心の中にこそ奥深い謎がある――杉江松恋の新鋭作家ハンティング『エフィラは泳ぎ出せない』
杉江松恋の新鋭作家ハンティング

五十嵐大『エフィラは泳ぎ出せない』書評
書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、自身の知らなかった過去と対峙する一冊。
人間を立体的に描くことに、果敢に挑戦したデビュー作である。
五十嵐大『エフィラは泳ぎ出せない』(東京創元社)は、時間を巻き戻すことによって主人公が自身の知らなかった過去と対峙しようとする物語だ。小説を通じて作者は重い主題を綴ろうとしているが、それに振り回されずに秘密の物語として読み応えのあるものにすることに成功している。個々の登場人物に明確な性格付けを与え、それぞれに納得しうる個人史を背負わせたのが勝因だ。よく造形された登場人物には魂が宿り、物語を自然に動かしてくれるのである。
フリーライターの小野寺衛は故郷を捨てた人間だった。宮城県の海沿いの町、松島に生まれ、高校卒業までそこで過ごした。家を出たことには兄の存在が影響している。兄の聡には知的障害があった。兄弟は仲良く育ったのだが、ある時期から衛は聡を疎ましく感じるようになった。東日本大震災による避難生活は人心を荒ませた。兄に障害があるということで衛が肩身の狭い思いをするような場面があったのである。それがきっかけで、衛はまず兄を、そして家族を捨てた。
その衛に聡の訃報が届く。驚くことに、死因は自殺であるらしい。葬儀のため、衛は七年ぶりに帰郷するが、兄の死に対する疑念は解消されることなく、次第に胸の中で大きくなっていく。通夜の会場を抜け出して聡が命を絶った場所であるという海岸を訪ねた衛は、兄が倒れていたという双子松の根元に腰を下ろす。死の瞬間に思いを馳せようとして。
だが。
――聡がなにを考えていたのか。なにを思ったのか。なにに悩み、悲しみ、苦しみ、葛藤し、絶望し、そしてなぜ死を決断したのか。想像の中にある聡の体と自分とをいくら重ね合わせても、それだけはまったくわからなかった。
兄弟であっても別の人間であれば心は離れており、我がものとして推察することはできない。それをしようとするのは単なるエゴイズムである。また、七年もの断絶があるのだから、その間に他人の心中に生じたであろう変化は容易に理解できるものではない。衛はそのことを思い知らされる。それが物語を先に進める動力になっているのだ。失われた七年はすなわち真空であり、そこに物語が吸い込まれていく。
各章ごとに視点人物は交代する。第一章は衛、第二章は兄弟の父である小野寺健蔵だ。彼は肉親の愛に恵まれない少年時代を送った人物である。その体験がどのように家族に影響を及ぼしたか。第三章の語り手は涌谷妙子、衛たちにとっては母方の伯母に当たる人だ。母・恵が病を得て亡くなった後は、その代わりとして一家に愛情を注いでくれてきた。そして第四章は兄弟の幼馴染である酒井百合。障害者就業のサポートをしており、生前の聡に仕事を世話したのも彼女だった。百合は聡の可能性を信じ、自立して生きられる一個の人間として接していたという。
不審死を扱ったミステリーなのだが、故人の周囲にいるのがすべて善意の人々であるという点が重要だ。本書にはわかりやすい悪意や暴力は出てこないのである。善意によって築かれ、守られている世界でありながら、そこで不幸になり、生をまっとうできない人が出てしまった。その不思議を描く作品である。いや、不思議と感じるのは物の見方によるものかもしれない。複数の視点人物を配することで、作者は多方向から小野寺聡が過ごした七年間を描いていく。それによって判明するのは、どこから当てられた光であっても、必ず影の部分は生じるということだ。光の側から見る人は、己の見えない場所に影があっても気づかない。見ることを無意識に拒むのかもしれない。視点の変化はそのことを読者に気づかせるだろう。善意で支えられた世界の影とはどこにあって、どのような濃さを持つものなのか。今ここにはいないはずの小野寺聡が現れ、その表情を見せてくれるようになる。
ミステリーとしては複雑な趣向があるわけではないが、心の中にこそ奥深い謎があるということに改めて気づかせてくれる小説である。最初に書いたように主題は重いものだが、小野寺聡の心を知りたいという強い欲求を読者に起こさせることに作者は徹し、自身の主張が前に出ないよう、極めて慎重な姿勢を保っている。その抑制がエンターテインメントとしての語りを成立させているのである。知りたいという思いが発見につながる。小説の中に自分自身を投影する読者もいるだろう。自分が知らなかったこと、見ようとしてこなかったことが気になり始める。そういう小説なのだ。
小説はこれが初めてだが、作者にはエッセイの著作がある。五十嵐は両親が聴覚障害者で、自分は聴こえるというCODAとして育った。自身の半生を通じたことについて思索を重ねた結果が本作に結実しているのだとも言える。人間を描く上での公平な視点、決して結論を急がない書きぶりなどは非常に好ましいものだ。なんらかの新人賞を経由して出てきたわけではない書き手に対して、書評家は普通猜疑の視線を注ぐものである。厳しい競争を勝ち抜くことなくデビューにこぎつけても書き続けられるかどうかはわからないと思うからだ。しかし、五十嵐は書けるだろう。書ける人だ、と本作を読めば誰もが感じるはずである。