舞台は調布・深大寺。のどかな風情が残るその町に、子供にしか見えない”うつせみ屋”があるという――。浮世絵師だった祖父の願いを胸に秘め、白い狐に導かれるように、その宿に足を踏み入れた少女が見たものは……。
漫画家・五十嵐大介氏によるカバーイラストにも注目の本作! カドブンでは、試し読みを4日連続で実施します。
スタジオジブリを彷彿とさせる、民俗学ライトミステリーをぜひお楽しみください。
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第一章 うつせみ屋
「鈴、荷物が届いたから、二階に運んじゃって」
玄関から母の声が響いた。
「はーい」
鈴は自分の荷物の入った段ボールを抱えて、二階に上がった。
段ボールを足元に置いた鈴は、一呼吸置いて、祖父の部屋の襖を開けた。
祖父の部屋は記憶にあるとおり、しんと冷えて、静かだった。
祖父が亡くなってからは誰も使っていなかったのだけれど、浮世絵のコレクションがあるので、夏場は常に冷房がかかっている。
長く主がいなかった部屋は、どこかよそよそしい空気が漂っていたけれど、今日からは鈴の部屋になる。
鈴が持って来た荷物は、それほど多くなかった。勉強机と教科書だけは、すでに運びこまれている。
鈴は段ボールを開けて、幼馴染と一緒に撮った写真や文房具などを、勉強机の上に並べた。
誕生日にもらったペンギンのぬいぐるみは鈴のお気に入りだったけれど、畳の和室にはひどく不似合で、迷った末に、勉強机の隅に置いて、教科書で隠してしまった。
あまり、部屋の雰囲気を変えたくなかった。
もっと言うなら、本当はこの部屋を使いたくなかったのだけれど、誰もいない部屋を管理し続ける祖母のことを考えると、いやだとは言えなかった。
勉強机の上に物を置き、引き出しのなかを埋める。服は、祖父の使っていた簞笥を使うことになっていた。
祖父が着物を着るときに使っていた姿見の前に立つと、鏡に映った鈴はどこか頼りない表情を浮かべていた。そういう顔をしていると、小柄な身体がいっそう貧弱そうに見える。
首筋を隠すくらいの長さしかないショートカットの髪も、とても活発そうには見えなかった。細くてやわらかすぎる髪質のせいで、長く伸ばすとからまってしまうから、自然とこの髪型に落ち着いたのだ。
第一印象は五秒で決まる。とりあえず、笑顔だ。清潔感も忘れずに──と、海外に単身赴任中の父が電話で励ましてくれたけれど、なんだかビジネス用のアドバイスに聞こえたし、明日のことを考えると憂うつでしかなかった。
急な転校だった。小学校六年生の夏休み明け、二学期からの転入だ。ふだんはあまり自己主張をしない鈴も、さすがに泣いて嫌がった。
人見知り、気弱。自分の性格はいやというほどわかっている。こんな中途半端な時期に転入して、打ち解けられるわけがない。なにより自分が、半年しか通わない学校を卒業するのに抵抗があった。
けれど、母の仕事場が異動で遠くなったので、父の実家に住むことになった、と言われたら、それは相談ではなく報告だ。抵抗したところで、子どもに勝ち目はない。父は海外にいるし、母方の祖父母は九州だ。
誰が悪いわけでもないと、わかってはいるのだが──。
鈴はため息をつき、服を何着か広げて、明日着ていく服のことを考えた。
パステルカラーのシャツに、暗色のキュロットスカートというのが鈴の定番だった。
真剣な表情で組み合わせを考えていると、
──かたん。
部屋の隅で、物音がした。
妙な音だった。
なにか──蓋が開いたような。
部屋を見回した鈴は、ある一点に目を留めて身体を強張らせた。
浮世絵を収納した簞笥の、いちばん上の段が少し開いていた。
この部屋に入ったときは、開いていなかった。物が少ない部屋だから、はっきりと覚えている。
少しでも身じろいだら、引き出しのなかから〈なにか〉が出てきそうで、声をあげることもできなかった。
しかし──なにも起こらない。
鈴はおそるおそる立ち上がった。音をたてないように、慎重に簞笥に近づいた。そのあいだも、いやな想像が頭を駆け抜けていく。
母や祖母を呼ぶことはできない、と思った。本当は、祖父の部屋を使いたくないから妙なことを言い出した、と思われるかもしれないし、亡くなった人間の部屋で妙な音がした、なんて言えば、どのみちいやな思いをさせてしまう。
鈴は息を止めて、思い切って引き出しを開けた。
並んでいた桐箱の一つが、傾いて開いていた。祖母がこんないい加減な保管をするはずがない。そのままにしておくことができなくて、鈴は桐箱を畳の上で開けて、なかの絵を取り出した。
ほとんど白紙の、奇妙な絵だった。
祖父の作品を全て把握していたわけではないし、最期まで描いていたというから、描きかけの絵があったとしてもおかしくはないのだけれど──。
モチーフを表す、右上の扇形のコマ絵には、木にくくりつけられた〈赤くて細長いもの〉と、それを木陰から覗きこむ中華服の子どもたちが描かれていた。
絵の下のほうには、これもまた赤色で、櫛と小さな花々が、着物の柄のように添えられている。
中央だけが、ぽっかりと空いていた。
──絵が、そこから抜け出したみたいに。
ふっと、祖父のいたずらっぽい笑みが浮かんだ。
鈴はじっと白紙の空間を見つめていたけれど、階段の下から母の呼ぶ声が聞こえてきたので、浮世絵を桐箱に戻した。
最近洋風に改装したというリビングでは、祖母が出かける準備をしていた。
「鈴、和菓子でよかったら、おばあちゃんとお菓子を買いに行こうか」
「いってらっしゃいよ。この辺を歩くの、久しぶりでしょう」
小学四年生の夏に祖父が亡くなってから、正月とお盆以外でこの家に来ることはほとんどなかった。鈴が塾に通い始めたことや、一人で留守番ができる歳になったという理由もあるけれど、鈴も前ほど積極的には行きたがらなかった。その気持ちを、母と祖母が気づかないはずもない。
「……そうだったね。お母さん、なにが食べたい?」
「草もちがいいな。あそこで売ってるの、甘すぎなくて美味しいのよ」
「わかった。行こう、おばあちゃん」
母と祖母が安堵したように目配せしたのに気づいていたけれど、鈴はなにも言わずに玄関で靴を履いて、一足先に外に出た。
見渡すかぎり、コンビニどころか一軒の店もない住宅地だ。
炎天下で、通りを歩く人影もない。
けれど、人の訪れ自体は意外に少なくないという、一風変わった土地だった。
武蔵野の自然が残る土地──調布。深大寺の門前町として発展したこの場所は、今も観光客でそれなりに賑わっている。駅から離れているため、観光客は車かバスで来ることが多いから、歩いている人間が少ないというだけだ。
鈴が前に住んでいた場所とは、まったく違う景色だった。
深大寺東参道の細長い坂道を下っていくと、ゆるやかなカーブを経て、涼しげに流れる水路に出迎えられる。
水の音に誘われるようにして進むと、江戸時代のような古めかしい茶屋や蕎麦屋の並ぶ通りに行き着く。日曜日の今日は、静かに賑わっていた。
家族連れが多いけれど、水路の近くには写生をする一団や、木陰で草もちを食べながら本を読んでいる人もいて、誰もが思い思いに過ごしている。
草ぶきの山門をくぐり、深大寺でお参りをしてから、草もちを買った。
「暑いわね。久しぶりにかき氷が食べたくなっちゃったわ。全部は食べられないから、半分こしない?」
「うん。おばあちゃんの好きな味でいいよ」
「鈴らしいわねえ……」
祖母は苦笑して、ちょっと考えてからメロン味を頼んだ。明らかに祖母の趣味ではなく、鈴に気を遣ったのだろう。
祖母だったら、宇治抹茶がよかったかもしれない。気の遣い方を間違えた、と反省したけれど、祖母は緑色になった舌をぺろっと出して、おいしいね、と笑ってくれた。
九月の初旬はまだまだ暑い。
木陰のベンチに座って、鈴と祖母は並んでかき氷を食べた。
首筋から汗が流れる。氷を二口、三口入れるうちに、口のなかがすっと冷えて、その冷たさがじわじわと体中に広がっていく。
かき氷を食べ終えたあとも、鈴と祖母はしばらくベンチに座って、風鈴の音に耳を傾けていた。
──いまなら、聞けるかもしれない。
「そういえば、一階に飾ってた浮世絵だけど……柱に飾るから、〈柱絵〉って言うんだっけ」
「ええ。鈴は、浮世絵のことをよく覚えているのね」
祖母がふふっと笑った。
「……うん、覚えてるよ」
祖父が浮世絵について教えてくれたことは、古紙の香りとともに、鮮明に思い出せる。祖父は遊びに行くたびに、いろんなことを教えてくれた。
「柱絵が、どうかした?」
「見かけなかったから……どうしたのかなって思って。片付けたの?」
鈴はなるべく自然に聞こえるように、店先で揺れる風鈴を見つめながら言った。
鈴と一緒に風鈴を見つめていた祖母の肩が、視界の端でかすかに揺れたような気がした。
「浮世絵だけあって、おじいちゃんがいないのは……少し、寂しいでしょう」
──おばあちゃんも、私と同じなんだ。
鈴は黙ってうなずいた。
鈴はまだ一度も、自分から祖父の仏壇に手を合わせたことがなかった。
祖父の遺影を見ると、胸が痛む。
──眠れない。
その夜、鈴は何度も寝返りを繰り返したけれど、どうしても眠れなかった。
そのうち喉の渇きを覚えて、足音を立てないように、そっと一階に下りた。
静寂は嫌いじゃない。夏の終わりの、熱気を含んだ夜の闇も。
──闇は、怖いばかりじゃないぞ。
怖がりの鈴だけれど、祖父の言葉は信じられた。
──薄闇にまぎれて、ふだんは視えないものが見つかるかもしれん。
祖父が大真面目な顔でそう言ったとき、鈴はくすくす笑いながら、妖怪画を眺めていた。
いつかの記憶が幻燈のように、暗闇にぼんやりと浮かぶようだった。
浮世絵の妖怪はそんなに怖くなかった。妖怪、あるいは、人間のような仕草をする動物たち。鈴は彼らの楽しげな様子を見るのが好きだった。
鈴は台所で水を飲み干すと、ガラス戸を開けて縁側に腰をかけた。
月のない夜だった。
群青の闇に沈んだ庭が、ぼんやりと輪郭を失っている。
そこに、ふっと、深みのある、甘くて苦い香りが漂った。
鈴は息をのんだ。
隣に、誰かが座っていた。
上背のある、瘦身の老人だ。深緑色の着流し姿で、煙管をくゆらせている。
「おじいちゃん……」
かすれた声で呼びかけると、やわらかな眼差しが返ってきた。
鈴の前では吸わない人だったけれど、その仕草も表情も、まちがいなく祖父のものだった。
胸がじくじくと痛んだ。
祖父との思い出はどれも大切なものなのに、最後の最後で、鈴自身が傷をつけてしまった。
「ごめんなさい」
口をついて出たのは、謝罪の言葉だった。
その言葉と一緒に、ぽろぽろと涙がこぼれた。うつむくと、余計に止まらなくなる。
どうにもならなくてしゃくりあげていると、祖父の手が肩にかかった。
「うつむいていると、前が見えないぞ。じいちゃんはいま、どんな顔をしている?」
鈴は顔をあげたけれど、視界が歪んで見えなかった。
手の甲で目を拭って、もう一度、正面から顔を見た。
「……笑ってる」
そうだろう、と言って、祖父は笑いながら鈴の頭をなでた。
幽霊のようには見えなかった。半透明に透けているとか、足がないとか、そういうことはなかった。ただ、体温を感じさせない手だった。
自分と祖父のあいだに、見えない壁を感じる。
もう、本当に謝ることはできないのだ。
「──〈あの子〉が出ていった」
鈴が泣き止むまで黙っていた祖父が、ゆったりとした声でそう言った。
「……あの子?」
「浮世絵から出ていってしまったんだ。捜してやってくれんか?」
祖父の寂しげな苦笑が、目に焼きついて、離れなくなった。
(第3回へつづく)
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