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連載

杉江松恋の新鋭作家ハンティング vol.57

作家は二作目が勝負! ――杉江松恋の新鋭作家ハンティング特別編・二作目特集

杉江松恋の新鋭作家ハンティング

新鋭作家の二作目特集!

書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、新鋭作家の今後を占う「二作目」にフォーカスした特別編。

 作家は二冊目が勝負だとよく言う。
 新人賞でも獲れば、デビュー作は何をしなくても注目される。だが次からはそういう特典がなくなる。だから第二作で真価が問われるということだ。第二作が評価されずに失速していった書き手は過去にも数多い。
 この連載でも多くのデビュー作を取り上げてきた。その第二作がどうだったかを知りたい読者も多いのではないだろうか。ゆえに今回は特別編として、昨年デビュー作が刊行された作家たちの第二作をまとめて紹介しておきたい。
 今年第二作が刊行された作家でまず挙げるべきなのは『おいしいごはんが食べられますように』(講談社)の高瀬隼子だと思うが、第百六十七回芥川賞という栄誉に輝いたことでもあるし、ここでは割愛させてもらいたい。あ、というか高瀬は『犬のかたちをしているもの』が第一作で、本欄で取り上げた『水たまりで息をする』(以上、集英社)が第二作だった。いきなり数え間違えたけど、まあいいや。突如一切の入浴を拒むようになった夫と妻の関係を描いた『水たまりで息をする』に続くこの作品は、表題からグルメ小説かと思いがちだが、そういうほのぼのした雰囲気とは無縁の不穏な小説で、登場人物を等しく突き放すような作者の視線に並々ならぬものを感じた。素晴らしい才能が開花したものである。
 青春小説を二冊。『マーブル』は、『檸檬先生』(以上、講談社)で第十五回小説現代長編新人賞に輝いた珠川こおりの第二作である。『檸檬先生』は音が色彩として見える共感覚の持ち主の視点から、世間で言う普通とは何かを問う作品だった。『マーブル』の主人公・茂果は地方出身の少女で、華々しい大学デビューを狙うも失敗、だが優しい美容師の恋人と巡り会って、幸せと言える日々を送っている。その茂果が、高校生の弟・穂垂は同性愛者ではないか、と考えるようになることから話は動きだす。茂果が最初に思うのは、穂垂はかわいそうだ、ということである。同性同士で恋愛をしてもこどもは産めないし、普通の家庭は築けない。だいたい穂垂の想い人、と茂果に見える相手はどう考えても異性愛者で、弟に恋愛感情はないようなのだ。そこで彼女は、弟の目を異性へと向けようとする。
 短絡的だ。あまりにも短絡的な茂果に、読者は怒りにも似たもどかしさを感じると思う。だが、これは作者の戦略で、世間にありがちな普通を求める眼差しとは茂果のような残酷さに満ちたものなのである。彼女が穂垂とどう向き合っていくのか、その中で自分の中にある普通の基準に気づく機会はあるのか、ということが物語の焦点となる。後半の展開が急ぎすぎで、茂果の独白に頼ってしまっている部分がある。これは『檸檬先生』のときにも感じた弱点で、もう少しゆっくりした物語運びでこの作者を読んでみたい。だが、ともすれば視野狭窄に陥りがちな若者の心情を描くのには、この速度が適しているのかもしれない。まだまだ発展途上で、大きな伸びしろのある作家だ。
 君嶋彼方『君の顔では泣けない』は第十二回小説野性時代新人賞の受賞作で、私が二〇二一年に最も感心したデビュー作の一つだ。その後君嶋はいくつか短篇を発表しているのだが、どれも巧い。あ、これはやっぱり凄い才能なんだ、と思っていたところで第二長篇『夜がうたた寝してる間に』(以上、KADOKAWA)が出た。デビュー作では人格の入れ替わりが使われたが、今回は、特殊能力を持つ者が一万人に一人の割合で生まれてくるようになった世界の話である。
 高校二年生の冴木旭には時間を止める能力がある。それを使っているために、彼は同級生よりも二年ぐらい成長が先んじているのだ。時間の止まった世界の中で日常的に過ごしているからである。高校には他にも二人の特殊能力所持者がいて、彼らは通常授業の他に、週に一度、自分たちだけのロングホームルームに出席する義務を課せられている。能力者を暴走させないための監視制度なのである。十八歳になったとき、彼らは選択を迫られる。そのまま一般社会で暮らすか、それとも能力者だけの共同体に移住するか。
 あいつらは違う、という区別・差別の視線を設定として盛り込んだ作品だ。物語は旭と旧友の益体もないおしゃべりから始まる。ずいぶん冗長だな、と思ったが、この作者が無駄な要素を入れるはずがない。その無益なおしゃべりは、能力者である旭が周囲と溶け込むための防護柵なのだ。どうすれば周囲と同じでいられるか、自分はなぜこういう自分なのか、という問いを描くための小説で、ある事件が起きることで旭は自身の存在理由を求めて思い悩むようになる。いちおうミステリーの構成を取っているが、それは旭の意識を尖鋭化するための道具立てに過ぎない。事件を通じて旭は、距離をとってしまっていた能力者の二人とも心の垣根を取り払って話せるようになる。そのときに旭は無駄に過ごした過去を悔やみつつも、それもまた自分たちにとっては必要な準備期間だったのだ、と悟るのである。彼がこの境地に至ったときに読者は、こみあげるような安堵の思いを覚えるはずだ。それこそがすべて。成長の痛みを描いた小説である。
 同じように青春小説の形式をとっているが、ホラーとしても素晴らしい出来なのが新名智『あさとほ』である。新名のデビュー作は第四十一回横溝正史ミステリ&ホラー大賞を受賞した『虚魚』(以上、KADOKAWA)である。人を死に至らしめる都市伝説の起源がどこにあるかを二人の女性が捜し歩くというのが主筋だが、死を強く意識した者が自身の人生を再建していくという成長小説の構造も備えた作品であった。『あさとほ』は散逸物語を軸とした作品である。物語の小説という性格は前作とも共通している。散逸物語とは存在について言及する資料はあるもののすでに失われてしまった作品のことで、大学の文学部でそれをゼミのテーマに選んでいた学生が奇禍に見舞われるのが前半の山場になる。「あさとほ」という散逸物語の写本を巡る奇譚なのである。
『あさとほ』のあらすじを紹介することは難しい。主人公の過去について語られる序盤が、散逸物語を中心としたそれ以降とどう関係するのかが小説の前半を読んだだけだとわからないからだ。一応書いておくと、語り手の夏日には青葉という双子の妹がいたが、彼女は突如行方不明になってしまう。あたかも最初からそんな妹はいなかったかのように、周囲の人間の記憶からは青葉の名自体が抜け落ちてしまうのである。一つの物語が別のそれによって上書きされてしまったようなこの出来事にどういう意味があるかわかるのは、読者がいくつもの驚くべき展開を乗り越えて結末に到達したときだ。非常に企みに満ちた作品で、『あさとほ』の完成度は『虚魚』をはるかに上回る。独自の着想によって書かれる場面の冴えや、静かで哀しみに満ちた幕引きなど、多くの美点を備えた作品だ。
 字数がなくなってきた。ミステリーで言及しておきたい作品二つを簡単に。突如AIつき自動掃除機になってしまった男の苦闘を描く『地べたを旅立つ』で第十回アガサ・クリスティー賞を受賞してデビューしたそえだ信の第二作『臼月トウコは援護りたい』(以上、早川書房)は、四つの事件を描く連作短篇集である。厳密に言うと『地べたを旅立つ』が刊行されたのは二〇二〇年十一月なのだが、せっかくだから書かせてもらいたい。構成は同じで、殺人事件が起き、警察が出張ってくる。容疑をかけられた人物がその対応に苦慮していると、必ず横合いから口を出してくる者がいるのだ。それが臼月トウコで、彼女が容疑者を弁護するために行った証言が、刑事たちに新たな発見をさせることになる。まったく有能らしく見えない人物が実は、という探偵小説と、犯人の偽装工作が意外な角度から露見する、という倒叙推理小説のパターンを掛け合わせたところに新味があり、醸し出される笑いもいい。軽やかな小説だ。
 大島清昭は第十七回ミステリーズ!新人賞を得た表題作を含む連作短篇集『影踏亭の怪談』でデビューした作家だが、それ以前から幽霊や怪談についての研究書の著作があった。その深い造詣を活かした第二作、初の長篇が『赤虫村の怪談』(以上、東京創元社)である。廃寺に出没する顔の無い怪物・無有、空を飛んで火災を引き起こす九頭火など、さまざまな怪異に関する伝説が残されている赤虫村で、有力者の一族が見立て殺人のような形で次々に殺されていく。その謎解きが主眼となる作品なのだが、村で信仰されているのが苦取大明神と聞いただけでホラーファンは、あ、と思うだろう。苦取はクトル、つまりH・P・ラヴクラフトが創造し、熱狂的なファンと多数の二次的な創作物を産むことになったクトゥルー神話が下敷きになっているのである。作中に出てくる固有名詞もクトゥルー起源のものが多数含まれる。ミステリーとクトゥルー要素の組み合わせがどうなるのか、という興味で読ませる話になっているのだ。趣向が先行しすぎている感は否めないが、おもしろく読めるし、何より新旧にわたる作者の怪異に対する知識がごく自然な形で物語に溶け込んでいる点がいい。ミステリーよりも妖怪小説としてこれは楽しんだ。
 もう一作意欲作を。荻堂顕『ループ・オブ・ザ・コード』である。荻堂のデビュー作は第七回新潮ミステリー大賞を受賞した『擬傷の鳥はつかまらない』(以上、新潮社)だ。SF的な設定を犯罪小説の物語展開に用いた着想がよく、単に新奇さを狙っただけではなく、読者の心を動かすだけの意味があった。本作は新型コロナウイルス流行によって大きく動揺させられた世情とも合致した内容で、とある疫病禍が過ぎた後の世界が舞台になっている。世界を滅亡させかねないほどの過ちを犯したある独裁国家は、一切の歴史を抹消され、世界から消え失せた。別の歴史を上書きされ、新生国家イグノラビムスとして生まれ変わったのだ。そこに世界的秩序維持機関から調査グループが派遣されることから話は始まる。多くの児童の間で原因不明の疾病が発生したのである。かつての悲劇を繰り返さないために、病の原因を迅速に特定しなければならない。同時に、イグノラビムスでは不穏な事態が進行しつつあった。疫病禍を引き起こしたウイルスを生物兵器として用いようとするテロリストの存在が確認されたのだ。主人公たちはそちらの対応にも追われることになる。
 プーチン大統領によるウクライナ侵攻は、大ロシア帝国復興という幻想によって歴史を上書きせんとする行為である。本作では、上書きによる歴史の断絶という大きな状況が背景に置かれ、自身の人生に不安を感じる人の物語が個々に描かれていく。出産によって世代交代が繰り返されていく家族とは、歴史を継承していく最も小さな社会単位である。家族という時間が連続する中に自分は生きていけるのか、という存在の不安が描かれる小説なのだ。大部の作品で、二段組み四百ページ超という分量は読みごたえがある。第一作では一人称犯罪小説の形式を用いた荻堂が、今度は諜報小説に挑んだ。社会全体を描こうという意欲に満ちた冒険作であると思う。
 最後に、これも二冊目には該当しないのだが鯨井あめ『きらめきを落としても』を紹介させてもらいたい。第十四回小説現代長編新人賞を受賞した『晴れ、時々くらげを呼ぶ』で二〇二〇年にデビュー、第二作として『アイアムマイヒーロー!』(以上、講談社)も刊行されている。本作は著者初の短篇集だ。
 鯨井作品はうっかり取り上げそびれていた。もう少し正確に言うと『晴れ、時々くらげを呼ぶ』のあとで『小説現代』に発表された「ブラックコーヒーを好きになるまで」と「上映が始まる」を読んで、あ、長篇より短篇のほうが好きかも、と思い、そちらで紹介しようと思っているうちに先に第二長篇が出てしまった、というのが本当のところだ。「ブラックコーヒーを好きになるまで」は斜に構えがちな主人公が自分と向き合うまでを書いた作品で、私の好みから言えば話の持っていきかたがやや性急にすぎる。だが「上映が始まる」がいいのである。天文学専攻の大学生が、流星群を観察しようとして夜道に望遠鏡を持ち出し、同じ大学の文学部に通う女性と出会う、というお話だ。詳しくは書かないが、すべての人に優しくあろうという作者の気持ちと書きようがうまい具合に吊り合っていて、大きな事件が起きるわけではないのに心を揺さぶられるものがある。「僕はちょっとだけ泣きそうになった」という一文で物語は結ばれるのだが、私もちょっとだけ泣きそうになった。いいのである。
 次の「主人公ではない」はSF的着想の話で、これもいい。主人公たちの背景で必死に頑張る嶋村という大学生を応援したくなる。この作品とあと二篇が書き下ろしである。ヴァイオリンを題材にした「燃」、小説を書くことについての物語である「言わなかったこと」の二作である。両作の構造は似ているが「燃」には心の中に創造への意欲が灯り始める瞬間を描いており、「言わなかったこと」は理想と現実の狭間で揺れる心を描いた切ない物語である。どちらも胸に滲みるのだ。技巧に感心したのがもう一作の雑誌掲載短篇である「ボーイ・ミーツ・ガール・アゲイン」で、スクリューボール・コメディの佳品としてこのまま映画化可能な出来栄えである。遅くなってしまったが、鯨井あめ、いいぞ。「きらめきを落としても」という作品はない。収録作のどれかにある場面にちなんでつけられた題名だがあえて説明しない。読んで探して納得するが吉である。


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