舞台は調布・深大寺。のどかな風情が残るその町に、子供にしか見えない”うつせみ屋”があるという――。浮世絵師だった祖父の願いを胸に秘め、白い狐に導かれるように、その宿に足を踏み入れた少女が見たものは……。
漫画家・五十嵐大介氏によるカバーイラストにも注目の本作! カドブンでは、試し読みを4日連続で実施します。
スタジオジブリを彷彿とさせる、民俗学ライトミステリーをぜひお楽しみください。(第1回から読む)
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鈴は布団から飛び起きた。
障子窓から差しこむ朝日が、部屋いっぱいに満ちて、光の粒が見えるほどだった。まぶしくて、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めたらしい。
もうひと眠りする気にはなれなかった。鈴はのろのろと立ちあがって、ついさっきまで見ていた、妙にリアルな夢の余韻を引きずりながら、ランドセルの中身をチェックして、いらないだろうとわかっているものまで入れた。
心配性、というのもあるけれど、学校や図書館、塾の自習室で長時間過ごすことが多かったから、不足がないように、なんでも詰めこむのが癖になっているのだ。
勉強机にハムスターのシールで貼った時間割を見ていた鈴は、机と教科書のあいだに、綺麗な桜色の和紙がはさまっているのに気がついた。
裏をひっくり返して──心臓が、跳ねた。
和紙に筆で描かれた、絵の羅列。
見間違うはずがない。祖父の絵だと、一目でわかった。
黒い鳥が一羽。
その下に、白い鳥が一羽、逆さになった日本家屋から顔を覗かせている。
奇妙な絵の羅列は、江戸時代のなぞなぞ──〈判じ絵〉だった。
判じ絵は簡単なルールを覚えれば、すぐに読み解ける。
たとえば、絵が逆さに描かれていたら、逆から読む。上半分しか描かれていなかったら、単語を半分に分けて、上だけ読む、といったふうに。
最初の黒い鳥は、「鵜」だ。その下の白い鳥は「鶴」だけれど、首までしか描かれていないから、「つる」の「つ」だけを読む。
ここまでで、「うつ」。
問題は、逆さの日本家屋だった。この判じ絵は見たことがなかった。
「家」を逆さにして「えい」では、意味が通らない。
絵をよく見てみると、戸口に暖簾がかかっていた。
これは、「店」だ。「店」を反対に読むと、「せみ」。
──うつせみ。
かつて聞いた不思議な宿の名を、唐突に思い出した。
「うつせみ屋……」
鈴がつぶやくのを待っていたように、すうっと絵が消えた。
朝日に透かしても、裏返してみても、もうどこにも絵はなかった。
──夢じゃなかった。
鈴は和紙を持ったまま、呆然と立ちつくした。
胸がどきどきして、夏の朝の気だるさは吹き飛んでいた。
──祖父の描いた絵は、本当に動くのかもしれない。
判じ絵は鈴と祖父の、お気に入りの遊びだった。
親しい者だけが共有できる、秘密の暗号。絵解きと言うと難しく聞こえるけれど、基本的には意味がわかっても、くだらなさで笑ってしまう類の、純粋な遊びだ。
──くだらないものを笑えなくなったら、だめだ。それくらいの余裕がなくちゃ、大事なものを見落としてしまう。
祖父の言葉を思い出して、鈴は小さく笑った。
──うつむいていると、前が見えないぞ。
昨夜のあの言葉は、いかにも祖父が言いそうなことだった。
判じ絵を通して、祖父は鈴に「もう悲しむな」と言ったのかもしれない。
都合のいい考えかもしれないけれど、思い出を哀しいだけのものにはしたくなかった。
鈴は少し考えてから、さくらんぼの刺繡の入った水色の手提げ鞄に、〈絵が抜け出した浮世絵〉を、桐箱ごと入れた。桐箱は手提げ鞄にすっぽりと入った。これなら、そこまで人目を引くこともないだろう。
鈴が何度目かのため息をついたところで、
「おじいちゃんとおばあちゃんの家、あんなに好きだったじゃない」
車を発進させた母が、そう言って鈴をなぐさめようとした。
話が違う。まったく違う。
鈴は悲壮な顔をしてうつむいた。
夏休みが終わるというだけで憂うつなのに、転校先の登校一日目だなんて、笑えるはずがない。けれど、こういう非日常的な出来事を楽しいイベントととらえる母には、鈴の憂うつが理解できないのだ。
鈴が教室に入ったのは、始業式が終わったあとのホームルームの時間だった。
皆が始業式に出ているあいだは、応接室で母と一緒に、担任の先生の話を聞いていた。優しそうな女性の先生で安心したけれど、話の内容はほとんど記憶に残っていない。
母が廊下に立って見守るなか、鈴は担任の先生に呼ばれて、教室に入った。
教壇に立つと、いくつもの目が一斉に鈴を見た。
「永峰鈴です。……よろしくお願いします」
新しいクラスメイトを見渡す余裕はなかった。
うつむきがちに、か細い声でそれだけ言うと、先生が少し困ったように笑った。
「趣味とか、好きなものはある?」
──浮世絵。
思ったものの、口に出しては言えなかった。
「……美術館に行くのが好きです」
無難にそう答えたけれど、自分の考える〈無難〉が〈普通〉かどうかは、自信がなかった。
結局、最後までスリッパの先を見つめたまま、自己紹介はどこか気まずい空気を残して終わった。
ホームルームのあと、母と帰ることになっていたのが唯一の救いだった。
「明日、学校に行きたくない……」
車のなかでうめくように訴えると、予想していたのか、母は苦笑しただけだった。鈴を車で家に送ると、母はそのまま仕事に向かった。
「──うつせみ屋って知ってる?」
その日の夜、鈴は夕食の席でようやく、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「知らない。それ、この辺のお店?」
母はすぐにそう答えたけれど、祖母はどこか心当たりのありそうな顔つきになった。
「どこで聞いたんだったかしら……ああ、そうそう。むかし、鈴のお父さんがそんな話をしていたのよ。探検に行くとか言って、学校帰りに寄り道をするものだから、ずいぶん叱ったのを覚えているわ。おじいちゃんはなにも言ってくれなかったからねえ」
「お父さんが探検に……? それ、どこにあるの? まだある?」
「急にどうしたのよ。それ、変なところじゃないでしょうね」
「変じゃない……と思うよ。たぶん、浮世絵に関係があるかも」
母は困ったように眉をひそめた。
「何か一つのことに熱中して、詳しくなるのはいいことだけど……友達ともちゃんと交流してる? お守り代わりだって言うから見逃したけど、浮世絵を学校に持って行くの、今日だけにしておきなさいよ」
説教が始まる、と察した鈴は、慌てて祖母に話を振った。
「それで、お父さんはどこに行ってたの? 学校の近く?」
祖母はちらりとリビングの掛け時計を見て、
「食べ終わったら、お父さんに電話で聞いてみたらいいわ。いまなら、ちょうどお昼休みじゃないかしら」
鈴は食事を終えると、すぐに電話をかけた。父もちょうど、昼食を食べ終えたところだった。
「ああ、うつせみ屋なあ。覚えてるよ、無人の家だろ? 鍵がかかっていて入れないんだけどさ、物音がしたとか、後ろ向きに背中から入って行く人を見たとか、そういう妙な話が尽きない場所で、肝試しにはちょうどよかった。父さんが行ったときには、なにも起こらなかったけどな」
肝試し。
鈴は怯みそうになったけれど、気を取り直して尋ねた。
「それ、どこにあったの?」
「それが、うまく説明できないんだよ。深大寺の参道につながる並木道で、近くに公園があってさ。両際に、木々が生い茂っていて……一本道の途中にぽつんと建っているんだ」
父は必死に思い出そうとしてくれたけれど、鈴の土地勘の問題というよりは、どうも説明がうまくないような気がした。
「俺だけじゃないよ。皆そうだった。あそこにいくと、方角がわからなくなって、大人に説明しようとしてもできないんだよ」
電話越しに落胆が伝わったのか、父はそれこそ少年に戻ったように、ばつが悪そうに弁解してから、あからさまに話題を変えた。
「そうだ、今日は始業式だったんだろう? 友達はできたか?」
「まだ、一言も話してないよ……」
鈴はぼそぼそと答えた。
これからの学校生活を考えるだけで、気が重い。
「それなら、うつせみ屋のことを聞いてみればいいじゃないか」
父は名案だとばかりに言ったけれど、とんでもなかった。
「そんなの無理だよ……いきなり、そんな話なんかしたら……」
「また出た、鈴の悪い癖だぞ。すぐに無理とかできないとか、そんなの、やってみなきゃわからないだろ。やらぬ後悔よりやった後悔、だ。実際、やって後悔したことなんてほとんどないし、後味が全然ちがう」
そんな成功体験を語られても、人には向き不向きがある──なんて話しても、話は平行線をたどりそうだ。鈴は早々に反論をあきらめた。
「話題なんかなんだっていいんだよ。気になるなら連れていってもらって、そのあと公園で遊んでくればいい。絶対、一人で行こうとしちゃだめだからな。父さんの頃とは時代が違うし、鈴は女の子なんだから。──まあ、頑張れ。母さんたちによろしく」
公園遊びはしない──と言う暇もなく、通話はそこで終わってしまった。
休み時間は想像以上に苦痛だった。
一、二限の休み時間は何人か話しかけてくれたけれど、話がはずまなくて、気まずい思いをしただけだった。
三限目の休み時間になると、鈴は十分も誰かが話しかけてくれるのを待つのがいやで、寝たふりをしてしまった。
寝たふりはまずい、というのはわかっているけれど、顔を伏せる気楽さに負けてしまって、今度は顔を上げるタイミングがわからなくなった。
前の学校では、みんな幼稚園からの幼馴染か、その友達となんとなく集まってグループになっていた。引っ越しさえなければ高校まではずっと一緒に居られるはずで、つまり、一人でゼロから新しい友達を作ることなんて、考えたこともなかった。
うつせみ屋について聞く以前の問題だ。
これは自分のためじゃない、と言い聞かせる。
鈴は机の下で、キュロットの裾をぎゅっと握った。
「あの、ちょっと聞いてもいい?」
鈴は給食の時間に、思い切って尋ねた。給食は机をつけて、同じ班の子たちと一緒に食べることになっていた。前の学校では自由に友達と集まって食べていたので、この違いに救われた。鈴の班は、鈴の他に女の子が二人と、男の子が一人だった。
「うつせみ屋って知ってる……?」
よほど深刻そうに見えたのか、一瞬の沈黙のあと、神妙な顔つきで鈴の言葉を待っていた班の子たちから、思いきり笑われた。
「永峰さんって怖いのだめ? 大丈夫だよ、あんなの全部噂だし」
「いや、あれは本物だって。俺の兄ちゃんが、あそこに入ってく着物の女を見たんだって。あれは絶対に人間じゃなかったってさ」
「なんでわかるのよ」
「だって、そいつ、足を動かしてないのに移動したんだぜ。すーっと、地面をすべるように……」
鈴の顔が目に見えて蒼くなったので、鈴を脅かした男子は、女の子たちから一斉に頭を叩かれた。
「いてっ、なんだよこれくらい」
「転入生をいじめてたって、先生に言ってやろ」
「──あの、そこ、行ってみたいんだけど」
鈴が口を挟むと、同じ班の子たちは意外そうな顔をして、そのうちの一人がぽつりとつぶやいた。
「永峰さんって、変わってるね」
鈴は否定したいのをぐっとこらえて、曖昧に笑った。
(第4回へつづく)
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>>『うつせみ屋奇譚 妖しのお宿と消えた浮世絵』書誌情報