよ」男は瞬時に振り向くと同時に手に持っていた鉄パイプを女の口に突っ込んだ。
ばきばきばきという凄まじい音と共に、女の歯が砕けて飛び散った。
ぎゃああぎゃああという、男なのか女なのか獣なのかわからない絶叫がテントの中に響き渡った。
「見付からなかったらどうしようかと焦っちまったよ」男は女が吐き出した鉄パイプを拾った。
「じっでだどが?」女──のような怪物は口から大量の血を流しながら言った。顎の骨が砕けてしまい、うまく喋れないようだ。
「知ってたのか、って? ああ、もちろんだ。吸血鬼の臭いにおいがぷんぷんしてたぜ」男は鉄パイプを片手で振り回した。
(このつづきは、「文芸カドカワ」2018年2月号でお楽しみいただけます。)
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