6月28日発売の『出身成分』(著・松岡圭祐)より冒頭を公開!
――貴方が北朝鮮に生まれていたら、この物語は貴方の人生である。(第1回から読む)
>>第3回へ

3
長く降りつづいた雨がやんだものの、なおも暗雲が空を覆いつづける。平壌から四十キロメートルしか離れていない肅川郡だが、平山里にある春燮集落となると、地方の村巷そのものだった。稲の実らない荒れた田んぼと、枯れたポプラやキリの木ばかりが目につく。人の営みといえば、小ぶりで粗末な平屋が点在するのみだ。橙いろの丸瓦をふいた屋根に、抹茶いろの壁。本来は白壁だったが、人民班ごとに指定されたいろを塗るきまりがある。窓は家一軒にひとつずつ、ガラスがないためビニール膜を張ってあった。勝手な改築は禁じられている。
殺風景な眺めだった。人の姿も見かけない。めずらしくもなかった。全国どこへいこうと、こんな不毛の大地がひろがっている。住居環境は緑地化されないのがふつうだ。庭には一輪の花もない。
土の質が悪く、雨あがりの地面は液状化に等しい。自転車のハンドルをしきりにとられる。アンサノは冷や汗をかきながらペダルを漕いだ。タイヤが異様なほど太くなっているのは、こびりついた泥のせいだ。
价川への往復には、保安署のクルマを借りられた。近場なら自転車で行くのがふつうだった。平壌ですら自動車となると、一部の特権階級に認められた贅沢品になる。汚染されていない大気は、国が誇りたがる数少ない長所のひとつでもある。
簡単に描かれた地図を見ただけだったが、道に迷う心配はなかった。視界は終始開けていて、かなり遠方まで見通せる。道の行く手にひとりの男性が立っていた。やせ細った人間にばかり会っているせいか、少しばかりふくよかな顔が、ずいぶん恰幅よく感じられる。六十七歳というのに、教化所暮らしで老けこんだ五十二歳のイ・ベオクより、ずっと若々しかった。禿げあがった額に刻まれた皺の数が、かろうじて実年齢をうかがわせる。
アンサノが自転車で接近すると、男性は声をかけてきた。「よく蛇がいますから、気をつけてください。保安員のかたですか」
「そうです」アンサノは静止した。「前もって連絡を差しあげたクム・アンサノといいます。ムン・デウィ同志ですね」
人民班長のデウィは真顔でうなずいた。初対面で笑いを浮かべる者はまずいない。尖った目さえなければ、警戒を解いているとわかる。デウィはくつろいだ態度をしめしていた。
地元の治安維持に努める保安員は、政治犯を取り締まる保衛員より格下のあつかいだった。班長はふだんから保衛員とつきあいがある。四十一歳の保安員を前に、いまさら緊張もしないのだろう。
デウィが穏やかにいった。「わざわざご足労さまです。正直驚きましたよ。十一年も前のことでおいでになるときいて」
自転車のキックスタンドを立て、泥の上にかろうじて安定させた。運転に難儀した乗り物から、アンサノはようやく解放された。「ご協力いただき感謝します」
「ここですよ」デウィは道端の家を指さした。「イ・ベオクの住居でした。いまは空き家で、共同の物置に使ってます」
肥やしのにおいが漂っているのはそのせいか。アンサノはきいた。「ひとり暮らしだったんですよね? ふつう家族のいない者は、複数での同居を義務づけられると思いますが」
「そりゃ事件の直前まで、あの男は妻子持ちでしたからな」
「結婚してた?」アンサノは面食らった。
「ご存じない? 夫婦仲が悪くてね。このご時世、旦那は国営工場勤めでほぼ無給だし、奥さんのほうは商売でそれなりに稼いでる。なのに夫がいばっているせいで、妻の不満が爆発して……」
「ああ。よくきく話ですね」
「口喧嘩になって、ベオクが手をあげたらしい。妻は裁判所に離婚を申し立てたんです。でも夫の暴力だけじゃ、別れる理由にならないとされて」
それも判例がある。外国では協議離婚が可能のようだが、この国においては裁判でしか離婚は成立しない。デウィのいうとおり、夫が妻を何発か殴っただけでは、離婚もかなわない世のなかだった。関係を解消するには、殺人未遂や命にかかわる性病、夫に起因する出身成分の悪化など、よほどの理由が必要とされる。
デウィがつづけた。「妻は裁判所の判断に腹を立て、勝手に行方をくらましてしまってね。子供たちも連れていった。帰ってくるかもしれないとベオクがいい張るんで、ほかの者との同居を勧められなかったんです」
事件の記録には、ひとり暮らしとしか書かれていなかった。紙一枚にすべてをまとめようとすれば、当然載せきれない事実もでてくる。保安署の資料などそんなものだった。先が思いやられる。
家に歩み寄り、半開きの扉からなかをのぞく。靴脱ぎ場の向こうは板の間だが、いまは泥だらけだった。雑多な農機具が放りこんである。鋤や鍬、手掘り鎌、木製の人力除草機、畜力除草機。蠅が飛ぶ音がこだまする。隣りの部屋につづく戸が見えていた。いちおう二間ある。土間には台所と手動式ポンプ、厨房に釜や作りつけの食器棚。村邑では標準的な住居といえそうだ。
ここまでは、第一発見者のベオクがひとり暮らしだった、その理由が判明したにすぎない。くだんの事件現場は近くにあるはずだ。アンサノは辺りを見まわした。「ペク家は……」
「そこですよ。引っ越してきたのは大水害のころだから、もう二十二年になります」デウィは振りかえった。
ベオクの住んでいた家の脇道、緩やかに上る小径の先に、ぽつんと一軒家が存在する。あれが殺人事件のあったペク家だった。外観はベオクの家に似通っていた。
戸惑わざるをえない。逃げ場のない一本道のはずが、実態は水田のなかに延びる畦道だった。
するとデウィがポケットから数枚の写真をとりだした。「うちにあった物のなかから探しました。これがわかりやすいんじゃないかと」
差しだされた一枚を眺める。ずいぶん古い写真だった。奇妙なことに、畦道の両わきにブロック塀が築かれている。農作業着の男性が写っていたが、塀の高さは身の丈をはるかに超えていた。
「私です」デウィの目が初めて笑った。「当時はまともな土も少しは残ってて、耕せばなんとかなったんです。地割れがひろがったせいで、水が入らなくなって、田んぼがだめになってしまってね」
「この塀はなんですか?」
「ペク・グァンホの妻、ウンギョに泥棒の疑いがありましてね。この畦道の左右にある棚田が被害に遭った。やっと実ったわずかばかりの稲穂が、夜中にこっそり収穫され、持ち去られてしまったんです。売り物にならないほど粗末な出来でも、貴重な食糧ですからね。大騒ぎになり、保安員を呼びました。すると刈りとった稲穂が、ペク家の物置から見つかって」
「いつごろの話ですか」
「二十年ほど前だったかな」
「なぜ奥さんに疑惑が向けられたんでしょうか」
「夫のグァンホが密告してきたからです。私が保衛員と会っていると、グァンホがやってきて、深夜に妻がひとり家を抜けだしていると打ち明けました。娘のチョヒはまだ小さいし、夫婦間の揉めごとにしたくないから、生活総和で公言できないとも」
「それを信じたんですか?」
「鵜吞みにはしませんでした。けれども私たちみんなで、夜中にこっそり巡回していたところ、ペク家からウンギョがでてきました。月明かりの下、田んぼを物色してるようすが確認できたので、いっせいに駆け寄って取り押さえたんです」
「ウンギョは罪を認めましたか」
「泣くばかりだったんですが、グァンホがきて問い詰めても否定しなかったので、認めたと判断しました。被害に遭った農家の連中はかんかんでね。みんな保安員に引き渡すべきだと主張したが、娘さんがかわいそうという声もあがった。班長の私としては、事態を丸くおさめたかった。それで保安員と交渉したんです」
「交渉というと……」
「事件にしないでくれと頼みました。なんとか受けいれてくれましたよ」
当然それなりの額を握らせたのだろう。人民班長は班内のあらゆる問題に責任を負う。人民班のひとつ上の行政単位は洞だから、洞党委員会からの行政指示を受ける。保安省や保衛省の監視にも協力する。上の圧力に屈するばかりでは班員の信頼を失うため、適切に調整する能力も求められる。ムン・デウィは長年にわたり班長を務めてきた。それなりにうまくやってきたにちがいない。
デウィが禿げあがった額に手をやった。「保安員は引き揚げていったが、農家がなかなか納得しなくてね。塀の建設は妥協策でした。物理的に水田に干渉できなくなるうえ、見せしめにもなる。費用はペク家が払ったし、職人の作業を夫婦で手伝ってましたよ。ウンギョはやつれきった顔で、ただ黙々と働いていました。いまも目に焼きついてます」
村落における懲罰として、塀による隔離はめずらしくはない。アンサノはつぶやいた。「冬には雪が積もって大変だったでしょうね」
「ええ。この畦道の雪は、すべてペク家が片付けることになってました。塀のなかから掘りだし、所定の雪捨て場まで運ぶわけですから、とてつもない重労働です」
「こんな教化所のような塀が、家につづく道端に築かれたのなら、娘さんも異様に思ったはずでしょう」
「チョヒが当時どう感じたかはわかりません。班内には同年齢の子供たちがいたから、母親を泥棒呼ばわりされたかもしれませんが……。二年後にはすべてがどうでもよくなるぐらいの事態が起きてしまったので」
「なんですか」
「ウンギョの自殺ですよ」
アンサノは絶句せざるをえなかった。
>>第5回へ
ご購入はこちら▶松岡 圭祐『出身成分』
※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。