6月28日発売の『出身成分』(著・松岡圭祐)より冒頭を公開!
――貴方が北朝鮮に生まれていたら、この物語は貴方の人生である。
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 本書は脱北者の方々による、多岐にわたる証言に基づいている。

 マスコミに登場する北朝鮮は、首都平壌ピョンヤンにかぎられる。だがこの物語は、郊外におけるごくふつうの殺人事件とその捜査を、初めて描いている。

 ここに書かれた顚末に、非常に近いできごとが現実に報告されている。

 事実を踏まえているため、地味で複雑な内容であるが、結末に至るまでに、その背景に潜む真相にお気づきになるだろうか。

 貴方が北朝鮮に生まれていたら、この物語は貴方の人生である。

     1

 破裂に似た音とともに、ふいの衝撃が車体を揺るがす。とっさにブレーキを踏んだ。慣性の力で前のめりになる。制動距離が延びていく。甲高くきしむノイズとともに急停車した。人を撥ねたかに感じられたが、もう事故ではないとわかっていた。
 フロントガラスを豪雨がしきりに洗い、視野は歪に波うつ。国産の古い小型セダン、フィパラムのワイパーは動作も緩慢だ。滝のような激流をぬぐいきれるものではない。ヘッドライトの光量も足りてはいなかった。黄昏どきに見まごうほどの暗さだった。
 それでもクム・アンサノは現認した。やはり衝突事故ではない。粗末なシャツに半ズボンの少年が、雑草の茂る道端から飛びだし、みずからボンネット上に身を投げてきた。無謀なひとり芝居を、アンサノはたしかにまのあたりにした。
 やせ細った少年はさも痛そうにうずくまり、クルマの前方へと転げ落ちていった。
 辺りにひとけはなかったはずが、草むらから三人が姿を現した。やはり少年がふたりと、保護者らしき大人の男がひとり。体型はみなモヤシ、揃って貧相だった。十月の肌寒い日というのに、薄着なのも共通している。傘もささず全身ずぶ濡れのまま、そそくさと路上に繰りだしてきた。
 アンサノは自分のため息をきいた。運転席のドアを開け放ち、車外に降り立つ。靴がぬかるんだ地面にめりこむ、独特の不快な感触があった。
 近づきつつあった男が、ぎょっとした顔で足をとめた。人民保安省のバッジと、保安署員の腕章に気づいたらしい。泡を食ったように身を翻した。
「やべえ」男が少年らに怒鳴った。「ずらかれ」
 家族にちがいない。あたふたと腕を振りまわし逃走に転ずるさまが、三人とも似通っている。いや四人だ。クルマの前方、泥まみれで横たわっていた少年も、ただちに跳ね起きた。汚水をたっぷり吸ったシャツが背に貼りつく。ひきずった片脚は芝居ではないようだ。日に何度も身体を張るうち、本当に負傷したのかもしれない。
 かすかに金属音が響いた。少年の尻のポケットから、数枚の硬貨がこぼれ落ちていた。
 はっとする反応をしめし、少年が立ちどまった。水たまりに這いつくばり、必死に硬貨をかき集める。その視線があがった。憂いのまなざしがアンサノを見つめてくる。二枚はアンサノの足もとに転がっていた。
 アンサノは泥に埋もれた硬貨を拾いあげた。十チョン、それに五チョン。百チョンで一ウォンだが、インフレが急速に進んだいま、石ころほどの価値もない。
 それでも少年にとっては大事な稼ぎの一部なのだろう。アンサノは黙って硬貨二枚を差しだした。
 少年はびくつきながらもにじり寄ってきた。彼の財産をつかみとると、たちまち遠ざかっていった。
 アンサノはなにも感じなかった。当たり屋にいちいち驚いてはいられない。炭鉱と田畑しかない价川ケチョン市では日常の風景だろう。未舗装の路面なら、ボンネットから転落しても怪我はない。ぬかるんでいればなおさらだった。
 中央放送によれば、アスファルトの道路が増え、国土の一割近くに達したという。とても実感が湧かなかった。たぶん平壌にかぎった話だ。
 ボンネットの凹みが気になったものの、どうせ自分のクルマではない、そう思った。課長が手配してくれた保安署の車両だ。この国には本来、個人の所有物などありはしない。
 物憂げな気分とともに、アンサノは運転席に戻った。シートに身をあずけ、天井を仰ぎながらひと息つく。
 頭に血が昇らなかったのは、ただ歳のせいかもしれない。四十代になると分別がついてくる。ひと晩の食糧を求め、死にものぐるいの餓えたる民に、いちいち嚙みついてはいられない。誰もが運命を等しくしている。配給が慢性的に滞る世のなかで、ろくに給料すら受けとれず、法の番人を気どるなど滑稽でしかない。いったい誰を断罪しうるというのか。
 別の当たり屋に遭遇したくはない。グローブボックスを開けた。保安署の車両をしめす国章いりのプレートをとりだす。赤い星に白頭山ペクトゥサン水豊スプンダムを、リボンで束ねた稲穂が縁どる、そんな図柄だった。ダッシュボードの上に立てた。周囲がどんなに暗くとも、みなフロントガラスのなかのプレートには気づくものだ。管轄ちがいだが、かまいはしない。
 グローブボックスを閉めようとして、ふとメモ用紙が入っているのに気づいた。鉛筆書きだった。馴染みのない事件の概要ばかりが並んでいる。日付はいずれもだいぶむかしだが、それでも二十一世紀に入ってからだ。
 主体九二年十一月二十八日、薬田里ヤクチョンニにて自転車盗難。同年十二月十八日、雲井里ウンジョンニの民家物置にて雪駄せった盗難。主体九三年四月六日、興五里フンオリの畑にてトウモロコシの種盗難。同年五月十八日、興五里の別集落にて食用犬盗難、一キロ離れた山林で焼かれた犬の骨発見。同年九月七日、金豊里クンプンニにて農家が収穫後の松茸、籠一杯ぶん盗難。主体九四年六月十九日、南陽ナミヤン労働者区ノドンジャクの路上にてカバンのひったくり、現金八千二百ウォンが被害。主体九五年三月二十日、七里チルリの民家にて空き巣、食糧盗難。同年八月十八日、蛇山里ササンニの民家に押しこみ強盗、壺ふたつと野菜、米など奪取。主体九六年四月三日、新豊里シンプンニにて婦女暴行、被害者が携帯していた農具奪取。同年七月二十六日、薬田里にて強姦、金品強奪。
 誰かがメモを忘れていったのだろうか。肅川スクチョン郡のなかばかりだが、大半はほかの地域署の管轄になる。郡人民保安部の職員も、こんなボログルマを借りているらしい。不況のきわみだった。
 メモ用紙をグローブボックスに戻した。蓋がちゃんと閉まらず、何度も叩きつけた。ふたたびクルマを発進させる。
 満浦マンポ線の駅が近いせいか、自転車に乗った女学生と頻繁にすれちがう。左手に傘をさし、右手でハンドルを操作していた。こちらを一瞥すると、迷惑げな顔で自転車を降りる。
 スカート姿の女性が自転車に乗っていれば、公序良俗に反する。最近になり法令が解除されたとの報道があったが、やはり平壌やいくつかの都市のみが対象だった。この辺りでは依然、地域の保安員により警告がなされる。ただし自転車を手で押して歩くぶんにはかまわない。理不尽なルールながら、女学生たちはうわべだけでも従っている。
 国じゅうどこでもそうだ。かつては恐怖そのものだった法が、しだいに骨抜きにされていく。もはや人民にとって最大の脅威ではない。髪を長く伸ばすのは、平壌在住の女性のみに許される特権だが、ここの女学生たちも同様にしている。一見めだたないのは、髪を後ろでまとめているからだった。韓流ドラマの海賊版ソフトがでまわっている昨今、髪型ぐらい若者らの好きにさせればいい、誰もがそう思っている。
 時代が変わり、価値観も以前と同じではなくなった。だが新たな価値観とはなんだろう。わからない。目の前で揺れるワイパー、負けじと降りかかる無数の雨粒、泥水の川と化した悪路。なにもかも同じだ。子供のころから進歩がない、発展もない。なのに見えないふたしかななにかが変わっていく。
 ぼんやりとした思いだけが胸に疼いた。家族か仕事か。どちらに重きを置けばいい。ずっと国家第一と教わってきた。こんな天秤の使い方には、まだ順応できていない。
 仕事のみに目を向けようと、そこにはもうひとつの天秤がある。職務を国のためと信ずるのはたやすかった。だが片方には別のおもりが載せられている。個人の尊厳と権利だった。いまはもう無視できない、時代が求めている。

>>第2回

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書籍

『出身成分』

松岡 圭祐

定価 1728円(本体1600円+税)

発売日:2019年06月28日

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