
六車由実の、介護の未来 01 面倒に巻き込まれてつながっていく(前編)
つながりとゆらぎの現場から――私たちはそれでも介護の仕事を続けていく

介護という「仕事」を、私たちはどれだけ知っているのだろう。そしてコロナという未曽有の災禍が人と人との距離感を変えてしまった今、その「仕事」はどのような形になってゆくのか。民俗学者から介護職に転身、聞き書きという手法を取り入れた『驚きの介護民俗学』著し、実践してきた著者が、かつてない変化を余儀なくされた現場で立ちすくんだ。けれどそんな中で見えてきたのは、人と人との関係性そのものであるという介護。その本質を、今だからこそ探りたい――。介護民俗学の、その先へ。
著者略歴:
1970年静岡県生れ。社会福祉士、介護福祉士、介護支援専門員。大阪大学大学院文学研究科修了。博士(文学)。専攻は民俗学。2003年、『神、人を喰う―人身御供の民俗学』でサントリー学芸賞受賞。東北芸術工科大学芸術学部准教授を経て介護士に。介護の現場に民俗学の「聞き書き」の手法を取り入れた経緯を綴った『驚きの介護民俗学』(医学書院)で日本医学ジャーナリスト協会賞大賞を受賞。他の著書に『介護民俗学という希望―「すまいるほーむ」の物語』(新潮文庫)がある。デイサービス施設「すまいるほーむ」管理者・生活相談員。
はじめに
六車由実、49歳。静岡県沼津市にある木造3階建ての実家で、81歳の母と9歳の柴犬マロンと共に暮らしている。高齢者介護の仕事を始めてから今年で11年目。現在は、定員10名の小規模のデイサービス「すまいるほーむ」の管理者兼生活相談員をしている。
介護現場で働くようになってから、それまでの大学勤務で専門にしていた民俗学の視点と方法を活かして、利用者さんたちへ聞き書きをしてきた。そして、聞き書きによって利用者さんたちの人生や生きてきた時代が浮かび上がることで、利用者さんとの関係が変化し、それが介護の在り方も変えていくという体験をしてきた。そうした体験は拙著『驚きの介護民俗学』(医学書院)や『介護民俗学という希望』(新潮文庫)に著してきている。
昨年1月、そんな私に大きな変化があった。それは、すまいるほーむが、我が家の1階に移転してきたことである。一昨年、父が急逝した後、自分が主に使っていた1階部分を地域のために使ってほしいという父の遺志と母の強い思いを受けて、すまいるほーむの再出発の場所として利用させてもらうことになったのである。以来、私は、昼間は1階でデイサービスの仕事をし、夜間や休みは2階で家族と寝食を共にする、という職住同一の生活が1年半続いている(3階は父と私の蔵書や荷物を置いたり、その一部をすまいるほーむの季節の道具や物品の置き場として利用している)。
同じ家の中に仕事場であるデイサービスと生活の場がある、というのは、母も私自身のプライベートな時間も仕事に巻き込まれることであり、始めてみると予想していた以上に大変で、二人とも大きなストレスを抱えるようになった。しかし、一方でそれは、私たち家族に生きがいと新鮮な喜びを与えるものでもあり、同時にすまいるほーむそのものも新しい展開をしていくきっかけにもなったように思う。
本連載では、我が家の1階にあるデイサービスすまいるほーむに集う利用者さんたちやその家族、スタッフたち、地域の人たち、そして私たち家族が互いにかかわりあう中で生じる様々な問題や出来事を綴りながら、「介護をする」とはいかなる営みなのかを考えていきたいと思っている。
なお、利用者さんたちやスタッフたちと共同作業で連載を紡いでいきたいという思いがあり、みんなに趣旨をあらかじめ説明した上で、それぞれどんな名前で登場したいか、ひとりひとりに希望を聞いてみた。子供の頃に呼ばれていた愛称や職場で呼ばれていたニックネームを挙げてくれた方もいるし、早くに亡くなった母親の名前を挙げてくれた方もいる。中には、好きな俳優や歌手の名前を挙げて、この名前で呼んでくれ、と言ってきた方もいた。以下、登場する人物の名前は、ほとんどが、そうしたひとりひとりの希望を反映させたものであることを付け加えておきたい。
1回目の今回は、いまだ全国の介護施設が緊張を強いられている新型コロナウイルスの渦中で、自分を見失いそうになった私を救った利用者さんのある行動について書いてみたいと思う。
マロンの怪我
すまいるほーむが我が家の1階に移ってから利用者さんたちやスタッフの楽しみの一つになっていたのが、愛犬マロンの存在であった。マロンは、それまで家族以外の人間とのかかわりがほとんどなく、来客に対してとても臆病だったので、毎日多くの人たちの出入りがある状態に適応できるか心配していた。でも、慣れてくると2階の住まいから階段を使って自ら下りてきては、気ままにデイルームの中を歩き回り、利用者さんやスタッフのにおいを嗅いだり、みんなに撫でられたり、利用者さんが休んでいるベッドの横で添い寝するかのように寝そべったりして過ごすようになった。利用者さんたちが帰る時には、玄関まで来て、おじぎするように首を垂れて見送ったりして、すまいるほーむの看板犬としての役割も果たしてくれるようになった。ペットセラピーと言えるほどの効果があったかどうかはわからないが、おとなしくてほとんど吠えないこともあり、利用者さんたちはマロンのそんな愛らしい姿に目を細めていて、いつも会うのを楽しみしてくれた。
私にとっても、マロンが身近にいるようになったことはプラスに働いた。9年間を共に過ごしているマロンの存在はもはや我が子同然であり、こうして執筆している時も、私の後ろで立てている寝息は耳に心地よく、何よりの癒しになっている。しかも、ストレスが多い介護現場での仕事でマロンをいつも身近に感じることができるのである。マロンが1階に下りてきて寝そべっている時も、2階にいても下の様子が気になるのか、時々階段の踊り場あたりで首輪についた鈴がちゃりんと音を立てる時も、マロンの気配を感じるだけで、私の体の中のオキシトシンは増加し、幸せな気分になる。
ところが、みんなの癒しであったマロンに異変が起きた。4月中旬、夕方の散歩中に、出会った犬に吠えられてぴょんと飛び退いた瞬間、後ろの右肢を痛めてしまったのである。いつも診てもらっている近所の動物病院では手に負えないということで、自宅から車で1時間程の市外にある動物総合病院を紹介された。受診すると、右後ろ肢の膝の十字靭帯が完全に断裂していることがわかり、5月上旬に手術を受けることになった。
3時間に及ぶ手術と5日間の入院によって、少しずつ歩けるようになったが、初めて家族と離れて病院で過ごした体験がマロンには相当に辛かったようだった。吠えることも、食べることも、寝ることもできず、いつもハァハァと荒い息づかいをして、時々キューンと哀しげに啼く、変わり果てた姿になってしまった。退院後しばらくは、そんなマロンに母と私とが交代で24時間付き添い、夜もほとんど寝ずに介抱する日々が続いたのである。
この事態が、私たち家族に与えたショックと心理的・肉体的な負担は想像以上に大きかった。しかも、2月下旬以降、新型コロナウイルスの感染への不安と緊張が絶えることなく続いており、その頃も、すまいるほーむで感染者を出さないための、そしてもし感染者が出たとしても広げないための対策に追われ、私はかなり神経をすり減らしていた。
自分自身が感染するかもしれない、そして利用者さんやスタッフにうつしてしまうかもしれないという恐怖と、すまいるほーむでもいつ集団感染が起こるかわからないという不安。そして、利用者さんの家族が感染者の多い都市部との接触があった場合には、2週間利用を控えてもらうという制限を決断せざるをえないことへの自責の念。様々な負の感情が、私を追い詰めていた。
そこに我が子同然であるマロンの怪我というプライベートでの不運が重なってしまったことで、私の心は、少しでも何か不測の事態が起きたら一瞬にして壊れてしまうのではないかというくらいピンと張り詰めていった。例えるなら、目一杯水を入れられてはち切れんばかりに大きく膨らんだ水風船のようだった。重さに耐えられずに、いつ地面に落ちて割れてしまうかわからない、私の心はそんな状態だった。
思考がどんどん閉ざされていく
私は、水風船を落とさないように、少なくとも仕事中はかろうじて平常心を保てるように、とにかく毎日を安全に、何事もなくやり過ごすということに専念するようになった。
初めにも触れたが、私は、介護の世界に入ってから、利用者さんへの聞き書きを続けてきており、語りの予期せぬ展開から利用者さんの生きてきた世界を知ることの醍醐味を感じてきた。しかし、その聞き書きも全く行わなくなった。利用者さんの語りだす話を面白がり身を乗り出して聞き入る、ということができなくなったからである。
そればかりか、利用者さんとは必要最低限の話しかしなくなっていった。別に、飛沫感染を防ぐために対面の会話は極力避けるという厚労省からのお達しに従ったわけではない。利用者さんの話を聞くことは、少なからず自分の心が揺さぶられる体験を伴うということを私はこれまでの聞き書きの積み重ねで実感していた。心が揺さぶられることにある種の快感を得ていたからこそ私は聞き書きを続けてきたのだが、その時の私の心は少しでも揺さぶられたらすぐに地面に落ちてはじけてしまう水風船だったから、水風船を割らないように、自己防衛のために不安定な要素を極力排除したかったのである。
そうした私の中の余裕のなさは、すまいるほーむという場そのものの雰囲気や、ここに集う人たちの心にも少なからぬ影響を及ぼしていたのかもしれない。「かもしれない」と書いたのは、ここ数か月のコロナ関係以外の出来事や、利用者さんたちやスタッフたちの具体的な姿を振り返っても、実はほとんど思い出すことができないからである。私は、利用者さんたちの言葉に傾ける耳を閉ざしていたばかりでなく、目も塞ぎ、何も見ようとしていなかったのだ。
だが最近、すまいるほーむで一番若いスタッフの亀ちゃんが、昼休憩を一緒に取っている時に、私にこんなことを打ち明けてくれた。そこからその頃のみんなの様子がよくわかる。
「コロナの感染が全国に拡大し始めた頃から、六車さんがすごく大変そうになっているのがよくわかって、心配していたんですよ。六車さんがいつか倒れちゃうんじゃないか、って。でも私には何もできないから、私はとにかくバカを言っていよう、明るくしていよう、それが私の役割かなと思っていました」
確かに亀ちゃんはいつも明るかった。他のスタッフたちもいつもと変わらぬ明るさと元気さで場を盛り上げようとしてくれていた。みんな不満も文句もひとつも言わなかった。そうやって、余裕を失った私が利用者さんひとりひとりに向き合えていない分を補ってくれていたのだと思う。私は、知らず知らずのうちに、スタッフたちに気を遣わせていたのである。
たぶん、スタッフたちばかりでなく、利用者さんたちも少なからず気を遣ってくれていたのではないかと思う。六車さんが大変そうだ、迷惑をかけちゃいけない、と。だから、今までは話し始めると止まらなかったサブさんが、私を相手に話し込むことはなくなったし、遠慮なく要望や不満を言っていた人たちの声も私の耳に届くことはなくなっていたのだ。
何も変わらない毎日を繰り返す。そして、夕暮れには今日も何も起こらなかったと安堵する。それを望むことしかもうできなくなっていた私は、「お願いだから面倒なことは何も起こさないでくれ」という圧を無意識のうちにみんなの心にかけていたのではないかと思う。それは決していい状態ではない。
介護現場では、利用者さんの様子について記録したり、スタッフ同士で申し送りをしたりする時に、「特変ありません」とか「穏やかに過ごされました」といった表現をよく使う。つまり、「何も変わらず」「穏やか」であることが利用者さんの幸せであるかのような価値観が共有されているのだ。また、「何も変わらず」「穏やか」な状態であるために、予めあらゆるリスクを回避しようとするのも、多くの介護現場のもっている傾向である。だから、利用者さんたちも、スタッフも、「してはいけないこと」のルールでがんじがらめになる。その閉塞感は、そこに集う人たちの意欲を低下させていく。
何も変わらない日常、それは本当に利用者さんにとって、そしてスタッフにとって幸せなことなのか? 本来、人が生きている日常とは、様々な変化があったり、感情の起伏があったりするものなのではないか? 本当は不平不満も意見もたくさんあるのに、場の閉塞感によって口にすることをみんなが諦めているのではないか?
私は介護の仕事に就いてから、介護現場の独特な価値観や雰囲気に違和感を抱き、聞き書きの実践を通してこう問い続けてきたつもりだった。それなのに、このような介護現場の保守的で閉塞的なありようを、私自身が志向するようになっていたのである。コロナ禍の中で、それほど私は追い詰められていた。
もう無理! 辞めさせてください
そんな私を更に追い詰める、決定的な出来事が起きた。それは、すまいるほーむの中で、新型コロナウイルスの感染が疑われる人間が出たにもかかわらず、簡単にはPCR検査を受けられないという現実に直面したことである。
5月下旬、スタッフの一人に37度台前半の発熱と味覚・嗅覚障害の症状があらわれた。本人はコロナへの感染を心配して自分で帰国者・接触者相談センターへと電話したのだが、まずは医師に相談するように言われ、かかかりつけ医を受診した。その際に、自分は介護職であり感染していたら高齢者にうつしてしまうかもしれないからPCR検査を受けさせてほしいと医師に熱心に伝えたのだが、医師は高熱がないことを理由にPCRにはまわさず、風邪薬を処方しただけだった。その報告を本人から受けた社長の三国さんは、つてを頼り、市内のある呼吸器科であればPCR検査にまわしてくれるかもしれない、という情報を得て、スタッフにその呼吸器科医院を受診させた。ところが結果は同じで、微熱だし、呼吸器に異常は見られないからPCRにはまわせない、もし2~3日のうちに37度5分以上の発熱があったら、自分で相談センターへ再び電話するようにと言われ帰されてしまったのだった。
PCR検査をめぐるこのような状況は私も新聞等の情報で知っていた。でも、感染させるリスクの高い介護現場で働く人間で、しかも味覚・嗅覚障害という新型コロナウイルスに特徴的だと言われている症状が出ているにもかかわらず、PCR検査を受けることができないという事実は、私にとっては大きな衝撃だった。なぜなら、これまでも、デイサービスや老人ホーム等の全国のいくつもの介護施設で集団感染が発生しているからである。だから当然、介護職員であれば優先的に検査してくれると思っていたのである。
だが本人のためにも、そしてすまいるほーむで集団感染を発生させないためにも、何としてもPCR検査を受けさせなければという思いに私は駆られ、八方手を尽くして、情報を募り、力添えをお願いした。その間の様々な人や機関とのやり取りの詳細はここには書けないが、厚労省がPCR検査の条件を緩和したにもかかわらず、地方ではいまだに37度5分以上の発熱が条件となっていること、集団感染が発生し、重症者が出る危険性があるにもかかわらず、介護職であることはまったく検査の要件としては考慮されないこと、市内の病院の多くが陽性者を出すことを恐れてか、PCR検査に消極的であること等、愕然とするような現実を突きつけられるだけだった。そして、症状があらわれてからようやく4日目にして、再三頼み込んで何とかPCR検査を受けることができ、翌日に陰性であるという結果が出たのであった。
陰性であったことで安心はしたが、介護現場で感染が疑われる人が出たとしてもPCR検査を受けるのは容易ではない、という現実は私を恐怖に陥れた。これから1年以上は続くと予想される新型コロナウイルスの脅威の中で、同じような局面に何度もいたることを想像するだけで、私は眩暈と吐き気を催すようになった。鬱状態になり、夜も眠れず、一人になると訳もなく泣くようになった。私の中の水風船はとうとう破裂し、重たい水は流れ落ち、風船のかけらは無残に散乱してしまったのだ。もうこれ以上、すまいるほーむの管理者を続けることはできない。
※後半は15日(土)に掲載予定