破格の乱歩賞受賞作――杉江松恋の新鋭作家ハンティング『此の世の果ての殺人』
杉江松恋の新鋭作家ハンティング

荒木あかね『此の世の果ての殺人』書評
書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、破滅寸前の世界で謎の殺人事件が起きる一冊。
これぞ破格の受賞作。
帯に「史上最年少、満場一致」「『大新人時代』の本命!」と煽り文句がある。
荒木あかね『此の世の果ての殺人』(講談社)は、第六十八回江戸川乱歩賞に輝いた作者のデビュー作だ。受賞時、荒木は二十三歳であったという。読みながら、若い感性で書かれた作品だな、とは思った。しかし文章にまったく未熟さを感じさせるところはない。すでに完成されたものを持っている、と賞賛の気持ちを覚えながら読んだ。そして、あるところで強く感心した。この感心した理由を説明すると長くなるので、後回しである。まずはあらすじと基本設定を。
語り手の〈わたし〉が福岡県の太宰府自動車学校で路上教習を受けている場面から物語は始まる。県内の北谷ダムへ向かっていた車は山中で、そこにぶら下がっていた「得体の知れない何か」と遭遇した。枝が折れて落ちてきた物体が、フロントガラスに罅を入れる。それは男の首吊り死体であった。
ミステリーの出だしとしては十分にスリルが充溢している。だが、この場面の前に不穏な会話が置かれているために、読者は恐怖だけではなく、困惑の感情を覚えるはずである。助手席に座っている教習所のイサガワ先生は〈わたし〉が十七歳の弟と二人だけで暮らしていると言うと、こんなことを聞いてくるのである。
「――みんな逃げてないの?」
おかしいだろう、その質問。それに対して〈わたし〉は、母は着の身着のまま逃げた、と答える。そして
「父は一昨日自殺しました。今はわたしと弟だけです」
この状況はなんなのだ、と思う暇もなく車は山中に入り、前述の首吊り死体と出くわすわけである。読者を前のめりにさせたかったらまずは謎を提示せよ、そう、その通り、と存命なら大乱歩も目を細めたであろう。
何が起きているのか、は二十五ぺージめになってようやく説明される。直径七.七キロメートルを超える小惑星〈テロス〉が二〇二三年三月七日に地球と衝突することが観測によって判明する。予想される衝突地点は熊本県阿蘇郡付近である。この大きさの天体がぶつかれば、日本どころか世界全体が破滅する。そのことが発表された瞬間から大混乱が起き、文明社会は壊滅状態に陥った。
落下まで残された日数はあと六十七日、少しでも生き延びる可能性を求めて大移動が始まり、日本にはほとんど人が残っていない。まして災禍の中心となる九州になど。なのに〈わたし〉は自動車免許を取得するために教習所に通い、イサガワ先生はそれに付き合っているのである。なんでそんなとぼけたことになっているのかは、おいおいわかってくる。
〈わたし〉は、教習車のトランクに死体が詰めこまれているのを発見する。刺傷があり、明らかに他殺死体である。それを見た〈わたし〉の頭には次々に疑問が湧いてくる。犯人は誰なのか、どうやって死体を運び込んだのか、というのは些細な謎である。それよりもっと大きいのは、もうすぐ世界が破滅するのに、なぜ犯人はわざわざ人を殺したのか、という動機の問題だ。〈わたし〉とイサガワ先生の二人は、福岡県内を移動しながらこの謎解きに挑む。
死体を一目見た先生が、被害者の職業が弁護士であることをシャーロック・ホームズのように言い当てる場面がある。そこを読んだだけで、あ、作者はミステリーの感覚に慣れている人だな、とわかる。最初は五里霧中の状態から始まり、犠牲者の身元など情報が少しずつ判明していくにつれて、事件の輪郭が見え始める。塑像の骨組みに粘土を貼り付けていくような感覚だ。事件の性格が少しずつ変化していく中途の展開は、ざっくりした言い方をすれば勘がいい。読者の関心を薄れさせないためには何をすればいいかを作者は熟知しているのだろう。
また、犠牲者が殺害されたときの状況など、物的証拠をはっきりと読者に見せるのもフェアプレイの精神に則っている。謎解きの後で読者がそこに戻れば、真相を示す手がかりが示されていたことに気づくはずなのである。選考委員の綾辻行人は「(謎解きは)やや易しすぎると感じる向きもあるかもしれないが、伏線やロジック、トリックを扱う手つきから、本格ミステリーの骨法もよく心得ている書き手だろうと察せられて頼もしい」と書いている。そうなのである。見た目の派手さではなく、中に構築された推理の骨組みをいかにしっかりしたものにするかに意を尽くした作品なのだ。
私が感心したというのは後半で、ページ数がかなり少なくなってきた付近で、ある新事実が明かされる。これはミステリーとしてはあまり奨励されないやり方なのである。いたずらに情報提示を引き延ばしたと思われかねないからだ。ところがこの後出しじゃんけんが不誠実に感じられないのである。なぜなのか考えてみたが、読者の側に準備ができていたからだと思いついた。つまり、いずれその展開があるだろう、この手がかりはそれを示しているはずだ、というような暗示的な伏線が前半から置かれているために、その新事実が見えたときに、ほら来た、と歓迎する気持ちが起きるということだ。これは結構難しい技巧だと思う。ミステリーの手がかりとはこう書くのだ、というお手本なのだけど、作家志望者に真似してみろとは到底言えない。たぶん失敗するだろうからだ。このくだりを読んで、荒木あかねという作者を尊敬した。すげえな、この作家。
〈わたし〉とイサガワ先生の謎解き旅はロード・ノヴェル的展開になる。つまり、お互いのことをよく知らない同士が、旅の時間を通じて相手を理解していく小説ということだ。さらに、二人だけの旅は途中から賑やかなものになる。どう賑やかになるのかは書かないほうがいいだろう。世界が破滅するまでの物語なのに、賑やかで、心和む雰囲気になっているのである。小説の根底にあるのがヒューマニズムだからであろう。単なるお涙頂戴ではない、人間性への信頼を描いた真の意味でのヒューマニズム小説だ。
こころゆくまで褒めたとは言い難いのだが、このへんにしておく。とにかくすごい新人だ、荒木あかね。乱歩賞を獲った者は第一作の短篇を「小説現代」に書かなければならないという義務がある。同誌九月号に載ったのだが、その「同好のSHE」を読んでまたびっくりした。過去に書かれた乱歩賞作家の受賞後第一作でもピカイチの巧さではないだろうか。荒木あかね、長篇だけじゃなくて短篇もいけるのである。