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連載

杉江松恋の新鋭作家ハンティング vol.7

コロナ禍を幻視したような作品。『季節を告げる毳毳は夜が知った毛毛毛毛』 杉江松恋の新鋭作家ハンティング

杉江松恋の新鋭作家ハンティング

書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は言葉に翻弄される一冊。

 浮遊する言葉島が頭上でぶつかり合うのを唖然と見ている。
 藤田貴大『季節を告げる毳毳けばけばは夜が知った毛毛毛毛もけもけ』(河出書房新社)を読んだ印象は、そんな感じであった。読者の眼前でガーン、ガーンと音を立てて言葉島がぶつかり合っているわけである。
「言葉島」という単語はもちろんないので、今急遽こしらえた。言葉のひとかたまり。それ自体が意味を持って動いている集合体を想像してもらいたい。それが空中に浮いているわけである、ぷかぷかと。いくつも浮いていて、相互の関係性はよくわからない。青ヶ島と喜界島くらい別々のものなのだろうな、とぼんやり感じるのみである。その島がぶつかり合うのだ。ガーンと。ぶつからないと思っていた青ヶ島と喜界島が衝突するので引っくり返って驚くしかない。青ヶ島と喜界島の人もびっくりするとは思うが。
『季節を告げる毳毳は夜が知った毛毛毛毛』、略して『毛』には5篇が収録されている。作者の藤田は演劇ユニット「マームとジプシー」主宰者で、これが初の小説集である。その方面には暗く、私は作者を演劇人として詳しく紹介することはできないが、本書の中にも意図的に脚本形式で書かれた箇所がある。強烈なイメージを伴う場面を読者につきつけ、余白を想像させる書きぶりは戯曲で培われたものだろう。本の作者プロフィールには「作品を象徴するシーンを幾度も繰り返す“リフレイン”の手法で注目を集める」とあるが、それも本書で多用されている技法である。
 各篇のあらすじを追うことにあまり意味はないので、二番目の「夏毛におおわれた」を例にとって作品の構造を説明したい。
「夏毛におおわれた」は多くの断章によって構成された小説である。もっとも短い「コアラの袋詰め」も含め、収録作はどれもそういう造りだ。冒頭で展開するのは、会社に出勤しようとしている男の視点である。その〈ぼく〉の語りにより、数日前から世界には異変が生じていることがわかる。「ある男の声を聞いてしまうと、耳がただれてしまって、ついにはからだも溶けてしまう」というのである。後で別の〈ぼく〉が登場するので〈ぼく・その1〉と表記するが、彼は会社に行くのを止めて自室に帰り、ある光景を目撃する。
 ここで視点は〈わたし・その1〉に切り替わる。〈わたし・その1〉は猫のみーちんと暮らすふうこだ。友人のきりえちゃんから話があるから、と呼び出されたふうこなのだが、たいして深いことも語らないうちに二人は別れてしまう。〈ぼく・その1〉から〈わたし・その1〉に視点が切り替わる前には、何者かが「これからはスケボーが必需品になるので買っておいたほうがいい」という意味のことを話しているやりとりが挿入される。〈わたし・その1〉から〈わたし・その2〉のきりえに視点が切り替わった段階で、その話をしていた一人がふうこであったことが判明する。
 このように、突如出現した段落の持つ意味合いが遅れて明かされることが以降も頻繁に起きる。たとえば国外から来たというワニに洗髪してもらっている〈ぼく・その2〉が何者かわかるのは少々後のことだ。ちなみに『毛』にはさまざまな動物が登場する。たとえば「産毛にとって」に出てくるのはシベリアンハスキーのエステティシャンだ。動物が人語を話すくらいはほんの序の口で、本書の中ではもっとおかしな出来事が次々に起きる。それがあまりに頻繁なので、だんだん慣れてあまり動揺しなくなってくる。この小説では何が起きてもいいんだぞ、そういう世界だぞ、という気持ちになる。島だってぶつかろうというものだ。
 話を「夏毛におおわれた」に戻すと、〈ぼく・その1〉〈わたし・その1〉〈わたし・その2〉〈ぼく・その2〉視点とそれ以外の多くの断章によって構成されたこの短篇は、終末小説の要素を持っている。じりじりと、終わりへ向かう話なのだ。全体を支配しているのは倦怠感で、登場人物たちは現実のありように対して深く絶望しているか、無感動の状態にある。「あの男」が出現したためにどんどん人が死んでいるのだが、そうした非日常にもすでに慣れてしまっているように見えるのである。前出のスケボーを買うのが流行している理由は、歩道に染みついた血の痕を踏まないためだ。どんな非日常でも、続けて三日も生活してしまえばそれは日常の一部になるということである。
「夏毛におおわれた」の登場人物たちの絶望は、身近になりすぎた死に対するものではないように見える。〈わたし・その1〉ことふうこはモノローグで、全体と個を対比したとき、前者はあまりに大きく後者は小さいということを考える。「全体は全体のまま保たれて、ひとつ消えようがそんなことなかったかのように、全体は全体の呼吸をやめない」のである。このような世界と自分の関係に対して、本書の登場人物は常に過剰に反応する。世界は、自分がどうすることもできないものとして厳然とそこに存在するのだ。
 突然訪れた終末的状況を描く「夏毛におおわれた」は『文藝』2018年秋季号に発表された短篇だ。当時の読書界にどのような反応があったのかは知らないのだが、新型コロナ・ウイルスの流行拡大を食い止められずにいる2020年の夏にこれを読むと、小説と現実が重なりあっているように見える。自分の周りで世界が少しずつおかしくなっている、という感覚は2018年当時にもあったはずだ。かねてよりあった不信の念が新型コロナ・ウイルスの蔓延という現象によって一気に加速したゆえ、作品に対してそのような印象を持つのかもしれない。世の中に求められる小説になったのだ。
 もう一篇紹介すると、『文藝』2019年春季号が初出となる「冬毛にうずめる」は、「夏毛におおわれた」と対になる一篇である。この短篇の中では農家による冬毛栽培が行われている。それがどのようなものかはよくわからないのだが、うかつに触ると危険だと告げられる。バチン、という音がしてたいへんなのだ。この冬毛が流出し、世に蔓延してしまったため、「ひとびとはもう安易に外へでることはできない」という事態になっていく。
 もちろん、発表時期からして冬毛はコロナの比喩として書かれたものではない。だが、文明の拠って立つ基盤を揺るがすものであるという点は共通している。与り知らぬところで世界が変わりつつあり、何かのきっかけでそれが顕現するのではないか、という予感の象徴として冬毛は書かれたのだろう。登場人物の一人は冬毛を通してかつて焼け野原だった東京を幻視する。目の前にある現実がいかに確かで強大なものに見えても、それが永続するわけではないということを冬毛は示すのだ。
 奇妙なことに、剣呑な状況を描いているにもかかわらず「冬毛にうずめる」は、安住の地に帰り着いたような感覚、それこそ冬毛のようなふわふわした、柔らかい終わり方をする。「夏毛におおわれた」とは対照的だ。自分ではどうすることもできない世界が、その個人をくるんで終わるのである。ここに微かな希望もある。
 言葉で翻弄されているうちに、世界のありようにまで思いを馳せるというまたとない読書体験を味わった。驚異の新人と言うべきだ。読まねば損と言うしかない。


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