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試し読み

【新刊試し読み②】史上初、平壌郊外での殺人事件を描くミステリ文芸! 松岡圭祐『出身成分』

6月28日発売の『出身成分』(著・松岡圭祐)より冒頭を公開!
――貴方が北朝鮮に生まれていたら、この物語は貴方の人生である。


>>第1回から読む

     2

 价川教化所は人里離れた雑木林の奥にある。被収容者は三千人弱、専用の農耕地や果樹園を有する。近隣の工場や鉱山へもバスが往復している。
 充分な食事も与えず、一日十六時間の過酷な労働を強いる監獄だった。建物の外壁は塗り直したばかりらしい。敷地内の道路も舗装ずみで、財務体質はいいようだ。
 ここにかぎった話ではない。教化所や管理所の工業製品や農作物の売り上げが、国の経済をごく一部だが支えている。ささいな犯罪や規律違反でも教化所送りになる風潮は、体制維持のためばかりでない。労働力の確保という至上命題からの要請でもある。
 ほの暗く異臭がする。換気が悪いうえ、壁も床もコンクリートのせいか湿度が高い。医療室まで不衛生だろうか、ふとそんな思いが頭をかすめた。父の影響かもしれない。深く考えまいとした。いまは仕事に集中すべきだ。
 アンサノが通された狭い部屋は、鉄格子の嵌まった小さな窓ひとつを備えるのみだった。薄日が差すものの、雨はいっこうにやむ気配がない。ひさしから滴下する雫の音が断続的に響く。照明が気まぐれに明度を変える。この地域も電力が安定しない。もっとも停電は起きにくいと思われた。電力不足の折には、近隣の行政区域のほうが先に真っ暗になる。
 事務机に座ってまつこと数分、監視官の制服が、くだんの男を連行してきた。にわかに強烈な体臭が鼻をつく。
 坊主頭のうえ、やせこけた顔に髭はない。栄養失調で骨と皮ばかりの被収容者ぞろいだ、髪と髭まで伸び放題にさせたのでは、いよいよもって識別がつかなくなる。よってどちらも剃る義務がある。
 年齢は五十二だが、十歳以上は老けて見えた。ぼろぼろになった薄手のパジャマがかろうじて瘦身そうしんを覆う。受刑者服や獄衣は支給されない。毛布や靴、歯ブラシ、石鹼と同じく、自宅にあった生活用品を届けてもらうしかない。
 ごく少量だが私物が持ちこめるため、食糧も隠せるのではと考える連中もいる。だがどんなに手を尽くそうと、ネズミの餌一回ぶんが限度だ。衣類は一着のみときまっている。彼は十一年ものあいだ、労働から就寝まで、このパジャマ姿で過ごしてきた。
 足もとがおぼつかないものの、監視官は手を貸そうとしない。イ・ベオクはふらつきながら、机の向こう側に歩み寄ってきた。腰を曲げるのに難儀するらしい、椅子に座るまでたっぷり時間を要した。
 手錠が重そうだった。背を丸めたベオクの視線は、机の上におちている。憔悴しきっていた。なぜ呼びだされたかと詮索する素振りさえない。
 保安員なのはバッジと腕章でわかるだろう。アンサノは自己紹介を省いていった。「政治犯でもないのに、十一年も娑婆しゃばの空気を吸えないままか」
 沈黙がかえってくるかと思いきや、喉に絡む声ながら、はっきりした物言いでベオクが応じた。「運が悪かった」
「運ってのは?」
「貨幣改革のあとだったらな」
 監視官が目を怒らせ、ベオクに詰め寄る気配をしめした。
 ため息が漏れる。いまは水を差してほしくない。アンサノは紙幣を一枚取りだし、指先につまんでみせた。監視官の動きがとまった。その手が紙幣を握りとり、ポケットにねじこむ。監視官は踵をかえした。廊下へと立ち去っていく。片時も目を離してはならない、そう厳命されているはずが、監視官は黙って後ろ手に扉を閉めた。
 この国の常識だった。頼みごとには賄賂。少額すぎる場合を除き、取引を拒絶する者はまずいない。欧米のチップと同様、重要な生活の糧となる。
 静寂のなか、ベオクがかすかに鼻を鳴らした。「ひところは紙くずだったよな。価値を持ち直したか」
「体制批判はよせ。特に監視官の前ではな。教化所暮らしを長びかせたいのか」
「事実を口にしたまでだ」ベオクは悪びれたようすもなくつぶやいた。「あと二年遅けりゃ、こうはならなかった」
 ベオクの主張はあながち的はずれでもない。貨幣改革は何度かあったが、主体九八年の話だろう。西暦でいえば二〇〇九年。無茶なデノミ政策のせいで国じゅうが混乱した。
 旧ウォンを新ウォンに百対一で交換。交換額の上限は一世帯あたり十万旧ウォン、多少ゆとりある市民ひと月ぶんの生活費にすぎなかった。それ以外の旧貨幣は、いくら貯めこんでいようが、布告の翌月には無価値となる運命だった。
 社会主義体制下では個人の貯蓄が禁じられているが、ひそかに財産を築きあげた連中は少なからずいた。貨幣改革を機に、みな破産に追いこまれた。商売も事実上禁止だったが、配給の滞った食糧を確保するため、誰もが闇市場チャンマダンで私物を売りさばいてきた。そういう副業もすべて淘汰された。
 富裕層の騒乱をせせら笑っていた貧困層にとっても、他人ひとごとではなかった。デノミにつづき超インフレが発生、異常なほどの物価高につながり、餓えたる民はいっそう餓えた。自殺や殺人が頻発し、市街地の道端にホームレスがあふれた。
 主体八四年の大飢饉を乗りきった生存者らは、当然ながら体制への強い不満を抱えていた。それから十四年後、今度は貨幣改革の失敗に直面した。少年団に入る前から忠誠を誓わされた国家への幻想が、もろくも崩れ去った。もはや限界だった。誰もが憤りを爆発させた。保安署どころか保衛省までが影響力を失い、大衆の反発を抑えきれなくなった。いつしか闇市場が復活し、半ば公然と商取引が再開された。なし崩しに国営以外の商店が建ち並んでいった。ささいな倫理違反で強制移住を命ずる権力行使は、いまや時代遅れの蛮行と見なされつつある。
 アンサノはベオクを見つめた。「知ってるか。副業禁止の原則を頑なに守り、国営農場に生涯を捧げた朝鮮労働党員は、市場経済化に乗り遅れた。そんな極貧夫婦のひとり息子が、暮らしぶりに不満を募らせ、商人のスマートフォンを盗んだ。つい半年前のことだ」
「スマートフォンか。便利だってな」ベオクが軽い口調でたずねてきた。「あんた持ってるか」
「いや。緊急時のみ支給される。常時携帯を許されてるのは、いまだに上層部だけだ」
「外国のネットにつながるのか」
「わが国の言語のみ、検閲ずみのサイトにかぎられる」
「だろうな」
「そのスマホ泥棒だが、じつは兵役帰りの青年だった。駆けつけた保安員にまで暴力を振るったため、教化刑八年がいいわたされた」
「八年? ずいぶん生ぬるいな」
「ところが近所の住民から抗議の声があがった。たかが泥棒と暴力で八年は長すぎると」
「耳を疑うぜ」ベオクのまなざしは醒めきっていた。「そこまでやって八年じゃ短いほうだ。しかも公然と文句をいえる連中がいるなんてな。以前なら家族も含め教化所送りだ」
「一部は連行された。それでも抵抗はやまない」
「馬鹿なやつらだ。不満を叫ぶより、もっといい方法があるだろうが」
 袖の下、そういう意味だろう。アンサノは首を横に振った。「青年の両親に余裕はない。差しいれもトウモロコシの粉だが、それすら滞りがちだ」
「親近感が湧く。ここも飯はひと握りの飼料用トウモロコシ、飲み物は塩水だけときてるんでな」
「暴行罪なら最高刑でも一年の労働鍛錬刑ですむ。だが被害者が重傷を負ったり死んだりしたら、五年以上十年以下の労働教化刑になる。青年に殴られた保安員はそこまでの怪我じゃなかった。よって住民は五年以下の労働鍛錬刑を求めてる」
「笑わせてくれる。どういう風の吹きまわしだよ。いまさら法令を遵守する方針に転換したってのか。俺はどうなる」
「あんたは人を殺しちゃいない。負傷させてもいない。だが何者かによる強姦と殺人を黙認し、虚偽の証言をおこなった」
「黙認も虚偽もおぼえがない」
「教化所送りになった理由として、出身成分ソンブンと素行の悪さが指摘されているが、それでも処分が重すぎる」
「ああ。俺はもともと悪いことをしちゃいねえからな」
「その主張も含め、再度吟味すべしとの命が下った」
 ベオクの死んだ目に、鈍りがちなよわい光が宿った。「一介の保安署員ごときが、いまさら俺を助けようってのか」
 ふいに嫌気がさした。きょう初めて会ったばかりの、薄汚い身なりの反抗的な輩を救う、そんな義理がどこにある。骸骨も同然の外見に、口臭もひどい。薄毛に肌荒れ。対面しているだけでも吐き気がこみあげてくる。
 アンサノは腰を浮かせた。「邪魔したな」
「まちなよ」ベオクがあわてぎみに引き留めた。しばし無言でアンサノを見つめたのち、ふいにベオクは口もとをゆがめた。「俺みたいなやつの処遇まで気にかけるなんて、よっぽどトランプが怖いのか。お偉方、脅されてびびってんだろ? まともな国になれとせっつかれてるんだよな?」
「まともな国だからこそ、俺があんたの言いぶんをききにきてる」
 ベオクが失望のいろを漂わせた。「ああ。あんた、そっち側の人間だったんだったな。忘れてた」
「あまり調子に乗るな。どこの国だって、こういう時代を経てる。たかが一世紀の差だ」
「保安署勤めのあんたが、いまは混迷の時代だって認めるのかよ」
「成長前の過渡期だ。外国人だって、この国に生まれてりゃ、俺たちと同じ立場だ」アンサノは居ずまいを正した。「本当はそんなこと頭にないだろ? みんなそうだ。明日は食えるのか生きられるのか、関心ごとはそれだけだからな。本気で党を恨んでもいない。いまさらいっても始まらないってあきらめが半分と、いいこともあったと懐かしむ気持ちが半分と」
「どうあっても反体制の存在を認めねえんだな」
「俺はな、あんたに正直になってほしいだけだ」アンサノは身を乗りだした。「時代は迷いながらも前に進んでる。人民が耐えしのびながら望んだ夜明けが、すぐそこまできてるのかもしれない。だから正確を期したい」
「泣ける演説だな」
「全保安署に、疑わしき過去の事例を洗い直すよう通達があった。せっかくの機会を棒に振るのか。ろくに成果があがらなきゃ、それを理由にまた近代化への道が閉ざされちまう」
「そんなこといって、真実に行き着いたところで、誰かの賄賂で元の木阿弥もくあみじゃないのか」
「いや。袖の下なんか受けとらない。悪しき習慣に染まったままじゃ過去から抜けだせない」
「本気でそう考えてるんだとしたら、あんた変わってるな」ベオクが真顔になった。「正気を疑うよ。この国の保安員としてはな」


>>第3回


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カドブンノベル

最新号 2019年10月号

9月9日 配信

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