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試し読み

【新刊試し読み③】史上初、平壌郊外での殺人事件を描くミステリ文芸! 松岡圭祐『出身成分』

6月28日発売の『出身成分』(著・松岡圭祐)より冒頭を公開!
――貴方が北朝鮮に生まれていたら、この物語は貴方の人生である。
(第1回から読む)


>>第2回へ

 被収容者の大半は、公式に逮捕されていない。人民保安省か国家保衛省による強制連行ののち、名ばかりの裁判を受け、教化所や管理所へ移送されるのが常だった。イ・ベオクの場合、裁判を受けた記録すら見あたらないが、そういう被収容者もけっして稀ではない。
 このところ人権という言葉を市民が知るようになった。誰もがこっそり南のラジオをきいているからだ。政府が国際社会から圧力をかけられていることも承知ずみだった。
 裁判のやり直しなどない。弁護士を立てさせたりもしない。投獄が誤りだったと認めることになってしまう。よって水面下で再調査を実施し、人権侵害を最小限に留める。それがいま保安員に課せられた使命でもある。
 同情を搔き立てるような被収容者との出会いを、アンサノはひそかに期待してきた。だがいま目の前にいるのは、不快きわまりないひねくれ者でしかない。長い獄中生活のせいで、やむをえないのかもしれないが、外見上の生理的な嫌悪もあった。意識しまいとしても糞尿のにおいに息が詰まりそうになる。
 すぐに断るべきだった、アンサノはそう思った。
 保安署ではずっと絶対服従が原則だった。ところがここ数年、命令拒否が許されるようになった。食糧配給が途絶えがちな代償として、副業を黙認するための処置でもある。ただし拒否できるのは、命令が下ったその場だけだ。保安員が署をでて動きだせば、命令を承諾したとみなされる。いちど乗りかかった船は、今度こそ降りられない。職務を果たさねば厳罰に処せられてしまう。
 もう放棄はできない。アンサノは内ポケットから四つ折りの紙をとりだした。たった一枚の書面が捜査記録のすべてだった。写真の添付もない。あきれたことに、当時の捜査担当者の名すら記されていなかった。日付は主体九六年九月十八日。
 アンサノは書面を読みあげた。「イ・ベオク、四十一歳。これは当時の年齢だな。いまは五十二歳か。平安南道ピョンアンナムドの肅川郡、平山里ピョンサンニ春燮チュンソプ集落在住。出身成分は動揺階層」
「いきなり差別かよ」
「区別だ。当局が素性をどう見定めてるか」
 出身成分とは俗語ではない。この国では住民登録上の専門用語になる。家系票には出身成分決定の参考となる、父親の労務関係について記入する欄がある。母親の過去は記入欄そのものが存在しない。出身成分は父親のみ取り沙汰される。
 ベオクの父は若いころ横領を働き、朝鮮労働党を除名になっていた。党員であれば核心階層として優遇されるが、ベオクの出身成分は、それより忠誠度に劣る動揺階層と区分された。
 動揺階層は全人口の半分を占めるものの、よほど特別な許可がなければ平壌に足を踏みいれられない。もともと人民に住居選択や旅行の自由はないが、動揺階層には首都の空気を吸う機会も与えられない。万景台マンギョンデからの眺望も目にせず、一生を地方で過ごす運命となる。
 なぜ父親のせいで子供の人生がきまるのか。簡単なことだった。遺伝子から思想まで、すべては父から受け継がれる。生活環境もだ。蛙の子は蛙、知識人の子は知識人、反体制派の子は反体制派。なら社会でのあつかいも父と同じにしておくのが適切、そういう考え方だった。
 ただし出身成分は、その家系に永遠に継承されるわけではない。父の不始末、息子の始末。そんなことわざがある。息子は父の誤った思想をあらため、名誉挽回に努めるべし。社会はそのように求めてくる。功績しだいで、孫の代よりあとには出身成分が回復する可能性がある。あくまで役所がそう見なしてくれればの話だが。
 アンサノは資料を読み進めながらつぶやいた。「生活総和では、人民班の規律を乱しがちだったとあるが」
「班長と反りがあわなかっただけだ。嫌われ者は生活総和で吊しあげられる運命さ。いったん目をつけられた以上、賄賂を払えなきゃ延々と袋だたきだ」
 三十世帯ほどでひとつの人民班が構成される。月にいちどの集会を生活総和と呼ぶが、実態は互いを批判しあうばかりの告発合戦だった。本来は反省のためとされ、自己批判もすすんでおこなう場のはずが、単なる足のひっぱりあいと化す。やりとりは班長から保衛員に報告される。ベオクはしょっちゅう標的にされていた。
 読めば読むほどため息が漏れる。アンサノは顔をあげた。「班内の評判は散々だな」
「だからここにいる。それでもましなほうだ。貨幣改革の前だったが、飢饉よりはあとだ、もうだいぶ厳格じゃなくなってた。ずっと昔なら公開処刑だった」
「教化所でも問題ばかり起こしてるらしいな。潔くしてれば数カ月で家に帰れただろうに」
「俺は誰も匿ってないし噓もついてない。そういいつづけてたら、このざまだ」
「あんたはちっぽけな家でひとり暮らしだった。日没後、帰宅してほどなく、騒音と女の悲鳴がきこえた。四十五歳男性ペク・グァンホの家からだとわかった。あんたはひとりで駆けつけた。ペク家に踏みこむと、グァンホは刺殺されていた。彼の娘、当時十七歳のチョヒも床に倒れていたが、こっちは失神したのみで命に別状はなかった。ただしほとんど裸にされていた。病院に運び検査した結果、チョヒは強姦されたとわかった」
「そのとおりだ」
「チョヒの膣内から、犯人の精液が検出された。被害者との混合DNAとはならず、幸いにも単独で解析可能だった」
「ろくな設備もない病院で、奇跡的だときいたな」
「DNAはチョヒの父グァンホのものではなかった。第一発見者イ・ベオクも検査した結果……」
 ベオクがにわかに憤然と息巻いた。「あいつら、無理やり俺を病院に連行しやがった。唾液やら血液やら汗やら、いろいろ採取するとかいってよ。ああ、断っとくが、精液をだせとはいわれてねえ。頼まれても応じるかよ」
「知ってる。精液を見くらべなくても、DNA検査だけで充分だ」
「へえ。物知りだな。あんた医者の息子かなにかか」
 反射的にベオクを見つめた。よほど硬い顔をしていたのかもしれない、ベオクは臆したようにつぶやいた。「冗談だよ」
 ただ皮肉を口にしたつもりだったのだろう。身の上を知るはずもない。
 アンサノは紙を折りたたんだ。「犯人はあんたでもなく、第三者のしわざとあきらかになった。問題はあんたの証言だ。チョヒの悲鳴と騒音をきいたのは、人民班のなかであんたひとりだった」
「閑散とした集落だ。家と家のあいだも離れてる」
「あんたの家から犯行現場のペク家までは、一本道だそうだな。しかもペク家は袋小路にあったとか。犯人の逃走経路はほかにない。あんたは悲鳴と騒音を耳にし、ただちに外へ飛びだしたといった。なのに誰ともすれちがわなかった」
「一本道だ袋小路だといっても、やりすごせないわけじゃねえんだ。なんとかほかに逃れる手もある」
「記録によれば不可能だそうだ」
「現場を見てないのかよ」
「話をきくのが先だと思った。自分の手を汚す代わりに、誰かをけしかけたのか」
「ムン班長の証言を鵜吞みにするのかよ。あいつ、あることないこと監察保安員にぶちまけやがった。俺がふだんからペク・グァンホを憎んでたとか」
「事実なのか?」
 沈黙が生じた。自然と意識から締めだされていた雨音が、またアンサノの耳もとに忍びいってきた。
 ベオクはうつむき、唸るような声を響かせた。「グァンホは衛生班長だった。集落をきれいにしようと躍起だったが、俺にいわせりゃ行きすぎてた。がみがみと口うるさくてな。集団清掃に五分遅れりゃ石を投げてくる。どれだけ嫌なやつだったか、その目で見てこいといいたいが、無理な相談だ。もう死んじまったんだから」
「娘のほうはどうだ。チョヒも父親同様に憎んでたのか」
「とんでもない。ありゃいい女だった。裸を見れたのも幸運だった。十七だが、身体はすっかり大人でよ」
「そんな言いぐさは、疑惑を強めるだけでしかない」
「ああ。グァンホもふだんから、俺のチョヒを見る目に気づいてた。娘の身が危ないってんで、ムン班長に告げ口してあったんだろう。事件後ムンは、俺がチョヒを強姦したときめつけ、保安員にもそういったらしい。検査結果をきいて、ムンのやつ泡を食っただろうよ。でたらめな告発は罪に問われるからな」
「知ってるだろ。この国ではな、偽証による告発も十年経てば罪に問われない。疑われるようなところがあったうえ、十年も潔白を証明できなかった者の責任だ。そう解釈される」
「糞みたいな法律だ。教化所暮らしでどうやって潔白を証明しろってんだ、え?」
 別人による暴行が立証されている。だがベオクは本当に無関係なのか。一本道で犯人にでくわさなかった。そこに説明がつけられるだろうか。
 アンサノはぼんやりと虚空を眺めた。憂鬱な気分に浸る。真実の究明か。保安員には荷が重い。経験に乏しいからだった。

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カドブンノベル

最新号 2019年10月号

9月9日 配信

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