舞台は調布・深大寺。のどかな風情が残るその町に、子供にしか見えない”うつせみ屋”があるという――。浮世絵師だった祖父の願いを胸に秘め、白い狐に導かれるように、その宿に足を踏み入れた少女が見たものは……。
漫画家・五十嵐大介氏によるカバーイラストにも注目の本作! カドブンでは、試し読みを4日連続で実施します。
スタジオジブリを彷彿とさせる、民俗学ライトミステリーをぜひお楽しみください。(第1回から読む)
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「──うつせみ屋ってのはさ、大人には視えない〈お化け屋敷〉なんだ。だから、普通は近寄らない。怖がりなのか度胸があるのか、わかんねーな」
「まあ、この辺で面白いところって、あんまりないもんね」
そんなことを言いながら、同じ班の子たちはそろって、放課後に鈴をうつせみ屋まで案内してくれた。
「大人には視えない……?」
「大人にいくら説明してもさ、あそこに一本道はないとか、説明がよくわからないとか言って、誰もわからないんだよね。だから、子どもにしか視えないんじゃないかって話」
「そうじゃなきゃ、あんなボロ屋、いまどき残ってないよね。視えてたらとっくに解体されて空地になってるでしょ」
口々に語られる話から、うつせみ屋の像がおぼろげながら見えてきた。
父の話は正しかったのかもしれない。そして、祖父の話も。本当に幽霊だとか、妖怪の泊まる宿屋だとしたら、説明できない場所にひっそりと建っているのがふさわしい。
住宅と草木が交互に並んだ十字路の先に、また十字路が。左右を見ると、その先にも同じような十字路があって、次の瞬間には自分がどの道に入ったのかがわからなくなっていた。
「あれ、あっちに十字路あったか?」
「ねえ、あんな家あったっけ」
「前より、道が増えてるような気がするんだけど……」
湿気を含んだ生暖かい風が吹き、沈黙が夕陽と地面に落ちた影を際立たせるようだった。
皆が黙ると、一切の音が消えた。
「場所はわかってるんだ。こっちだよ」
「そうそう、久しぶりに来るとわかんなくなるよね」
男子が無理に笑ってみせると、他の女の子たちもぎこちない笑みを張りつけた。
皆、沈黙が怖かったのだ。
十字路を二つ通り過ぎ、まっすぐに歩き続けると、横に延びた長い一本道に出た。
「ほら、この通りだよ」
鬱蒼とした木々と、高い生け垣が両際を囲んでいる。その一本道の途中に、くすんだ鳶色の古民家が、仄暗い木陰にひっそりとたたずんでいた。
玄関脇に置かれた行灯の看板には、すでにぼんやりとした灯りがともっている。
──うつせみ屋。
たしかにそう読めた。
他の子たちが、ぴたりと足を止めた。
「……どうしたの?」
鈴が怖々と声をかけると、
「行灯に灯りがついてる」
「灯りがついてたこと、なかったのに」
「誰がつけたんだろ……?」
不安をはらんだささやき声が交わされ、頼りない声をさらうように、強い風が吹いた。
玄関の格子戸のむこうで、ぱっと、小さな灯りがともった。
淡い灯りのなかで──人影が、うごめいた。
「──誰かいる」
つぶやいたのは、誰だったか。
その言葉を合図に、全員で走って逃げだした。
心臓の音が体中に重く響いていた。
翌日の放課後、鈴は一人で通学路を歩きながら、無意識に手提げ鞄を胸に抱きこんでいた。
昨日の一件で、同じ班の子たちとはずいぶん打ち解けられたように思うけれど、休み時間は男女関係なく運動場で駆け回る子たちだから、あいかわらず休み時間は一人だったし、帰り道なんて、校門を出たところから正反対の方向だ。昨日は鈴を案内するために、わざわざ反対の方向に来てくれたのだ。
けれど、いま鈴の頭を占めているのは、学校生活のことではなかった。
鈴は一人でうつせみ屋に行こうとしていた。
本当は行きたくない。それでも、あの格子戸のむこうに見えた人影が、祖父の言う〈あの子〉について、なにか知っていたとしたら。
浮世絵を持ち歩いているだけでも奇妙なのに、出ていった〈絵〉を捜しているなんて、とても他の子には言えなかった。行くなら、鈴が一人で行かなければならない。
鈴は十字路の手前でためらったけれど、そのわずかなあいだにも夕闇が迫っていた。
──夕暮れは、苦手だった。
幽霊や妖怪は、怖い。けれど、それ以上に怖いものがあった。
通り過ぎてくれないもの。
思い出しては、心に鋭い傷を残すもの。
あの日も、こんな夏の終わりの夕暮れだった。
祖父が入院してから、鈴は何度も祖父の病室を訪ねていた。
──明日は夕方に来るね。
鈴がそう言うと、祖父は楽しみにしている、と微笑んで見送ってくれた。
瘦せ細った祖父を見るのは辛かったけれど、顔を見せれば喜んでくれるのが嬉しかった。
それなのに──鈴は、約束を破った。
一緒に遊んでいた友達の用事に付き合っているうちに、面会時間が過ぎてしまっていたのだ。
べつに、断れない用事ではなかった。途中で抜けるつもりだったのに、間に合うだろうと甘く考えていたせいだ。
もう間に合わないとはわかっていたけれど、鈴は病院まで走った。
じわじわと暮れていく夕陽が、濃紺の闇に沈んでいく街の風景が、鈴をあせらせた。
病院の前まで来たものの、面会はできないだろうと、鈴はあきらめて帰ってしまった。頼みこんだら、顔を見るくらいはできたかもしれないのに。
家に帰ると、母が、
「鈴、さっき電話があって、おじいちゃんが心配してたよ。夕方に行くって言ったのに、行かなかったんだって?」
「ごめんなさい……」
「明日、謝りに行きなさい。事故にでも遭ったんじゃないかって、本当に心配してたんだからね」
うん、と罪悪感を嚙みしめてうなずくと、母はそれ以上言わなかった。
翌日──鈴は、早朝に起こされた。
母の、なにかを押し殺したような声で。
罪悪感は、とりかえしのつかない後悔になった。
──後悔が、いちばん怖い。
鈴は唇を嚙んで、身体の内からこみあげてきたものをやり過ごした。
うつせみ屋は昨日と同じように、行灯に灯りがともっていた。
鈴が近づいていくと、急に生け垣が揺れた。
びくりと肩が跳ねる。
息をひそめて様子をうかがっていると、生け垣の小さな隙間から、白い獣が飛び出した。
鈴は一瞬、恐怖を忘れた。降り積もったばかりの雪みたいに、真っ白な体だった。
犬だろうか。こんなに毛並みのいい動物は、見たことがなかった。
六年生にもなって、と自分でも思うけれど、動物やぬいぐるみなど、ふわふわしたものにはとにかく弱かった。
どうしてもさわってみたくて、鈴はそっと白い犬に近づいた。
犬にしては鼻が長く、目つきが鋭いように見えたけれど、ともかく、その犬のようなものは、じっと鈴を見上げてから、玄関の格子戸に鼻先を差しこんで、わずかな隙間からするりと内に入った。
玄関の前に立つと、隙間から音が漏れ聞こえてきた。
琴と、三味線の演奏。
複数の楽しげな笑い声。
鈴は一呼吸置いて、格子戸を少しだけ開けて、そろりと中を覗いた。
ヒノキの香りが、ふわりと鼻先を漂った。
最初に目に入ったのは、金屛風の衝立だった。妖怪の行列──百鬼夜行が描かれている。衝立の後ろには二階に続く階段が見えた。
左は壁、右には襖がある。
古風だけれど、土壁も襖も上品で、外からの印象とはずいぶん違った。
──と、前触れもなく、階段から下りてくる足音が聞こえてきた。
鈴は慌てて格子戸を閉めようとしたけれど、遅かった。
階段から下りてきた女性と、ばっちり目が合ってしまった。
ごめんなさい、ちょっとお聞きしたいことがあって、と言い訳をする暇もなく、女性がとんとんと小気味のいい音をたてて階段を下り、菊と桜の散る朱色の着物が、濃鼠に緑色の七宝つなぎの帯が、鈴の目の前まで迫った。
艶やかな着物に、髪の毛先をくるりと丸め、簪で留めた玉結び。
──浮世絵から出てきたような恰好だった。
すっかり言葉を失ってしまった鈴を、女性は無遠慮にじろじろと眺めた。
値踏みするような、ねっとりとした視線だった。
「なんだい、あんたも客かい……? 上で宴をやっているんだ、ちょいと遊んでおいきよ」
女性は鈴の手を取って、強引に引き入れてしまった。
驚くほど、冷たい手だった。
「あ、あの……」
玄関で靴を脱ぐのが精いっぱいだった。
階段を上がると、二間続きの座敷に招き入れられた。
鈴は目を瞠った。
優雅に琴や三味線を弾く女性たち。
お猪口に口をつけ、窓の外にしっとりと視線を傾ける男性もいれば、談笑しながら、畳に並ぶ朱塗りのお膳に舌鼓を打つ男女もいる。
誰もが美しい着物を着て、能面のような笑みを浮かべてくつろいでいた。
鈴は今度こそ完全に言葉を失った。
──この風景を知っている。
浮世絵に描かれた江戸の宴の風景を、祖父と幾度となく見てきた。
格子窓のむこうには紅く色づいた紅葉が並び、散った葉が小川を彩っていた。
「紅葉が……」
かすれた声で、ようやくそれだけ言うと、
「見たいものを見るのが一番さ。そうだろ?」
女性が鈴の肩に手をかけた。
布越しでもわかるほど、ひんやりとした手だった。
身体からすとんと力が抜けて、鈴は畳の上に座りこんでいた。
「さあ、なにかおあがりな。遠慮は野暮だよ」
桶に盛られた寿司や刺身、大皿の天麩羅に、盆に載った豆腐田楽、佃煮、それから──。
「水菓子もあるよ」
女性は小皿に西瓜を取り分けて、鈴に持たせた。
どう断ろうか、と鈴は困り果てた。
知らない人から食べ物をもらうのは、ひどく抵抗がある。
いや、それだけではない。
なにか、食べてはいけない気がする。
「──やめろ。帰れなくなる」
深みのある低い声が降ってきたかと思うと、上から小皿を取り上げられた。
「あら、晴彦さま。どうされました」
「この子が生者だと、気づいていたろう」
男性の声に険が宿る。
女性は着物の裾で口元を隠しながら、くっくっと喉で笑った。
「うつせみ屋は〈人でないモノ〉が泊まる宿……。生きた人間は入ってこられないはず」
「この子はここに用がある。生きたまま、な」
鈴が体を強張らせていると、男性は小皿を女性に押しつけて、鈴の腕を引き上げた。
気づけば、演奏が止んでいた。
無数の視線が肌に突き刺さる。
恐ろしくて、顔を上げられなかった。
「おいで」
男性はそれだけ言うと、鈴に背をむけて部屋を出て行った。
鈴は少し迷って、〈客〉に頭を下げてから、男性の後を追いかけた。
(このつづきは本編でお楽しみください)
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■遠藤 由実子『うつせみ屋奇譚 妖しのお宿と消えた浮世絵』
浮世絵から消えた絵を追い、少女が辿り着いたのは…民俗学ライトミステリー
調布は深大寺の近く――武蔵野の自然が残るその地には、子どもにしか視えない宿屋がある。幽霊や妖怪など<人でないモノ>が泊まる宿屋、「うつせみ屋」。人間は、〈特別な用〉がなければ、入ることができない。怖がりな小学六年生の鈴は、ある夜、浮世絵師だった亡き祖父の霊に「浮世絵から出ていった絵を――〈あの子〉を探してほしい」と頼まれ、祖父のヒントを頼りに、うつせみ屋にたどり着く。鈴がそこで出会ったのは、どこか寂しげな面持ちの青年店主・晴彦と、気まぐれに自分を助けてくれる白い狐だった。晴彦から、祖父が浮世絵師を志すきっかけとなった浮世絵コレクションを見せられた鈴は、うつせみ屋に通うことを決意し、時に晴彦からヒントを与えられながら、絵の正体へと近づいていく。人でないモノの宿は、怖い。しかし、妖の宴に巻きこまれ、妖と言葉を交わすうちに、鈴は怖がりながらも、うつせみ屋に惹かれるようになる。やっとできた学校の友達の京子にせがまれてうつせみ屋を訪れた鈴だったが、そこで京子が行方不明となり…。果たして京子を救出できるのか。あの白い狐は何者だったのか。ハラハラドキドキでラストまで一気読みの本作。
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