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試し読み

浮世絵から消えた絵を追い、少女が辿り着いたのは。民俗学ライトミステリー!『うつせみ屋奇譚』試し読み

舞台は調布ちょうふ深大寺じんだいじ。のどかな風情が残るその町に、子供にしか見えない”うつせみ屋”があるという――。浮世絵師だった祖父の願いを胸に秘め、白い狐に導かれるように、その宿に足を踏み入れた少女が見たものは……。
漫画家・五十嵐大介氏によるカバーイラストにも注目の本作! カドブンでは、試し読みを4日連続で実施します。
スタジオジブリを彷彿とさせる、民俗学ライトミステリーをぜひお楽しみください。



 序章

 
 蒸し暑い夏の午後だった。
 すずは縁側に座って、足をぶらぶらさせながら、ぼんやりと庭を眺めていた。
 庭の百日紅さるすべりの葉から、黄金色の木漏れ日が降り注いでいる。
 花びらは石灯籠いしどうろうの足元に散って、庭をほんのりと彩っていた。
 祖母の淹れてくれた冷たい麦茶を飲みほしてしまうと、そんな静かな情景を見つめる他に、することはなかった。
「鈴、いいものを見せてあげようか」
 深くゆったりとした声と共に、ほのかに甘く、少し苦味のある香りが鼻先をかすめた。祖父の香りだった。沈香じんこう、と言っていただろうか。この香りと深緑色の着流し姿が、祖父の定番だった。
 きちんと日本的な生活を送っている祖父母の家は、鈴にとっては自分の見慣れた日常とは違う、不思議な空間だった。少し退屈なときもあるけれど、面白いものが見つかりそうな気配がそこかしこに漂っていた。
 鈴の背では届かない床の間の天袋や、茶簞笥ちゃだんすにしまわれた茶器の陰に。
 外から射しこんでくる光と、家の隅に溜まった影のあわいに。
 あるいは、目に見えない、古い木材や畳の香りのなかに。
 自分から見つけにいこうとする勇気はなかったけれど、〈面白そうななにか〉を想像するだけで楽しかった。
 だから、祖父がもったいぶって声をかけてきたとき、ようやく来た、という予感めいたものがあった。
「いいもの?」
 鈴が期待に目を輝かせると、祖父はにっと笑ってうなずいた。
「じいちゃんの宝物だ」
 祖父はこの日を待ちわびていた、という顔をして、鈴を二階の自室に招いてくれた。
「入ってもいいの……?」
 鈴はおそるおそる、ふすまから祖父の部屋を覗きこんだ。
 祖父の部屋を見るのは初めてだった。大切な〈コレクション〉があるから絶対に入ってはいけないと、母から厳しく言われていたのだ。
「かまわんよ。鈴ももう小学二年生だから、〈これ〉の良さがわかるだろう」
 手招きされて、鈴はようやく足を踏みいれた。
 部屋のなかはひんやりとしていた。冷房とわかっていても、なにか神聖な空気が漂っているように思えて、背筋がぴんと伸びた。
 部屋の壁には、額に飾られた絵が並んでいた。鈴の家のリビングに飾られている、南欧の淡く明るい風景画とは違って、地図のように細かく、精密だった。
 壁にかかった絵はどれも同じ描き方をしているようだけれど、並んでいるとなにかちぐはぐな印象を与えた。
 上半身だけを大きく描いた歌舞伎役者の絵があれば、きっちりと全身を描いている着物姿の女性の絵もある、というふうに。
 鈴は思ったままを祖父に話した。
 人見知りが激しく、遠慮がちでつい人の顔色を読んでしまう鈴だけれど、祖父に対しては気を遣う必要がなかった。筋が通ってさえいれば、どんな些細なことでも、祖父は鈴の言葉を否定しなかった。
「鈴は鋭いな。みんな違う目的で描かれているから、そう見えるんだ。この絵には情報がたくさん詰まっている」
「情報?」
「さて、どこから説明しようか。──まず、額に飾ってあるのは全部、江戸時代に描かれたものなんだ」
「知ってるよ、浮世絵っていうんでしょ? おじいちゃんは浮世絵を描く人だって、お父さんが言ってた。おじいちゃんの絵はないの?」
「それは後で見せるよ」
 祖父は照れくさそうに笑い、桐簞笥の引き出しから綺麗な桐箱をいくつか持ってきた。
 座布団に座るように言われた鈴は、体育座りで祖父の挙動を見守った。
「いまでこそ美術品扱いだが、江戸の人たちにとってはそうじゃあなかった。新聞雑誌みたいなもんだったんだ。求めたのは、情報だ」
「じゃあ、風景が描いてある絵は、ガイドブックみたいなもの?」
 この前の家族旅行のとき、父が真剣にガイドブックを読んでいたのを思い出した。
「そう。それから、鈴が買ってきてくれたポストカードみたいに、土産にもうってつけだった」
「高くないの?」
「よくかけそば一杯ぶんと言うから、いまだったら三百円から五百円くらいだろう」
 そう言いながら、祖父は繊細な手つきで桐箱から絵を取り出した。
 少しうつむいた女性が、袱紗ふくさなつめを拭いている絵だった。
 周りには茶道具が置いてある。
 ほっそりとした手が印象的だった。
 祖母が「茶の湯をたしなむ」と言ったときに感じた上品な響きを、そのまま絵にしたようだった。
 さわってごらん、と言われて、鈴はたじろいだ。
 目の前に出されると、思っていたより薄かった。母が勝手に入って触るな、と言った意味がわかった。少し力を入れただけで、簡単にしわがついてしまいそうだ。
「これが江戸時代に描かれたもの?」
「江戸時代から明治の初期に描かれたものもあれば、平成になって再現された復刻版もある。鈴がいま見ているのは復刻版だよ。それの実物が見たかったら、一緒に千葉の美術館に行こう」
 さわっても大丈夫だから、とうながされて、鈴はおずおずと手をのばした。
 薄くて、少しざらざらしている。祖父に言われて裏を見ると、インクが滲んでいるように見え、輪郭を描く細い線が浮き上がっているのがわかった。
 鈴が指先でそっとなぞると、
「それぞれ、役割の違う人が協力して作っているんだ。じいちゃんが下絵を描いたら、彫師ほりしが下絵ごと、彫刻刀で木の板に絵を彫る。そのあと、摺師すりしが色をつけていく。そうやって裏を見ると、いろんな人の〈跡〉がわかるだろう?」
 鈴のなかで、キャンバスにむかい、一人でゆっくりと絵を仕上げていく芸術家のイメージが消えた。代わりに浮かんできたのは、次々と作業をこなす職人の姿だ。
「芸術家っていうより、職人みたいだね」
「そのとおり」
 祖父は満足げに目を細めた。
「浮世絵は芸術品じゃない。そうやって手に取って、身近に感じる日常品だ」
 祖父の言葉に熱がこもる。
 鈴はもう一度、絵をいろんな角度から眺めてみた。
 図工の時間に、彫刻刀を使ったことがある。どんなに細い刃を使っても、こんなふうに繊細な線は描けなかった。もっとも、鈴の場合、先生の言った注意事項が怖くて、彫刻刀を強く握れなかったせいでもあるが。
 なめらかな輪郭は、線だけでも陶器のように白い肌を連想させる。
 教科書や時代劇でまげを見たときは妙な髪型だと思ったけれど、こうして眺めてみると、しっとりと艶やかに見える。
 細くて小さな目は、優しげな笑みを浮かべているように見えるけれど、次の瞬間にはひどく無機質に見えて、ミステリアスと言えそうだ。
 いちばん鈴の気を惹いたのは、女性が身につけている着物だった。
 落ち着いた紫色の着物で、ゆるやかな曲線を描く袖に、紅葉や若葉、桜がちりばめられている。
 鈴がなにを気に入ったのか、祖父はすぐに察したらしい。
 他にも、綺麗な着物の絵を見せてくれた。
「これは美人画。江戸時代のファッション雑誌みたいなものだよ。鈴にはまだ早いけど、お母さんが読んでいるだろう。髪型や化粧の指南書だったり、化粧品の広告として使われたりもした。あっちにある歌舞伎役者の絵は、アイドルのブロマイドみたいなものだな」
 鈴が浮世絵に興味をもったのがよほど嬉しかったのか、祖父は目じりにくっきりとしわを刻んで、高揚した声で説明してくれた。老成した顔に、少年の面影が浮かぶようだった。
 本当に、好きなのだ。
 好きなものを楽しそうに見せてくれるのが嬉しくて、正直よくわからないものもあったけれど、鈴は祖父の低くてよく響く声にじっと耳を傾けた。
 ──いつのまにか、蟬の声が消えていた。
 聞こえるのは、祖父の声と、祖父の着物がたてる、かすかな衣擦れの音。
 部屋は桐箱と古い紙の匂いで満たされていた。
 余計なものは、なにもなかった。
 やがて、最後の一枚になった。
 着物姿の人々──いや、着物を着た動物や妖怪──〈人でないモノ〉たちが、縁側で団扇うちわを片手に、夕涼みをしている絵だった。座敷では、浮世絵を見たり、描いたりしている姿もあった。
 一瞬、この家の縁側かと思った。それほどよく似ていたのだ。けれど、この絵ほど祖父母の家は広くない。
「私、この絵がいちばん好き」
 鈴がぽつりとつぶやくと、祖父は意外そうな顔をしてから、豪快に笑った。
「あれだけいいものを見たのに、この絵がいちばん好きか」
 鈴はなぜかむっとして、
「だって、みんな楽しそうなんだもん。この絵のなかに入って、ここに混ざりたいと思うくらい好き」
 と、鈴にしては珍しく、強く言い返していた。
 祖父は気恥ずかしそうに、袖に両手を差しこんで、落ち着かない様子だった。
「そこまで褒められると、言いにくいんだが……それは、じいちゃんが描いた絵なんだ」
 鈴は一拍置いてから、声をあげて笑った。
「これ、どこの家? この家に似てるけど、違うよね」
「──うつせみ屋、だ」
 鈴は絵から顔をあげた。
 妙に響く名前だった。
「屋ってことは、お店?」
 祖父はにっと、唇に妖しい笑みを刻んだ。
「妖怪や幽霊のようなもの……〈人でないモノ〉が泊まる宿屋だ」
 鈴は顔を強張らせた。
「怖い話はいやだよ」
「なに、怖くなんかないさ。じいちゃんが、鈴より少しお兄さんだった頃……用があって行ったことがあるんだが、気の良い店主がいてな。不愛想だが、意外と子ども好きで、行くといつでも茶菓子を出してくれた。なにより、その人が見せてくれる浮世絵が本当に綺麗で……あれほど、もう一度訪れたいと思った宿屋はない。まあ、泊まったことはないんだが……」
 どこか遠くを見る目だった。
 懐かしむ、という言葉では足りないような──そう、想い焦がれる、と言っていいほどの。
「もしかして、おじいちゃんが浮世絵師になったのって、その人の影響?」
 祖父は少し思案するそぶりを見せてから、急に声をひそめた。
「その人のコレクションのなかにはな、特別な浮世絵があったんだ」
「特別な……?」
 部屋には二人しかいないというのに、鈴もつられて、小さな声でささやくように聞き返していた。
「そう。浮世絵は木版画で大量生産するもので、だから庶民でも買えたし、日常品として機能できた。ただ、そんな浮世絵にも一品ものの肉筆画──要するに、絵師が一人で描きあげるものもあってな。じいちゃんも時々、肉筆画を描く」
 それのなにが特別なのかと、鈴はいくぶん落胆しながら首をかしげた。
 祖父は、話はここからだと言わんばかりに、にやりと笑った。
「特別な浮世絵は一品もので、しかも──絵が動いた」
「どうやって? 電池でも入ってるの?」
 今度は祖父が落胆する番だった。
「違う。描いた絵が、勝手に動くんだ。気に入らないことがあれば、絵から出ていってしまうこともある。──魂が、宿っているから」
 祖父は笑っているが、声には真剣な響きがあった。
「なんの魂が……?」
 鈴は意識しないまま、声を落としていた。
 声が少し、かすれていた。
「居場所を失った、神様の魂だ」
 祖父は二人だけの秘密だと言って、それ以上は教えてくれなかった。

 結局、〈特別な浮世絵〉を見せてくれることもなく、祖父はあの日から二年後の、夏の終わりに亡くなった。
 あれは、祖父が孫を楽しませるために創った〈物語〉だったのかもしれない。
 鈴はそう思うことにして、永遠にわからなくなってしまった謎から、目を背けた。


(第2回へつづく)
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書誌情報はこちら>>『うつせみ屋奇譚 妖しのお宿と消えた浮世絵』


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